ある製薬業界の専門メディアで、こんなニュースを見かけた。
大手ヘルスケアデータ企業のIQVIAジャパンが、自社のMR(製薬会社の営業担当者)を集めて「AIエージェント甲子園」というイベントを開いた、というものだ。社員たちがチームを組んで、自分の業務を助けてくれるAIを作って競い合う。最優秀チームは「データ分析の時間を95%削減」するAIを作った――。
一見すると、よくある「うちの会社もAI活用、頑張ってます」というニュースだ。読み流してもいい。
でも、このニュースを丁寧に分解していくと、医療データという巨大なビジネスの構造、そしてこれからの企業システムとAIの付き合い方をめぐる、けっこう本質的な論点が見えてくる。今日はそれを、できるだけ専門用語を噛み砕きながら書いてみたい。
1. ニュースを「鵜呑みにしない」読み方
まず、さっきの「95%削減」という数字。これがクセモノだ。
記事の原文を注意深く読むと、こう書いてある。
データ分析にかかる時間を95%削減しつつ、豊富な打ち手を生み出すことを 目指して設計された
お気づきだろうか。「95%削減した」ではなく「95%削減を目指して設計された」。つまりこれは実際に測った結果ではなく、設計上の目標なのだ。記事自体は正直に書いている。でも、見出しやSNSで拡散される過程で、こういう数字はほぼ確実に「95%削減を達成!」に化ける。
もう一つ気になる点がある。このイベント、AIが作ったものを、AIが審査している。「現場で使える」「他の部署にも展開できる」といった高評価は、すべてAIによる審査コメントだ。
考えてみてほしい。AIが作ったものをAIが「いいね」と評価しても、それが本当に現場で役に立つかどうかの証明にはならない。記事には、実際の売上や面談数がどう変わったかという「数字での裏付け」は一つも出てこない。あるのは関係者の前向きなコメントだけだ。
※データにせよ、何にせよ、成果物は人間が検証するべきである。AIは公開情報には強いが、社内データには弱い。たとえ、社内専用につくったAIであっても、だ。なぜならば、全従業員の脳内にある情報をかき集めることは不可能だからである。
念のため言っておくと、私はこのイベントを否定したいわけではない。むしろ意欲的な取り組みだと思う。ただ、「企業の発表をそのまま信じる」のと「一次情報を自分で確かめる」のは、まったく別の行為だということだ。そして後者の視点を持つと、このニュースはもっと面白く読める。
2. そもそもIQVIAって何の会社? ──「データを握る者」の正体
ここで一歩引いて、IQVIAという会社の正体を見てみよう。
製薬会社にとって、一番知りたいことは何か。「自分たちの薬が、どこで、どれくらい売れているか」だ。そして「ライバルの薬と比べてどうか」。
この情報を、日本中・世界中から集めて売っているのがIQVIAだ。どの病院にどの薬がいくら納入されたか、どの医者がどんな処方をしているか、MRが何回訪問したか――こうしたデータを、業界の事実上の"共通ものさし"として提供している。製薬会社の営業戦略は、このデータなしには成り立たないと言ってもいい。
つまりIQVIAは「薬がどう売れて、どう売られているか」については世界最強なのだ。
でも、IQVIAにも「見えていないもの」がある
一方で、IQVIAのデータには構造的な弱点がある。これが重要だ。
IQVIAの売上データは、基本的に「卸から病院への納入ベース」だ。つまり「病院に薬が届いた」ところまでは分かるが、その薬が実際に患者に処方され、飲まれ、効いたかどうかは分からない。病院の棚に在庫として眠っているかもしれない。
「患者一人ひとりを時間軸で追いかける」のも苦手だ。ある患者が最初に病院にかかってから、どんな治療を受け、転院し、どうなったか――こうした「患者の旅(ペイシェント・ジャーニー)」を追うのは、レセプト(医療費の請求データ)を扱う別の会社が得意とする領域だ。日本ではJMDCという会社が有名で、自社サイトによれば、累計2,300万人分の健康保険データと、950報の医学論文の実績を持つ。
