飲み屋で出された、間違い探しクイズ

行きつけの飲み屋で、若い爽やかな店員から間違い探しクイズを出された。メニュー表のどこかに一箇所、誤字がある。それを探せ、という遊びだ。うっかり、書き間違えたらしい。

私はすぐに見当をつけた。「どうせ難しい漢字を間違えたんだろう」料理名には、普段あまり書かないような凝った漢字が並んでいる。そういうところこそ間違いが潜むはずだ——そう確信して、私は漢字ばかりを睨みつけた。

何分経っても、答えはわからなかった。

種明かしを聞いて、私は脱力した。間違っていたのは、漢字ではなく、ごく簡単なひらがなだったのだ。誰でも書ける、見慣れた一文字。私の目は、その上を何度も素通りしていた。

なぜ見つけられなかったのか。答えは単純で、私が最初から「漢字を見る」と決めてしまっていたからだ。ひらがなは、最初から私の捜索範囲の外にあった。見落としたのではない。そもそも見ていなかった。

この小さな敗北には、実は人間の思考のかなり根深い欠陥が詰まっている。今日はその話をしたい。

「仮説を立てよう」という、半分だけ正しいアドバイス

ビジネスの世界では、「仮説思考」がもてはやされる。コンサルティングファームが好んで使う言葉で、要するに「やみくもに調べる前に、まず答えの当たりをつけろ」という考え方だ。

これ自体は正しい。たとえば「うちの商品の売上が落ちた。なぜか?」という問題があったとする。考えられる原因は無数にある。商品の質、価格、ライバルの登場、広告の失敗、店頭の場所、景気……。これを片っ端から全部調べていたら、時間がいくらあっても足りない。

だから先に「たぶん価格が高すぎるせいだ」と仮説を立てる。そしてその仮説が正しいかをデータで確かめる。違っていたら次の仮説に移る。確かに効率的だ。当たりをつけることで、探す範囲が一気に狭まる。

ところが、ここに落とし穴がある。仮説を立てるという行為は、「何を見るか」を決めると同時に、「何を見ないか」も決めてしまうのだ。

私が「漢字だ」と当たりをつけた瞬間、私は漢字に集中できるようになった。それは効率がいい。だが同時に、ひらがなを見ない人間になってしまった。仮説は探索を速くする道具であると同時に、視野を狭める道具でもある。アクセルとブレーキが一体になっているようなものだ。

「ちゃんと検証すればいい」では、足りない

こういう話をすると、たいてい返ってくる反論はこうだ。「仮説が悪いんじゃない。仮説を検証して、間違っていたらすぐ捨てればいいだけだ」

科学者の態度がまさにこれだ。仮説を立て、それを証明しようとするのではなく、むしろ壊そうとする。壊れなかったら、その仮説はとりあえず生き残る。この「壊しにいく」姿勢を、哲学者カール・ポパーは「反証主義」と呼んだ。優れた研究者やコンサルタントが持っているのは、自分の読みを最速で捨てる能力だ——という主張も、よく聞く。

これも、正しい。正しいのだが、私の飲み屋の失敗はこの説明では救えない。

考えてみてほしい。私は「漢字だ」という仮説を、検証して捨てそこねたわけではない。漢字をいくら調べても答えが出ないのだから、検証は失敗し続けていた。にもかかわらず、私はひらがなに移れなかった。なぜなら、「ひらがなを疑う」という選択肢が、そもそも私の頭の中のリストに載っていなかったからだ。

ここが今日の話の核心だ。「検証して捨てる」という技術は、すでにリストに載っている候補の優劣をつけることはできる。だが、**最初からリストに載っていない候補は、検証のしようがない。**捨てるも何も、存在しないのだから。

つまり、仮説思考には二段階の失敗がありうる。

ひとつは、立てた仮説に固執して捨てられない失敗。これは「検証の失敗」で、よく語られる。

もうひとつは、そもそも正しい候補を思いつかなかった失敗。これを「生成の失敗」と呼ぼう。検証より一段、上流で起きる失敗だ。そして厄介なことに、こちらのほうがずっと気づきにくい。

心理学が見つけていたこと

実はこの「生成の失敗」は、心理学の世界では古くから研究されてきた。

ひとつ面白い実験がある。自動車整備工に「車のエンジンがかからない原因を挙げてください」と尋ねたところ、彼らはせいぜい4〜6個しか挙げられなかった。プロでもこの程度なのだ。しかも、もっと深刻なのはその次だ。彼らは「自分はかなり網羅的に原因を挙げられた」と思い込んでいた。挙げ忘れた原因があること自体に、気づいていなかったのである。

人間は、思いつく原因の中だけで考える。そして、思いつかなかった原因については、その存在すら意識にのぼらない。だから「自分の考えは十分に幅広い」と過信する。私が「漢字を全部チェックしたから、もう調べ尽くした」と感じていたのと同じだ。

さらに研究が進むと、こんなこともわかってきた。人は仮説を思いつくとき、「ありそうなもの」ばかりを思い浮かべ、「ありそうにないもの」を無視する。これは普段は役に立つ。可能性の低いことまでいちいち考えていたら頭がパンクするからだ。だが、答えが「ありそうにないところ」に隠れているとき、この習性は致命傷になる。

