福島第一原発周辺には他にも訪れておきたい場所がいくつもあり。
まずは、富岡町にある「東京電力廃炉資料館」。必見です。

入場無料で、館内案内のツアーが組まれており、予約も可能。自由見学もできますが、ツアー参加がお勧めです。
展示は以下の3部構成。
ゾーン1 プロローグ
ゾーン2 記憶と記録・反省と教訓
ゾーン3 廃炉現場の姿
ゾーン1は映像の鑑賞で、東京電力が平謝り。ほとんど土下座。
予想を超える津波で被害に遭った、というような言い訳トーンではなく、予想し対策してしかるべきだったのにできていなかった、ごめんなさい、と全面謝罪する内容。
東京電力のホームページには、同じようなトーンで「福島第一原子力発電所事故の総括」が掲載されています。必読です。
ゾーン2では事故の状況。
ゾーン3では廃炉に向けての取り組みが紹介されていますが、廃炉までの先の長さ、見通しの見えなさに暗澹とするしかなく。
しかし、正直な展示です。
次いで訪れるべきは、同じ富岡町に2021年に開館した「とみおかアーカイブ・ミュージアム」。

常設展示室には、
①富岡町の成り立ち、地域の特徴展示
②震災遺産展示
の2つの展示があり、前者が震災遺産より広く、半分以上のスペースが取られています。

福島県富岡町の震災前人口は約1万6000人。
しかしこの富岡町も福島第一原発のメルトダウンで全町民の避難を余儀なくされ、2017年から段階的に避難指示が解除されたものの、昨年2024年12月現在の居住人口はわずか2565人。
帰還困難区域は、町全体面積の6.7%が残されているのみですが、住民の帰還は残念ながら進んでいません。
※今年2025年3月に発表された「富岡町災害復興計画(第3次)」では、2034年度末までに居住人口5000を目指す、とあります。
江戸時代には宿場町として栄えた富岡町ですが、大半の住民は去り、地域そのものの存亡の危機にあります。
それゆえの“アーカイブ”が、この施設です。
この街の記録をアーカイブとして残しておかなければ、街そのものが記憶も含めて消滅してしまう危機感が伝わります。
震災遺産展示では、全町民避難の当時の状況がレポートされていました。

震災前に作成されていた、原発事故時の避難所を案内するポスターです。
右上の「原子炉は5重の壁で守られています」のコラムがあまりにも虚しく。
左側は、主な風向きごとの避難所を示す図が4パターン描かれています。
この地域の原発は福島第一と第二の2つありますが、事故を起こした福島第一原発は右下の北風想定の図ひとつだけ。
他の3つは第一原発の南に位置する第二原発の3つの風向きを想定したもの。
現実には、風向きが刻々と変わる中、断続的な放射性物質の放出を繰り返し、関東を含めあらゆる方向に拡散しました。
放射性物質は風向きにより大半が太平洋側に放出されたと見られるとのことですが、3月15日に発生した大規模漏洩では西北西の内陸部への風により福島県全域が汚染。
県内の航空モニタリングの結果からセシウム137の蓄積量はおよそ1ヶ月半で最大1470万Bq/㎡となり、チェルノブイリ原子力発電所事故の計測結果の340万Bq/㎡を大幅に超えていたとされています。
富岡町は震災翌朝には西隣の川内村への全町避難を呼びかけ。
さらに、3月15日の大規模放出の翌日、3月16日には川内村と合同で郡山市への再避難を決断。
2017年に避難指示解除準備区域および居住制限区域の避難指示がが解除されるまで、富岡町の住人は自宅への帰還すら許されない状況に追い込まれることになりました。避難当初、こんなに長期間帰還が叶わないとは誰1人思わなかったことだと思います。

他の1万人は親族知人を頼る等で、自力で避難しています。
郡山への再避難では、郡山市から提供された最大の避難所「ビッグパレットふくしま(BPF)」への収容者は約2000人。
収容しきれなかった人々は県内各地に設置された避難所や、友好都市の埼玉県杉戸市等に散り散りになってしまいます。


写真は、避難所BPFでプライベートの確保が難しい被災者に対して、郡山の日本大学工学部の学生たちがボランティアで提供した「紙の間仕切りシステム」の展示です。
※そういえば、郡山市の洪水被害の災害ボランティア活動に行ったときの集合場所も日大工学部校舎でありました。
3月11日には、郡山市での追悼式典に参列しました。
この日は、海沿いの地域ごとに、それぞれ追悼式典が行われていました。

「いわき震災伝承みらい館」では、語り部さんの講話を聴講。
避難のために子どもを迎えに行く途中で出会った知人に、もっと強く避難を勧めるべきだった、との後悔の言葉に胸が締めつけられます。
逃げるべきときは、ちゃんと逃げようと、改めて肝に命じました。

いわき市役所隣の大ホールでは、東日本大震災追悼式が行われました。

一般席はご覧の通りガラガラでしたが、前述の通り地域ごとの追悼式があるためでしょう。
同じ日、沿岸から離れた福島市では福島県追悼復興祈念式が行われ、岸田首相(当時)が参列し、一般市民の参加は不可、来賓を多数招き壮大な政治セレモニーが行われていたようです。
今回は、現地に行って初めて知ることができた事実も多く、そしてもうひとつ、改めて調べてみると今の時代は欲しい情報の多くはネットから引き出せることも実感しました。
知るべき情報はそこにあり、ただ気付けていないだけ。
伝承していくことはとても重要です。
以下、関連投稿です。



