このブログのエッセイ『昭和とはいかなる時代であったか』で政夫くんのモデルとして時々登場していた父が、ついに人生の幕を閉じたのは昨年の7月のことだった。

 

以降、父と交信しているのであるが、

 

先日来、ふいにチラチラと父の生前を思い出し「あの時あんなこと言ったりしたり為たのは愚かだったな、そっちに行って少しは成長したか」などと問い掛けていた。

 

今日になって父は、魂が「死ぬ間際に1000倍になっとった」と伝えてきた。あの三ヶ月、さらに死を覚悟してからの七日(なのか)、物言わぬ一週間の内に、魂は学び成長し1000倍になっていたというのだ。

 

1000倍とはかなりの増大に思える。父もどちらかと言えば喜んでいるようなニュアンスだった。係りの人に、人生の『進化成長曲線』でも見せられたのか。最後にポンと跳ね上がっているグラフを見て、思わずほころんだ。

 

魂が原子核の集合体だとすれば、中性子と陽子の結合した粒子であるので肉眼に見えないツブの集まり、重力の影響を受けないので重さはない。ビーズに例えるなら100粒が、ーーいや物理世界にまで足を伸ばしているわたしたちが実感しやすいように重さでいこう。

100グラムだったビーズ玉の塊が1000倍だと100、000グラムになったのだ。堂々の100キログラムである。

手のひらに収まっていた軽い山が抱えきれないくらいの重さになったのだ。

実際には、電子がないので『質量』の内、量がなく『質』だけである。

もっと卑近な例に還元するなら、ずっと10万円だった給料が一気に1億円になったと言えばもっと解りやすいかもしれない。

 

86年というスパンの、始まりから終わりで様々な体験を経、進化と退行、停滞をしてきて、最後の最期に1000倍になったのだ、ひとまず目出度い。

 

だが、とわたしは計算し直す。1000倍とは10の3乗。くだんのデビット・ホーキンスの指標では3なのだ。

1から1000の幅の中の3。生まれた時の持ち点あるいは直前の指数から3点だけ増加したということだ。

80でスタートしたとすれば、紆余曲折あって、亡くなった瞬間に83になったということだ。

 

ほとんど変わらない。

 

10万円が1億円の規模に増えても、魂の指数ではに過ぎないのだ。

 

ーーどうせ俺なんて

ーー何をやっても同じ

ーー俺なんかどうなったっていい

ーー俺がいようがいまいが、世の中変わらない

ーー世の中そんなもの

ーー俺がバカになって済むならバカになっておこう

ーー期待したのに裏切られた。ならば初めから最低の期待をしておこう

 

などなど。

 

諦めに諦めた投げやりの人生、ごまかしの人生を送ってきた最後に1000倍にも跳ね上がったのに、俯瞰してみれば、たったの3だけレベルが上がったにすぎなかった。

 

このことを知った時、わたしは涙がちょちょぎれそうになった。

 

この父を幼少期から眺めながら、こんなに周囲に迷惑をかけ、痛い思いをさせたり嫌な思いをさせたりしているのに、何も学習しないやつだと感心していた。

 

なにか、彼なりの窮地があり成長しようとするのだが、すぐに元に戻る。ーーもう死のう。

そんなことばかり考えていたにちがいない。ーーでも、俺がやらなければ、家族はどうなる? 

それだけが支えだった。

 

たった一つ瑕疵があればすべてが台無しだという信念を持っていた彼は、自分の人生も早々に諦め、ほとんど消化試合のように暮らしていた。耳が遠く学歴の低い自分は何をやっても、どうせダメだとしたり顔で宣言していた。彼が読書をやめたのは、わたしの記憶ではわたしが6歳頃のことだった。

五島勉の『ノストラダムスの大予言』と、同じ祥伝社から出ていた『運命決定論』という本を読んだのが最後だった。父にとってその2冊は「なにをやっても無駄」という信念を強化するのに役立った。

 

それまでは松下幸之助の教えを取り入れた会社が社内文庫を設置していたので、吉川英次の歴史小説や、なんと岩波文庫や日本の神話なども読んでいたのだった。

わたしの名前に『信』の字を入れたのもその影響だった。

 

