2026年の夏、まったく違う二つのコンテンツが炎上した。

一つは、学歴をテーマにしたYouTubeチャンネル「wakatte.TV」である。

福島大学を取り上げた動画で、放射能や原子力に関する研究の話題に対して「福島大には触らせたくない」という趣旨の発言があり、大きな批判を受けた。

福島大学は9月1日、東日本大震災と福島第一原発事故以降、原子力災害や環境放射能に関する研究を積み重ねてきたことを説明したうえで、教育・研究に真摯に取り組む学生や教職員の尊厳が傷つけられることがあってはならないとの声明を出した。wakatte.TV側も謝罪し、問題となった動画を削除した。

もう一つは、Netflixの恋愛リアリティー番組『ラヴ上等』シーズン2である。

出演者の一人が番組の中で、過去に「人に火をつけた」と語ったことがSNSで大きな議論になった。公開情報だけから、その出来事の具体的経緯や刑事処分の詳細まで断定することはできない。しかし、少なくとも本人がそのような過去を番組内で語ったこと、それが大きな反発を呼んだことは確認できる。

さらに問題を大きくしたのが、法務省保護局とのタイアップだった。

法務省は番組と更生保護を結び付け、

「更生上等」

というキャッチコピーを使った。

ところが、被害者への配慮を欠いているのではないか、犯罪や非行をエンターテインメントとして美化しているように見える、といった批判が相次いだ。

法務省は8月21日、タイアップを取りやめた。

興味深いのは、そのとき法務省自身が、

犯罪や非行をした人の責任を曖昧にするものではないこと、被害者の尊厳や心情へ配慮することと、犯罪をした人の更生を支援することの双方が必要だ、と明確に説明したことである。

私は、この二つの炎上を見ながら、別々の問題のようでいて、どこか同じものを感じた。

それは、

他人の人生を「観客」が採点し、それを娯楽として消費する社会

である。

偏差値と「元不良」は正反対に見えて、実は似ている

wakatte.TVでは、

偏差値。

大学名。

受験結果。

という非常に分かりやすい数字で、人が序列化される。

一方、『ラヴ上等』では、

刺青。

不良。

逮捕歴。

壮絶な過去。

水着ギャル。

といった強い記号が人物の物語価値になる。

一見すると正反対である。

前者では「優等生」が上に置かれる。

後者では「不良」が主人公になる。

しかし、コンテンツの構造は意外に似ている。

人間の複雑な人生を、一つの分かりやすい記号へ変換する。

「偏差値○○の大学」

「元ヤンキー」

「前科者」

「40歳独身」

「生活保護」

「無職」

「Fラン」

「婚活で売れ残った人」

こうしたラベルは非常に強い。

なぜなら、数秒で人物を理解した気になれるからだ。

しかし、人間はそんなに単純ではない。

大学名は、18歳時点の偏差値だけでは決まらない

例えば、

「東京大学ではなく九州大学へ進学した」

という人がいたとする。

それだけを見て、

「東大へ行く学力がなかった」

と断定できるだろうか。

できない。

本当は東大を狙える学力があったが、実家から通える九州大学を選んだのかもしれない。

学びたい分野が九州大学にあったのかもしれない。

家計の事情があったのかもしれない。

東京で一人暮らしをする費用を避けたのかもしれない。

もちろん、本当に学力の問題だった可能性もある。

重要なのは、

大学名という結果だけから、その原因を一つに決めることはできない

ということだ。

日本の教育研究でも、家庭の社会経済的条件と学習時間や進学期待との関連が確認されている。興味深いのは、「努力」そのものさえ家庭環境から完全に独立しているわけではないという点である。日本の子どもを対象にした研究では、親の学歴や関わり方と子どもの学習時間の格差が関連している。

