霊性の高次元化でこれまで解らなかったことが明かされるのではないかと思っている。以前、同じ趣旨で未解決事件も取り上げた。
今回は、戦国最大の謎とされている『本能寺の変』の全貌、解明を行なった。
(西暦1582年 5月15日~17日)織田信長は、甲州征伐で武田を滅ぼした際に功労のあった徳川を祝賀パーティー(饗応)に呼ぶ。
信長、徳川を接待し毒殺しようとしたが、明智が差し替えて救った。あるいは指示を無視し毒を盛らなかった。
信長の言う「その魚は腐っているのか?」は「しくじったな」という意味。毒を入れていなかったのか? と。
あるいは、腐っていたことにして死因を逸らそうをしていた。
「腐った鯛を出すとは!」
と光秀を叱責することで、印象付けようとした。
鯛を食べた徳川が死んでも、それは鯛が腐っていたせいだ、となる。
信長は最も信頼していた光秀にそっとささやき、徳川を暗殺しようとしたのだ。
ともかく、明智に饗応接待役を任せ、徳川を毒殺しようとしていた。ところがその明智は徳川を殺さなかった。
ところが、うまくいかなかったので明智は接待役を外された。かわりに中国攻めの兵を整えるよう指示される。
京都や堺見物の名目で、信長は徳川を京の本能寺の前面向かいにある『茶屋四郎次郎の屋敷』に宿泊させた。
6月21日午後、信長は京、本能寺に入った。やられてはかなわんと徳川は早朝、堺に立った。(1582年)
中国、高松城を攻めている秀吉が信長に援軍を要請。信長に手柄を取らせようとする秀吉の配慮であったとされる。が、ーー。
信長、明智に中国攻めの兵を指示。それと共に中国に行く予定だった。
6月21日午後、信長は森蘭丸をつかわし毛利攻めに合流しようとしていた明智軍を京に入るよう指示。徳川を討つと同時に、天皇の命も狙おうとしていた。少なくとも、軍勢を御所に入れ威圧しようとしていた。
だが同時に、信長と長男信忠の二人がわずかな手勢だけで京にいるのは、明智にとって一網打尽にできる千載一遇の機会。
明智は重臣にだけ打ち明け、いくらかの軍勢を率いて本能寺に入る。
信長は、明智が謀反を起こすとは思ってもみなかった。徳川と天皇を同時に手にかけようとしたところを逆に明智に突かれた。
明智は、大和朝廷を護持すると同時に四国の長宗我部滅亡を防いだ。
【本能寺の変 以前】
信長は、宿敵武田信玄と上杉謙信を毒殺していた。忍者を使ったものと思われる。(各々1573年5月13日没 1578年4月19日没)
残る敵は、中国/毛利、四国/長宗我部、東国/北条、上杉家。毛利は秀吉の手に落ちそうになっていた。長宗我部も、大阪に軍を集結し侵攻直前たった。
信長に刃向かうことのできる勢力がなくなるのは時間の問題であった。
秀吉は、天下取りの好機とした。中国大返しを敢行、反明智勢力(織田家など)と合流し、山崎の戦いで明智討伐に参加した。(1582年7月2日)
明智に加勢すれば、計画的謀反であった疑いが持たれるのでできなかったろう。織田家を敵に回すのは、他の戦国大名すべてを敵に回すことである上に、明智の構想では足利の復活、擁立であるため天下統一の野望は成し遂げられない。
だが実際には、様子を伺いながら戻って来た。明智討伐については黒田官兵衛の後押しもあったろうが、あとで秀吉が宣伝したような「大返し」ではなく、日和見しながら戻って来ていたようにも見える。
徳川は出征するようなしないような態度。命がけの伊賀越えをしたのに、挙兵は山崎の戦いに間に合わなかった。ーー明智を討つつもりはないが、信長の仇を取るポーズだけはつけておいた。
これには、背後からの北条を牽制するという理由もあったろう。だが、堺では「信長様の仇を討ちに行く。できないなら腹を切る」などと言っていたのにいざ岡崎に戻ってからの動きの遅さは北条対策だけではなかったにちがいない。
秀吉は、明智が機会をうかがっていたのを事前に知っていたが、本能寺の変の日に決行するとは思っていなかっただろう。毛利攻めに賛同するはずの軍勢が出立する日に本能寺に呼んだのは他ならぬ信長だった。秀吉にしても光秀にしても、偶然が重なった故に起こしえた事件だった。
天皇に指図するようになった信長は、大和朝廷を凌駕し転覆させようとしてるにちがいない。
そう思われても仕方のない行動をしていた。
室町幕府 足利義昭を追放
信長が朝廷からの官位を断る(三職推任問題)