だが早生まれのわたしが小学校に入学する頃にはすっかり活字から離れていた。ーーこれがどれほど精神の弱体化を招くか。そして魂を眠らせるか。わたしは彼から学び、中学時代を除いて、ずっと本を読み続けてきた。

 

もちろん、彼がそれなりに打ち込んだこともある。長島茂人と同じ年の生まれで、元来好きだった野球は年を取ってからもソフトボールに転向してでも続け、何か大きな大会で最優秀選手賞を獲ったほどだ。

 

また、生来、器用な人であった。器用であったが、どれも物にならず、そのことを母はいつも嘆いては長い間執拗に励ましていたが、そのうち放棄した。大工仕事はもちろんのこと、お謡い、水墨画、盆栽、など習い事はどれも素人を超えた域に達した。だが、どれもできるところまでしかやらず、限界突破をすることがなかった。

魂が飛躍的に成長するのは、もしかするとその部分から上なのではないかと思う。

 

そうしてだんだん、いや急速に堕落し、先述した底辺の信念に落ち着き、ついに倒れるまでそれから逃れることができなかった。

 

だが、この『3』は本人にとっては大きいのではないかとも思う。仮に、98だったのが101になっていたとすれば、霊性4次元帯域の中でもステージが違ってくる。

要するに、魂の質があがったのである。次の人生ではその質でスタートすることになるのだ。

 

しかしその物理的実践は、次の転生においてに持ち越された。

 

数日前から横腹の調子が悪いと訴えていた。様子を見に行くと顔が黄色くなっている。入院した日に十二指腸が破れ下血。

 

若い当直医が適当な見立てをし、その見立てに合うように「二、三ヶ月前から黄疸が出ていたはずだ」と言った。さらに「奥さんはなぜ気づかなかったのか?」といぶかった。

だが、わたしたち家族はひと月前にも訪れて彼の様子を見ていたし、わたしもほんの二週間前に行って会ったばかりで、その時は普通に歩いていたし黄疸など出ていなかった。

 

だが恐ろしくなった父は心細くなり、いつもの諦めを発動した。

「もういい、早く死なせてくれ」

と訴える父、まるで自分を傷を負った魚くらいに見なしている。

しかも、手術してとりあえず命を取り留めてくれた医者に向かって言ったのは、なかなかジョークが利いている。

 

「とにかく一回治ろう、そうでなければ苦しいまま死ぬことになる」

 

帰宅しベッドに伏した父に、わたしは死ぬ直前まで進化することを勧めた。

 

諦めた信念、

自己否定を続ける、

痛み止めの常用、

テレビにほだされてワクチンを律儀に打ち続けた、

根深い憎しみ、

 

何年も前から言いたかったが、聴く耳のない父に取り付く島はなかった。わたしには、なぜ父が原因不明の腰の痛みや肩の痛みがあるか知っていた。だが、なかなか言い出せない。

しかし数年前、数年間悩み続けた『乾癬』をどうにかしたがっていたので「治したい?」と尋ねた。う、うん、と答えるので、その時には処方することができた。父の頭部から首にかけて出来ていた乾癬は知らぬ間に治ってしまったが、父はわたしの『話し』でそうなったとは関連付けることができなかった模様だ。

 

これから内臓に何か出てくることは予見できた。だが、毎日血圧を測り、それなりに食べ物に気をつけているつもりの父に入り込む隙間はなかった。

いつか、畑で採れた無農薬のじゃがいもを持って行くと、それを見た父が即座に「こげんとは、店で買った方が安くてたくさんくる」とコメントした。その考えは、経済優先の現在において、体調不良への近道である。

 

家に戻ってきてしばらくした時、夜中に父が高熱を出し苦しみもがきはじめたので、背中をさすし落ち着かせ、言い聞かせた。

 

苦しいから一回元に戻ろう。できることなら悟ろう、そうすれば病気などなかったことになるから。そしてあらためて、寿命になってから死のう

 

父は回復した。

 

