※普段はnoteブログを書いています。
「古文なんて、社会に出たら使わない」
「微分積分なんて、仕事で使わない人のほうが多い」
「歴史の年号を覚えて、何の役に立つの?」
学生時代、一度くらいはこんな疑問を持ったことがないだろうか。
私は、この疑問に対して「学校で習うことは全部、社会に出たら直接役立ちます」と答えるつもりはない。
実際、多くの会社員は仕事で古文を読まない。微分を手計算する人も限られる。平安時代の人物名を知っているだけで給料が上がるわけでもない。
だから、
「学校で習った内容を、そのまま仕事で使うのか?」
と聞かれれば、使わないものもかなりある。
しかし、そこから、
「だから勉強する意味がない」
と結論づけるのは、論理が一段飛んでいる。
問題は、「役に立つ」という言葉の中に、違う種類の価値を全部押し込んでしまっていることではないか。
「役に立つ」には、少なくとも3種類ある
私は、学校教育の価値を大きく3つに分けて考えたい。
一つ目は、市場価値との距離が比較的短い学びだ。
英語、情報、統計、簿記、プログラミングなどは分かりやすい。仕事で直接使われる場面があり、職種によっては採用や報酬とも結びつきやすい。
二つ目は、長く使える思考OSをつくる学びだ。
読む、比較する、抽象化する、数量化する、仮説を立てる、根拠を探す、反証する、説明する。
こうした「頭の使い方」は、学校を卒業してからも使う。
そして三つ目が、人間や社会を見る解像度を上げる学びだ。
こちらは短期的にはお金につながりにくい。しかし、自分とは違う時代、地域、文化、価値観を理解することは、人生の判断の幅を広げる。
つまり教育には、
早く効く学び。
長く効く学び。
深く効く学び。
がある。
もちろん、教科をこの3つに完全分類できるわけではない。英語にも文化理解はあるし、歴史にも実務的な分析価値がある。
大切なのは、「役に立つ」を年収への即効性だけで測らないことだ。
OECDの『Skills Outlook 2025』も、成人社会で重要な基礎能力としてリテラシー、数的能力、適応的問題解決などを重視している。
世界経済フォーラムの『Future of Jobs Report 2025』でも、企業が現在もっとも重視する中核スキルは分析的思考で、AI・ビッグデータや技術リテラシーなどは今後さらに重要になると予想されている。
では、学校の各教科は、どんな「頭の使い方」につながっているのだろうか。

現代文――「何を言っているのか」を構造化する
現代文では、筆者の主張、根拠、前提、対立関係を読み取る。
そして長い文章を、短い答案に圧縮する。
仕事に置き換えれば、20ページの資料を読んで上司に3行で説明する、1時間の会議から重要な論点を抜き出す、企画書を読んで「結局何を提案しているのか」を把握する、といった操作に近い。
国語力とは、漢字をたくさん知っていることだけではない。
大量の情報から構造を取り出す力でもある。
数学――電卓ではなく、「式を作る力」
「数学なんて電卓があればいい」という意見がある。
しかし、電卓がやってくれるのは計算だ。
何と何を計算するべきかを決めるのは、人間である。
例えば売上を、
「顧客数 × 購入単価」
と分解する。
さらに、
「広告費を1万円増やしたら、売上はどれくらい増えるのか」
を考える。
ここまで来れば、「総額」ではなく変化率を見る発想になる。
微分を手計算する会社員は多くない。しかし、経済学でいう限界費用・限界収益、ビジネスでいう感度分析や最適化は、「少し条件を変えたら結果はどれくらい動くか」という微分的な発想とつながっている。
数学の価値は、速く計算することだけではない。
現実を変数に置き換え、関係をモデルとして考えることにもある。
英語――受験科目から「情報インフラ」へ
英語は、仕事との距離が比較的短い。