ほかにも、入院・急性期の大きな病院に強いMDV、検査値やカルテ情報を持つ会社などがあり、それぞれ得意分野が違う。一つの会社がすべてをカバーしているわけではない。
ざっくり整理するとこうなる。

ここで最初のニュースに戻ると、面白い解釈が浮かぶ。IQVIAがMRの「現場の感覚」をAIで形にしようとしているのは、もしかすると自社データの最大の弱点である「現場・患者レベルの生々しい文脈」を補おうとする動きなのかもしれない。
ただし、これはあくまで私の推測だ。ニュースから確実に言えるのは「MRの現場知をAIで構造化しようとしている」までで、「データ戦略だ」と断定するのは行き過ぎになる。ここは正直に仮説として置いておく。
3. 8年間の泥沼裁判と、突然の和解 ──データ業界の地殻変動
実は、この医療データ業界で、2025年に大きな出来事があった。
IQVIAと、Veeva(ヴィーバ)という会社の和解だ。
Veevaは、製薬会社の営業システム(顧客管理ソフト)で世界シェア約8割を握る巨人だ。この2社は2017年から8年間も裁判で争っていた。
何が争点だったか。ものすごく簡単に言うと、「IQVIAのデータを、Veevaのソフトで自由に使わせろ / 使わせない」という縄張り争いだ。IQVIAは「自社のデータは、勝手に他社のソフトに繋がせない」という制限をかけていた。Veevaは「それは独占だ」と反発した。一方IQVIAは「Veevaがうちのデータを不正に使った」と主張した。お互いに言い分のある、典型的な泥仕合だった。
それが2025年8月、突然全面和解した。しかも、ただ仲直りしただけでなく、お互いのデータとソフトを組み合わせて使えるようにする提携まで結んだ。
これは医療データ業界にとって、地味だが巨大な転換点だ。これまで「IQVIAのデータはIQVIAの世界の中でしか使えない」という壁があった。その壁が崩れ始めた。製薬会社は、複数の会社のデータとツールを、もっと自由に組み合わせられるようになる。
専門的に言えば「データの独占から、相互運用(つなげて使える状態)へ」という流れだ。この言葉を覚えておいてほしい。後でERPの話と繋がる。
4. ここでERP(企業の基幹システム)の話を繋げる
さて、ここからが私の本職に近い話だ。
製薬会社に限らず、大きな会社には「ERP」と呼ばれる基幹システムがある。受注、出荷、在庫、原価、売上、お金の出入り――会社の活動の"事実"を一元管理する、いわば会社の背骨だ。今、世界中の大企業がこの背骨を「SAP S/4HANA」という最新システムに入れ替えている真っ最中だ。
ここで大事な区別がある。
ERP(S/4HANA)が持つのは「自社の中で起きた確定事実」 ──いくつ作って、いくら売って、いくら儲けたか
IQVIAやJMDCが持つのは「自社の外の世界の情報」 ──市場全体でどう売れているか、患者に何が起きているか
この二つは、まったく別の種類のデータだ。
そして、もし製薬会社がこの二つを繋げたら何が起きるか。これが今日の本題だ。
繋げると見えてくる「新しい景色」
たとえば、こんなことができるようになる。
その1:賢い需要予測。 自社の出荷データ(ERP)だけで来月の生産量を決めると、「過去の自社の売れ行きの延長線」しか見えない。でも、市場全体の動きや患者数の増減(外部データ)を組み合わせれば、「この地域でこの病気の患者が増えているから、薬を多めに配置しよう」といった、一歩先回りした判断ができる。