大学進学時の地域移動についても、日本では自宅を離れることそのものが大きな費用を伴い、進学先選択に影響することが研究されている。

だからといって、

「受験は本人の努力と無関係だ」

と言いたいわけではない。

努力は重要である。

学力も重要である。

しかし、

努力が重要であることと、結果のすべてを努力だけで説明できることは同じではない。

ここを混同すると、学歴論は簡単に人格論へ変わる。

「この大学だから頭が悪い」

「この大学だから努力しなかった」

「この大学だから人間として格下だ」

というところまで進んでしまう。

犯罪も「本人が悪い」で分析を終えてはいけない

ここで、最も誤解されやすい話をしたい。

犯罪である。

私は、

犯罪者の責任を社会構造のせいにして免罪すべきだ

とはまったく思わない。

人を傷つけたなら、その行為について責任を負わなければならない。

刑罰が必要な場合もある。

被害者への償いが必要である。

再犯防止も必要である。

そして被害者の存在を、「加害者の更生物語」を美しくするために消してはならない。

この点は明確にしておきたい。

しかし、

犯罪者に責任があることと、犯罪の原因がすべて犯罪者本人の人格にあることは別問題である。

法務省自身、再犯防止政策として、就労、住居、医療、福祉、教育、地域社会への包摂を重視している。

もし、

「犯罪をしたのは本人なのだから、社会環境など調べる必要はない」

のであれば、こうした政策は必要ないはずである。

しかし現実には、再犯を減らすために仕事や住居を確保することが重要だと国自身が認めている。

これは矛盾ではない。

責任追及と原因分析は別だからだ。

航空事故でも医療事故でも、

「操作を間違えた人」

を特定するだけでは再発防止にならない。

なぜ間違えたのか。

設備はどうだったのか。

教育は十分だったのか。

勤務環境はどうだったのか。

同じ事故を別の人も起こす可能性はないのか。

そこまで調べて、初めて再発防止になる。

犯罪も同じである。

悪いことをした本人に責任を求めながら、

どうすれば次の被害者を生まないか

を社会側も考える。

それが更生保護や再犯防止の意味だと思う。

だから『ラヴ上等』問題は難しい

ここで『ラヴ上等』へ戻る。

私は以前、この問題について考えているとき、

「更生を支えること」と「更生を娯楽化すること」は違う

と感じた。

これは今も変わらない。

刑を終えた人が働く。

恋愛する。

家庭を持つ。

幸せになる。

私は、それ自体を否定すべきだとは思わない。

永久に社会から排除すれば、むしろ再犯防止にも逆行する。

しかし、

犯罪歴や逸脱の大きさが、その人を魅力的なコンテンツにする

となると別の問題が生まれる。

私はこれを、

「逸脱プレミアム」

と呼びたい。

普通に生きてきた人より、

壮絶な過去がある。

刺青がある。

逮捕されたことがある。

激しい武勇伝がある。

その方が映像作品として強い。

その結果、

大きく道を外れた人ほど、物語価値が上がる

という逆転現象が起こる。

しかし本当の更生は、多くの場合もっと地味だろう。

朝起きる。

仕事へ行く。

約束を守る。

家賃を払う。

酒や薬物を断つ。

人間関係を立て直す。

二度と被害者を作らない。

それを何年も続ける。

映像としては地味である。

だが、本当の更生とは、おそらくこちらに近い。

だから「更生上等」という強いコピーが、一歩間違えると、

「悪いこと上等」

のように見えてしまう危険がある。

「人は変われる」というメッセージを伝えたかったのに、SNSでは「美女」「刺青」「人に火をつけた」「上等」といった強い記号ばかりが流通してしまう。