受験では単語、文法、長文、英作文を勉強する。
社会に出ると、それが海外ニュース、論文、技術資料、英文メール、会議、プレゼンへ変わる。
AI翻訳が進歩しても、原文を読み、ニュアンスを確認し、AIの出力がおかしくないか判断できる人には強みがある。
英語は、試験が終わったら捨てる科目というより、
世界中の情報へアクセスするためのインフラ
と考えた方がいい。
社会科は「歴史」だけではない
社会科は、地理・歴史・公民で見ている方向が違う。
地理は空間を見る。
なぜこの場所に都市が発達したのか。なぜ工場がこの地域に集まるのか。人口、交通、物流、資源、気候、産業を地図とデータから考える。
これは市場分析、店舗立地、サプライチェーン、都市政策にもつながる。
歴史は時間を見る。
現在の企業、制度、国家、産業が「なぜ今この形になっているのか」を過去へ遡る。
そして「年号なんて暗記して何になる?」への答えもここにある。
年号そのものが偉いわけではない。
しかし、Aが先に起きたのか、Bが先なのか分からなければ、因果関係を考えられない。
年代は、出来事を因果の中に並べる座標軸でもある。
公民は制度を見る。
政治、経済、法律、倫理を通じて、社会がどんなルールで動き、異なる利害をどう調整するのかを考える。
会社でいえば、インセンティブ、ガバナンス、コンプライアンス、ステークホルダー調整にも近い。
地理は空間。歴史は時間。公民は制度。
同じ社会科でも、鍛えている視点はかなり違う。
理科も、物理・化学・生物・地学で違う
理科を「実験して仮説を検証する科目」と一括りにするのも少し雑だ。
物理は、モデルを見る。
複雑な現実から重要な変数だけを取り出し、単純なモデルにする。
摩擦を無視する。物体を質点として扱う。
現実そのものではない。しかし本質を見るために、あえて単純化する。
これは企業分析でも使う。「影響する要因は100個あるが、まず3つに絞って考えよう」という発想だ。
化学は、条件と変化を見る。
温度、圧力、濃度、構造などが変わると、結果がどう変わるか。
製造業なら材料、工程、品質、歩留まりを考える際にも親和性がある。
生物は、複雑系を見る。
遺伝子だけ、環境だけ、と一つの原因で説明できない。
個体差、相互作用、確率、実験条件を見る。
これは、「何でも一つの原因で説明しない」という態度につながる。
地学は、スケールを見る。
地震、気象、海洋、宇宙では、数秒から数億年まで時間軸が変わる。空間も地域から地球規模、宇宙規模まで広がる。
災害、気候、資源など、不確実な巨大システムを考える入口になる。
物理はモデル。化学は変化。生物は複雑系。地学はスケール。
同じ理科でも、鍛えている「ものの見方」は違う。
古文・漢文――すぐ稼げない。でも、それで無価値なのか
古文・漢文はどうだろう。
正直に言えば、英語や情報と比べて短期的な市場価値との距離は遠い。
古典を読めるようになった翌日に給料が上がる人は少ない。
しかし、それと「無価値」は違う。
古典を読むと、不思議なことが起きる。
嫉妬、恋愛、権力欲、孤独、老い、死への恐れなど、昔の人間も現代人と驚くほど似ている。
一方で、身分、家族、宗教、男女関係、名誉についての常識は大きく違う。
つまり古典は、
「人間は何が変わらず、何が社会によって変わるのか」
を考える材料になる。
自分が当然だと思っている価値観を、800年前の人間も共有していたとは限らない。
これは、他者を自分の物差しだけで裁かないための訓練にもなりうる。
AIは古典を現代語訳してくれる。
しかし、
異なる価値観に触れて、自分の常識そのものを疑うこと
は、単なる翻訳とは別の学習だ。
情報――これから最も仕事との距離が短くなりやすい科目
情報では、データ、アルゴリズム、ネットワーク、プログラミングを学ぶ。
その先にはPython、SQL、データ分析、AI活用がある。