正親町天皇に譲位を迫る
安土城 天守閣 自分の下の部屋に天皇を呼ぶ
など。
信長は、初期・中期には天皇を中心とした国、戦乱のない日ノ本のために動いていた。だが、終期には考えが変わっていた。信長の思想・信念が終始一貫していないことに注目するべきである。
イエズス会からヨーロッパの事情を聴いたことも影響している。イエズス会は信長を利用して天皇を殺し、朝廷をなくし、さらに信長を手先にして、侵略のあしがかりにしようとしていた。インドを植民地化した方法である。各地の諸侯を籠絡し、しまいに全体を乗っ取った。
大六天魔王と異名を取る、というか自分でそう称していた信長は、狂人の振る舞いをするようになった。
信長は天皇の配下でなく、自分が天皇の座に代わろうとした。このことを陰陽師が読み取った。
信長の腹と陰陽師の洞察に関しては、資料を基にしてしか推察できない研究者の限界である。物的資料のないことだ。
サタン=大魔天子に取り憑かれたディープ・ステートの存在は、現在でこそ明らかになってきたが、この時代にもあったのだ。
ザビエルはまだしも、ルイス・フロイスなどはその先鋒と言える思想の持ち主であることが彼の残した資料から読み取れる。
臣民と天皇の一体性という日本の国体の破壊・恐怖に基づいた邪教(=ローマ教を乗っ取ったキリスト教)の布教・神道の蹂躙を目していた。信長がそれに乗った。
混乱と殺戮、奴隷支配、苦役労働、搾取、恐怖、阿鼻叫喚・・・。そうした世界の蔓延をサタン=大魔天子に取り憑かれたディープ・ステートは目指している。表向きは、平等や博愛、自由競争、身分にかかわらない優秀な人材の登用などを掲げながら。
朝廷は、いくさのない平和な日ノ本を志しながらも、敵のいなくなった武力覇王はその存在を脅かすどころか破壊し、転覆させる危険性が高いと感じた。それでは千年国家の国体が台無しになるからだ。(個人の地位や名誉や生活を失う恐れもあった)
室町幕府筋の重臣、公家衆、近衛前久、吉田兼見、勧修寺晴子などの意向は常々聞いていたし、
「天皇の御意向」といって、左大臣一条内基、右大臣二条昭実などが「勅命を出すゆえ」とまず、秀吉に信長暗殺の話を持ちかけた。
秀吉は困り、盟友前田利家に相談する。利家は徳川に相談する。秀吉は、足利や朝廷と親しい光秀にも相談する。光秀には以前より、公家衆から信長の危うさを聞かされてもいた。自身も、つとに感じていた。秀吉に相談された光秀は、家康に支援要請した。
4人で話をし、明智に実行してもらおうということで決着した。
その好機が、1582年の6月21日に訪れたのだ。
秀吉は天下取りの志があった。
主君を暗殺した謀反人と手を組むのと、主君の仇討ちをするために謀反人と対峙するのはどちらが世間の聞こえが良いか。中期までの信長の意思を受け継ぐ形で進むのがスムーズと考えたのだろう。
狂人の振る舞いを見てきた秀吉にしても、明智が信長を討つことまでは共有できるが、その後は己の身の振りは別だった。明智に義理はないし、天下取りの夢が優先された。
接待で、明智が徳川を殺さなかったのは、信長暗殺の仲間だったからだ。
徳川暗殺の情報は明智から徳川に密通されていた。毒殺は逃れたが、京でやられるかもしれないと、故意に信長とすれ違った。それで、6月21日は信長の到着を待たずに堺に立った。さらに、堺見物後に再び京に戻らず岡崎に帰る準備をしていた。
饗応の席で仕留められなかった家康を軍勢をもって切り殺すよう、信長は明智に指示していたのだろう。
徳川は、堺から京本能寺に戻るルートでないルートで離れ、そのまま伊賀越えをして岡崎城に逃げ帰った。(190キロを2、3日で踏破。200キロを7日かけて帰ってきた秀吉より早い)本能寺には初めから戻るつもりはなかった。信長から急いで逃げ帰る手はずを予め整えていた。
信長は、本能寺で死んだ。
光秀も山崎の戦いのあと死んだ。
家康は自分を暗殺するどころかその命令を出した信長を討った光秀に恩を感じ、幕府樹立後に明智家に報いている。
明智光秀は狂った覇王信長を討つことで日本の国体を護った。彼こそ征夷大将軍であり、日本の英雄であった。
しかし、応仁の乱を起こすほど弱体化し長い戦国時代を作った室町幕府へと後戻りせず、豊臣秀吉を経て徳川家康が実権を握ったのは、より平和な日本を作る上で幸いであった。
(2023年3月1日投稿)