ここに、更生をエンターテインメント化する難しさがある。

私はこの問題について、

加害者を永久に排除しない。しかし、被害者を物語から消さない。

という原則が必要だと思う。

そして、婚活にも同じ構造がある

犯罪ほど重大ではないが、婚活を見ていても似た構造を感じることがある。

結婚できない女性に、

「高望みだから」

「メイクが駄目」

「服装が駄目」

と言う。

結婚できない男性に、

「清潔感がない」

「エスコートできない」

「コミュ力がない」

と言う。

もちろん、婚活カウンセラーが本人から依頼を受け、

「プロフィール写真を変えてみましょう」

「希望条件を整理しましょう」

「会話の仕方を変えてみましょう」

と助言するのであれば意味がある。

改善のための介入だからだ。

しかし、何の責任も負わない第三者が、

「40歳で独身なのだから、本人に何か問題があるに決まっている」

と断定するのは別である。

日本でも、恋人や配偶者がいない人物は、パートナーがいる人物よりも、性格、生活満足度、身体的魅力まで否定的に推測されるという「シングリズム」の研究がある。

つまり、

未婚という結果から人格を逆算する

心理は、実際に存在する。

貧困でも同じことが起きる

「貧しいのは努力しなかったから」

「生活保護を受けているのは自立心がないから」

という言説も同じ構造を持っている。

2026年に日本で発表された「貧困と責任」に関する社会意識調査は、この問題を非常に面白い形で分解している。

研究者たちは、

なぜ貧困になったのかという原因責任

と、

誰がその問題の解決を担うのかという対処責任

を分けた。

その結果、貧困を個人原因だと考えるほど社会的な対策への支持が弱くなり、社会原因だと考えるほど対策への支持が強くなる傾向が確認された。

ここは重要である。

仮に、

「本人にも判断ミスがあった」

としても、

「だから誰も助けなくてよい」

とは論理的にはつながらない。

原因についての責任と、

これからどう問題を解決するかという責任は、

別だからである。

日本社会では以前から「被害者まで自己責任化」されてきた

日本の「自己責任」という言葉を考えるとき、2004年のイラク日本人人質事件は外せない。

危険地域へ入った日本人が武装勢力に拘束された際、

「危険な場所へ行った本人たちの自己責任ではないか」

という議論が猛烈に広がった。

この事件について新聞報道を分析した研究では、「自己責任」という言説が、市民を保護する国家の責任と個人のリスク管理責任の関係を組み替える働きを持ったと論じられている。

ここで奇妙なのは、

犯罪者ではなく被害者まで自己責任化できてしまう

ことである。

強盗に遭った人に、

「そんな時間に歩いていたから」

詐欺に遭った人に、

「欲を出したから」

ハラスメントを受けた人に、

「そんな会社を選んだから」

と言う。

すると世界は分かりやすくなる。

「あの人は間違った行動をしたから不幸になった」

と考えれば、

自分は正しく行動しているから大丈夫だ

と思えるからだ。

社会心理学では、これに近い現象が「公正世界信念」として長く研究されてきた。

人は世界がある程度公正であってほしい。

善い人には善い結果があり、

悪い人には悪い結果があると思いたい。

ところが現実には、

善良な人が病気になる。

努力した人が失業する。

何も悪くない人が犯罪被害に遭う。

そこで、ときに人は結果から逆算して、

「あの人にも何か悪いところがあったのではないか」

と考える。

被害者を否定的に評価する現象については長い研究蓄積がある。ただし、近年のレビューでは、被害者への評価は文化や状況によって変化し、必ずしも常に被害者非難が起こるわけではないことも指摘されている。