ベッドに伏すまで四六時中訴えていた腰や肩の痛みさえなくなった。尿道から膀胱に入れていたバルーンも看護師や医師に「責任はわたしが取りますので」とお願いして外してもらった。それで、すべての痛みはなくなった。

 

彼が癌だと診断された根拠は、黄疸が出ていたのと、術後「痛い、痛い」と訴えたから。食事を拒否しリハビリやらず「もういいから、早く家に帰せ」と言ったから。細胞を採取し培養して確定したのではない。

父の性格を知っているわたしには、家に帰りたいから仮病を使っているのだと解るが、病院で仮病が通用するはずがない。まじめでステレオタイプの医師や看護師には、癌による疼痛とか倦怠感と映る。実際、受け渡し書には明確にそう記してあった。

場をわきまえろ

とわたしは諭した。「学校で痛いと訴えれば病院に行くことができるだろうが、病院で痛いと言えばなんらかの処方がされるよ」

それで飲む必要のない薬剤をたんと飲まされ点滴に混ぜられた。

「痛いと言えば、早く家に帰れるどころか入院が長引くよ。先生たちには責任があるから」

父は納得した。

また点滴の針を自分で抜き取ったり、バルーンの管を握って「引き抜くぞ」と脅したりしたそうだ。

これも家に帰りたい一心で打った芝居なのだとわたしには解った。

コロナのために面会謝絶、耳の遠い父に電話でしか話ができず「ちゃんと迎えに行くから今は看護師さんの言う通りにやってくれ」がうまく伝わらない。

退院予定日を超え、さらには診立てよりも状態の悪くなった父は特別のはからいで個室に移され、そこで看護師立会いのもと、やっと直接に話すことができた。

こうなるともう、癌ということにしておいた方が行政サービスも受けやすくなってしまった。

医者には「わたしが責任を持ちますので」と言って退院させてもらった。

 

ここでは趣旨がちがうので詳しく述べないが、彼が衰弱した要因は、死後、水ぶくれのように右の太ももからふくらはぎにまで通路を作って漏れていた、薄い黄色の胆汁にあった。入れていた管が外れ胆汁を防ぎしれなかったからだ。

さんかげつ間、寝たきりとなった父は、いわゆる癌の症状とされていることなど何一つ発症しなかった。

だが胆管が弱っていたのは事実であり、それがぐだぐだになっていた理由は、ーーまた後日詳しく述べることにする。

 

ともかく、早とちりと諦めによって父は寿命を縮めのだと思う。せっかく長生きできる体を持ちながら。

また、介護の期間中の母の言動には目を疑うことも多々あり、女房事故というのもあるのではないかとも思った。誰と結婚するか。(両親の様子をみて、わたし自身が妻にとって旦那事故になってやしないか振り返った)それも寿命とかかわっているように思えた。自分が成長して相手に影響を与えるか掛け違えたボタンは早く元に戻すか、そんな決断をするかしないか。

だが、人間そんなものかもしれない。寿命なんて、そんな小さな選択も絡んでくるのだろう。誰と結婚するか、その人とどんな関係を創造していくか、それも自分の寿命(死期)を決めているのかもしれない。

 

おそらく父は死の間際に、それなりに感謝した状態で離脱したのではないか。それが最期に魂の1000倍になった原因であろうと思われた。

 

いずれにせよ、父は次に進もうとしたのにちがいない。だが、一度治り回復したのは事実である。

 

解毒し、毒の少ない食べ物や飲み水だけを摂取して数週間すると父の顔は若返り、60歳の時に撮った写真と同じになった。自虐的で諦めたような信念をひきずった物言いも減った。

体温も血圧も心拍も酸素濃度もしばらくの間、ずっと正常の枠内に収まっていた。治りそうな気配に、介護士さんたちや設備の提供者さんたちの態度も変化した。

「死ななくてもよかったのに」

というわたしに父は、死を決意した理由を死んだ後に伝えてきた。

 

顛末を一部始終、つぶさに書き記す機会もいずれ持つこととしよう。ここでは書かなかった不思議なこともいくつかあった。

 

夏の暑い日のつづくある朝、父は息を引き取った。

 

そしてそれ以来、彼との交信が始まった。

 

 

 

 

(2023年 3月2日投稿)