例えば、3時間かかっていた定型集計を自動化する。
大量のデータから傾向を見つける。
AIにコードを書かせ、それが正しいか確認する。
こうした能力はすでに仕事とかなり近い。
ただし、AIが普及するほど重要なのは「自分で全部コードを書けること」だけではない。
何を自動化すべきか、AIの答えは妥当かを判断すること
も重要になる。
ただし、受験勉強は自動的に仕事力へ変わらない
ここには重要な注意がある。
現代文が得意だった人が、自動的に分かりやすい企画書を書けるわけではない。
数学が得意だった人が、自動的に優れたKPIを設計できるわけでもない。
歴史が得意だからといって、必ず企業分析が上手くなるわけではない。
学んだ能力が、遠く離れた別の場面へそのまま転移するとは限らない。
だから必要なのが、意識的な橋渡しだ。
「現代文でやっていた要約は、仕事では何に相当するのか」
「数学でやっていたモデル化を、この事業分析に使えないか」
「歴史で考えていた因果関係を、企業の競争力の変化にも応用できないか」
と考える。
受験と仕事の間には連続性がある。
しかし、その接続は自動ではない。
私自身も、得意科目と苦手科目がその後につながっていた
私自身、受験生のころは英語、現代文、小論文、歴史が得意だった。
大学では経済学を学び、その後は企業の会計や基幹システムに関わる仕事をしてきた。
振り返ってみると、今も文章を書くとき、「主張は何か」「根拠は何か」「反証はないか」と考える。
企業を分析するときには、「なぜ現在こうなっているのか」と過去へ遡る。
受験生時代に得意だった科目の「頭の使い方」は、形を変えて残っているように思う。
一方で、数学と統計をもっと学んでおけばよかったとも思う。
文章で仮説を立てる力に、数字で検証する力が早くから加わっていれば、できる分析の幅はもっと広かっただろう。
会計については、簿記、USCPAの勉強、SAP FI/COの仕事を通じて社会人になってから補うことができた。
学びは、受験で終わる必要もない。
受験は仕事の完成形ではない
もちろん、受験勉強だけでは身につきにくい能力もある。
他人と協働する。交渉する。顧客の曖昧な要求を聞き出す。組織を動かす。失敗したら方針を修正する。正解のない状況で決断する。
だから、
「難関大学に合格した=優秀なビジネスパーソン」
とはならない。
受験は職業能力の完成品ではない。
思考OSの基礎工事の一つなのである。
そして大学に入ると、突然「地図」が消える
高校までは、勉強の地図がはっきりしている。
英単語帳、数学の問題集、模試、偏差値、過去問、志望校。
ところが大学に入ると、
TOEICか。簿記か。プログラミングか。留学か。インターンか。資格か。
突然、選択肢だけが増える。
私はここに、教育上の大きな断絶があると思っている。
高校生に職業訓練を詰め込む必要はない。
しかし、
社会に出たら、どんな能力が必要になるのか。
今の勉強は、その地図のどこにつながっているのか。
その概要くらいは、受験前から知っていてもいいのではないか。
受験勉強を、合格したら捨てる知識にしない
教科内容を、そのまま仕事で使うとは限らない。
しかし、その教科で何度も繰り返した「頭の使い方」は残りうる。
そして、すぐには稼げなくても、人間や社会を見る目を育てる学問もある。
早く効く学び。
長く効く学び。
深く効く学び。
教育には、その全部があっていい。
問題は、「何の役に立つの?」と問うことではない。
むしろ、その問いをもっと深くすることだ。
この勉強は、どんな頭の使い方を身につけるためにあるのか。
そして、その力を次にどこへつなげるのか。
受験勉強を、合格したら捨てる知識にしない。
次回は、受験が終わった途端に多くの大学生が「何を勉強すればいいのか」で迷い始めるのはなぜか、考えてみたい。