私はこれを「観客型自己責任論」と呼びたい

自己責任論そのものをすべて否定する必要はない。

自分の選択には責任を持つ。

他人を傷つければ責任を取る。

努力すべきところでは努力する。

それは当然である。

私が問題だと思うのは、別の現象だ。

何の責任も負っていない観客が、限られた情報だけを見て、他人の人生の原因を断定すること。

私はこれを、

「観客型自己責任論」

と呼びたい。

結果は本来、

本人の選択+能力+努力+家庭環境+制度+他者の行動+偶然+社会環境

の組み合わせで生まれる。

ところが観客は、

結果=本人の人格

へ短縮する。

いい大学へ行けなかった。

本人の努力不足。

結婚できない。

本人に魅力がない。

貧しい。

怠けたから。

犯罪をした。

生まれつき悪い人間だから。

被害に遭った。

本人にも隙があったから。

複雑な因果関係が、一瞬で道徳劇に変換される。

なぜ観客は他人を叩きたくなるのか

ここで、SNSが登場する。

社会心理学には「第三者処罰」という研究分野がある。

自分自身が被害を受けていなくても、人は規範を破った人物を罰しようとする。

これは社会を維持するうえで必要な面もある。

誰も不正を批判しない社会も困る。

だから、

「第三者が批判すること自体が悪い」

わけではない。

問題は、そこへ娯楽性が加わることである。

2023年のオンライン・シェイミングに関する三つの実験では、他人をネット上で晒したり非難したりする行動には、

「この人物は悪い結果を受けるに値する」

という感覚だけでなく、

他人が悪い目に遭うことへの快感、schadenfreude

も関連していた。

つまり、

「社会正義のために怒っている」

つもりでも、

その中に、

叩いている自分が気持ちいい

という要素が入り込むことがある。

これはかなり怖い。

WakatteTVを高田氏一人の問題にしても終わらない

ここで、もう一度wakatte.TVへ戻る。

今回の発言について、高田ふーみん氏本人に責任がないとは思わない。

発言した人には発言の責任がある。

番組制作側にも編集・公開の責任がある。

そこを曖昧にする必要はない。

しかし、

高田氏一人を悪役にして終われば、この問題は何も解決しない。

なぜなら、そのコンテンツを何年も支えてきたのは、

見る人、

笑う人、

コメントする人、

切り抜く人、

拡散する人、

そして再生数に反応するプラットフォームだからである。

「偏差値の低い大学をいじる」

という形式が視聴されなければ、コンテンツとして成立しにくい。

だから本当に考えるべきなのは、

「高田氏は悪い人か」

だけではない。

なぜ私たちは、人の学歴を笑うコンテンツを面白いと感じるのか。

という問いである。

『ラヴ上等』出演者への誹謗中傷も正当化されない

同じことは『ラヴ上等』にも言える。

出演者が過去に行ったことへの批判と、

現在の本人へ無制限に攻撃を加えることは違う。

MEGUMI氏は8月13日、出演者への誹謗中傷や心ないコメントをやめるよう呼びかけた。

この呼びかけ自体は正しいと思う。

誹謗中傷をやめろということは、犯罪行為を擁護することではない。

同時に、

「出演者を誹謗中傷してはいけない」

ということと、

「番組の編集方針や法務省のタイアップを批判してはいけない」

ということも別である。

ここも分けなければならない。

人を傷つけた過去があるなら、その責任は消えない。

しかし、

罪を犯した人間だから何を言ってもいい、

一生幸せになってはいけない、

ネットで何万人が攻撃しても構わない、

ともならない。

更生とは、

責任を消すことではなく、責任と向き合ったうえで再び社会の中で生きていくこと

だからである。

必要なのは「優しい社会」だけではない

この話をすると、

「何でも社会のせいにするのか」

「本人を甘やかすのか」

という反論が出るかもしれない。

私はむしろ逆だと思う。

必要なのは、

責任をなくすことではなく、責任を正確に分けること

である。

他人を評価するとき、最低でも次の五つを分けたい。

  1. 本人は実際に何をしたのか。

  2. その結果に本人の選択はどこまで影響したのか。

  3. 家庭・制度・市場・他者・偶然など、本人以外の要因は何だったのか。

  4. 本人はこれから何を改善し、償い、責任を取るべきなのか。

  5. そして、自分はその人に助言・処罰・評価をする責任ある立場なのか。それとも、ただの観客なのか。

最後の問いが、私は一番重要だと思っている。

婚活カウンセラーなら、助言する責任がある。

裁判官なら、刑を判断する役割がある。

上司なら、人事評価する責任がある。

教師なら、生徒を指導する責任がある。

しかしSNSの観客は違う。

その人の人生を数分しか見ていない。

家庭環境も知らない。

本人が何を試したかも知らない。

それでも、

「お前が悪い」

「努力不足」

「身の程を知れ」

と断定する。

そして次の動画へ移る。

責任を負うのは、叩かれた本人だけである。

人間を「分かりやすい記号」にしない

偏差値。

年収。

独身。

離婚。

無職。

生活保護。

前科。

発達障害。

容姿。

どれも、その人について何らかの情報を持っている。

しかし、

その人そのものではない。

wakatte.TV問題も、『ラヴ上等』問題も、私は最終的にはここへつながっているように思う。

人を分かりやすい記号に変える。

その記号を序列化する。

それを観客が消費する。

そして炎上すると、今度はその出演者自身を新しい記号にして叩く。

「Fランを笑う人」。

「炎上YouTuber」。

「元犯罪者」。

「不良」。

対象が入れ替わっているだけで、

人間を単純化し、観客席から採点する構造そのものは残っている。

だから私は、

「弱い人をもっと甘やかそう」

と言いたいのではない。

犯罪をした人の責任を消そうとも思わない。

努力を否定したいわけでもない。

言いたいのは、もっと単純である。

本人の責任があることと、本人だけの責任で説明できることは違う。

そしてもう一つ。

他人の人生を評価する前に、自分は何を知っているのかを考えた方がいい。

社会には、批判が必要である。

責任追及も必要である。

犯罪には刑罰も必要である。

失敗から学ぶことも必要である。

しかし、

責任追及と娯楽としての吊し上げは違う。

人の弱さを笑うことと、その人へ改善を求めることも違う。

更生を支えることと、逸脱を見世物にすることも違う。

これから必要なのは、

誰も責任を取らない社会ではない。

逆である。

本人の責任、社会の責任、制度の責任、そして観客である私たち自身の責任を、もっと精密に考える社会ではないだろうか。

他人の人生に点数をつける前に、一度だけ考えてみたい。

私は今、その人を助けようとしているのか。

それとも、

観客席から石を投げているだけなのか。