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「ローマの休日」を観た。何度目かの鑑賞だったが、今回は妙に引っかかる場面があった。最後、王女アンが記者会見の場で報道陣に向き合い、公務へ戻っていく、あの結末である。

物語の筋はよく知られている。お忍びで宮殿を抜け出した王女アンが、ローマで新聞記者ジョーと出会い、たった一日の自由を過ごす。スクープを狙っていたはずのジョーは彼女に惹かれ、結局その記事を書かない。二人は結ばれず、王女は自らの意思で公務に戻る。

私が考えさせられたのは、アンが最後に下した「戻る」という選択のほうだった。

彼女には、ジョーと共にローマに残るという選択肢があった。一個人としての幸福を取る道だ。にもかかわらず、彼女は王女としての役割に戻ることを選ぶ。印象的なのは、その選択が誰かに強制されたものではなく、彼女自身の決断として描かれている点である。逃げ出した夜の彼女と、会見場に立つ彼女は、同じ人物でありながら明らかに違う。一日の自由は、彼女に「役割から逃げること」ではなく「役割を引き受け直すこと」を教えたのだと思う。

注目すべきは、ジョーが最後にスクープ記事を書かなかったことだ。彼は職業人として、特ダネという最大の成果を自ら手放した。これは職責の放棄だろうか。私はそうは思わない。彼は「記者として何を報じ、何を報じないか」という、より上位の職業倫理に従ったのだ。目先の成果ではなく、自分が守るべきものを選んだ。アンの「戻る」とジョーの「書かない」は、方向こそ逆だが、どちらも「自分の役割の本質は何か」を問い直した末の選択という点で同じ構造を持っている。

役割を果たすとは、与えられた務めを機械的にこなすことではない。その役割が本来何のためにあるのかを自分の頭で問い直し、引き受け直すことだ。

ジョーがスクープを書かなかったのも、単に「恋した相手だから書けなかった」という表層的な理由だけではないと思う。彼は、アンが自ら戻る決断を下すその場に居合わせ、彼女の覚悟を間近で見ている。その覚悟を感じ取ったからこそ、彼もまた自分の役割を選び直したのだ。

ここで、二人がついに結ばれなかったことの意味を考えたい。一般に、恋愛が結婚に至れば、その先に待つのは現実である。共働きが当たり前となった今、夫婦はともに家事・育児・仕事に追われ、インフレ下の生活苦も重くのしかかる。関係は、日々の現実の中で少しずつ摩耗していく。

だが、アンとジョーの一日は、その摩耗にさらされることがない。これを「成就しなかった悲恋」と呼ぶのは、たぶん正確ではない。二人は、互いへの想いを現実の関係に持ち込まないことを、それぞれの意思で選んだのだ。アンが王女に戻り、ジョーが記事を書かなかったのと同じ選択である。だからこそ、あの一日は永遠に美しいまま二人の中に残る。凍結された美しさは、運命が二人から奪ったものではなく、二人が役割を引き受けることと引き換えに、自ら守り抜いたものなのだ。

何度鑑賞しても、この映画はそのたびに違う角度から考えさせてくれる。「役割を選び直す」という一点で、すべての場面がつながって見えた。休暇が明ければ、私もまた自分の役割の場所へ戻る。苦しい、疲弊の毎日であるが、「家族を守る」「プロフェッショナルとしての自分の矜持を守る」これが私に果たされた使命である。