医療の世界には、もっと生々しい話がある。医師の診断ミスを調べた研究で、最も多い原因のひとつが「早期閉鎖」と呼ばれるものだった。これは「ある診断にたどり着いた瞬間、それ以外の可能性を考えるのをやめてしまう」という現象だ。「診断が下されると、思考が止まる」という格言があるほどだ。患者が酒臭いというだけで「酔っ払いだろう」と決めつけ、実は命に関わる別の病気だった——そういう事故が、現実に起きている。

私が飲み屋でやったことは、規模こそ違えど、これと同じ構造だ。

ありがちな結論——そして、その先

ここまで読むと、こんな結論に飛びつきたくなる。「なるほど、仮説の範囲が狭すぎるのが問題なのか。だったら、できるだけ広く候補を挙げればいいんだな」。

残念ながら、これは間違いだ。そして、ここからが本当に面白いところになる。

候補を無限に広げればいいわけではない。先ほどの研究には続きがあって、考慮する選択肢を増やしすぎると、今度は判断そのものが劣化することがわかっている。人間の頭が一度に扱える情報には限界があり、候補が多すぎると、どれももっともらしく見えてきて、かえって決められなくなる。

そもそも、当たりをつけて範囲を絞ること自体は、悪いことではない。むしろそれは知性の働きそのものだ。整備工が原因を4〜6個に絞るのは、多くの場合それで正解にたどり着けるからであって、決して怠けているわけではない。範囲を絞るのは正しい。問題は別のところにある。

本当の問題は「絞り方の基準」だった

もう一度、飲み屋の話に戻ろう。

私が「漢字に絞った」こと自体は、間違っていなかった。難しい漢字は間違えやすい——これは経験則として正しい。絞り込みの判断としては、むしろ合理的ですらある。

では、何がいけなかったのか。

私は無意識のうちに、ある思い込みを使っていた。「難しいところほど間違いが起きやすい」という思い込みだ。仕事柄、私はいつも複雑なシステムの、難しい部分が壊れるのを見てきた。だから「間違いは難しいところに潜む」という感覚が、体に染みついていた。

ところが、メニューの校正という場面では、この前提が逆だった。難しい漢字はむしろ慎重に確認されるから間違いが少ない。簡単な字こそ、見慣れているがゆえに校正の目が滑り、間違いが見逃される。出題者である店員は、まさにそこを突いてきた。

つまり私の失敗は、「範囲を狭めたこと」ではない。狭めること自体は正しかった。失敗の正体は、範囲を狭めるときに使った「思い込み」が、目の前の問題の本当の構造とズレていたことだ。そして最大の問題は、自分がそういう思い込みを使っていること自体に、まったく気づいていなかったことにある。

私は「漢字を見るぞ」と意識していた。だが「難しいところほど間違う、という前提で漢字に絞っている」とは意識していなかった。前提は、意識の裏側に隠れていた。だから検証することもできなかった。

反証では、ここに手が届かない

ここで、最初の「ちゃんと検証すればいい」という話とつながる。

反証——仮説を壊しにいく態度——は、いったん候補に挙がったものの優劣は裁定できる。「漢字が原因か?」「ひらがなが原因か?」と両方が候補に載っていれば、調べて潰していける。

だが、その候補たちを選ばせた、裏側の思い込みそのものは、反証の射程の外にある。私の頭の中で「漢字だけ」を候補に選ばせたのは、「難しいところほど間違う」という隠れた前提だった。この前提自体を疑わない限り、いくら漢字を熱心に検証しても、永遠にひらがなにはたどり着けない。

反証思考をどれだけ鍛えても、ここには手が届かない。なぜなら、問題は検証の段階ではなく、その手前、候補を選ぶ段階で、すでに決着がついてしまっているからだ。

だから、こう考える

仮説思考の弱点は、仮説を捨てられないことではない。かといって、仮説の範囲が狭いことそのものでもない。範囲を絞ることは、むしろ知性の働きだ。

本当の弱点は、範囲を絞るために自分が無意識に使っている「思い込み」が、目の前の問題の構造とズレていることに、気づけないことにある。

では、どうすればいいのか。処方箋は意外と地味だ。「もっと頭を柔らかく」でも「視野を広く」でもない。やるべきことはひとつ。

「自分は今、なぜこの範囲に絞ったのか?」を、言葉にしてみること。

「漢字を見よう」で止まらず、「自分はなぜ漢字だと思ったのか?」まで一歩遡る。すると「難しいところほど間違う、と思い込んでいるからだ」という前提が顔を出す。前提が言葉になって初めて、「待てよ、この場面ではむしろ逆では?」と疑うことができる。

面白いことに、心理学の実験でも、解き始める前に「思い込みにとらわれるな」という一言を添えるだけで、正解率が上がることがわかっている。医療の診断でも、いったん立ち止まって「他の可能性は?」と意図的に振り返る時間を挟むと、ミスが減るという結果が出ている。どちらも、隠れた前提を一度表に引きずり出させる仕掛けだ。

仕事でもそうだ。システム障害が起きたとき、「またあのバッチ処理だろう」と当たりをつける。その判断は速くて、たいてい正しい。だが本当の事故は、誰も候補に挙げなかったところ——別チームが握っていた、誰も疑わなかった前提条件の食い違いとか——で起きる。速く当たりをつける能力と、自分がなぜその当たりをつけたのかを言葉にする習慣は、両立させなければならない。

間違い探しの答えは、いつも自分が「見ない」と決めた場所に隠れている。そして人は、自分が何を「見ない」と決めたのかを、ふだん意識していない。

行きつけの飲み屋のクイズは、それを思い出させてくれる、なかなか良い教材だった。