その2:本当の儲けが見える収益性分析。 これは私が一番面白いと思う領域だ。自社の地域別売上(ERP)に、その地域の市場規模(外部データ)を組み合わせると、「売上は伸びているけど、市場全体ではシェアを落としている地域」とか「シェアは高いけど、値引きしすぎて利益が薄い地域」といった、自社データだけでは絶対に見えない"象限"が浮かび上がる。経営判断の解像度が一段上がる。
その3:営業の費用対効果。 どの病院にMRが何回足を運んで、結果いくら儲かったか。営業活動のデータ(Veevaなどの顧客管理ソフト)とERPの売上を繋げれば、これが見える。そして、さっき話したVeeva-IQVIAの和解は、まさにこの"繋げる"作業を技術的・契約的に解禁した出来事だったのだ。点と点が繋がる。
5. ただし、繋ぎ方を間違えると地獄を見る
ここで、システム屋として一つ強く言いたいことがある。
「ERPと外部データを繋げると良いことがある」と聞くと、「では、ERPの中に外部データを全部詰め込もう」と考えたくなる。これは最悪の選択だ。
理由はこうだ。外部データは、更新の頻度も、細かさも、そして"誰のものか(所有権)"も、社内データとまるで違う。それをERP本体に作り込んでしまうと、システムは複雑怪奇になり、数年後のバージョンアップで全部が壊れる。
実は、日本の大手製薬・アステラス製薬が、まさにこの教訓から大プロジェクトを始めている。同社は最新システムへの移行前に古いシステムを調べたところ、独自の作り込み(アドオン)があまりに多く、「このままではいずれ破綻する」という危機感を抱いたという。そこで5年半をかけて、世界共通の"きれいな"システムを作り直した。プロジェクトの社内呼称は、聖書のアダムとイブから取った「Apple(新しい世界の始まり)」だったそうだ。
正しい繋ぎ方は、こうだ。
ERP(S/4HANA)は「自社の事実」を守る金庫番に徹する。外部データは、その外側にある"分析専用の部屋"で組み合わせる。
SAPはこの"分析専用の部屋"にあたる製品(Datasphereなど)を用意していて、まさに「自社データと外部データを、それぞれの場所を保ったまま繋げる」思想で設計されている。私が「これが正解だ」と考える構成が、そのまま製品になっているわけだ。
6. 調べてみて分かった、意外な事実
ここまで書いてきて、私は「じゃあ実際に、ERPと医療データを繋いで成果を出した事例はどれくらいあるんだろう」と調べてみた。
結果は意外なものだった。
「ERPと市場データを繋いで、こんな成果が出ました」と最後まで公表している事例は、ほとんど見つからない。
あるのは、「ERPを刷新しました」という話と、「市場データの分析基盤を作りました」という話が、バラバラに語られているものばかり。その二つを繋ぐ一番おいしい部分は、各社の社内に隠れていて表に出てこない。
なぜか。答えは今まで書いてきたことの中にある。データの所有権、ライセンスの制約、個人情報や規制の壁――これらが厳しすぎて、各社とも「どう繋いだか」を詳しく語れないのだ。
そして決定的なのは、その最大の壁だったデータの囲い込みが、2025年8月のVeeva-IQVIA和解でようやく崩れ始めたばかりだということ。つまり「ERP×市場データ×営業システムを繋いで成果を出した事例」は、これから出てくる段階にある。今はまだ、夜明け前なのだ。
7. そして、最初のニュースに戻る
ぐるっと回って、冒頭の「AIエージェント甲子園」に戻ろう。
このニュースを最初に読んだとき感じた違和感――「95%削減(目標)」「AIがAIを評価」「データの扱いには触れない」――は、実はバラバラの問題ではなかった。
医療や創薬のAIについて、世界の研究者たちは今、厳しい"作法"を確立しつつある。たとえば米国FDA(食品医薬品局)の関係者も加わった論文では、「AIはブラックボックスだから、結果は必ず人間が検証すべきで、当面は下書き作りに使うのが妥当」と結論づけている5。AIが作ったものをAIが評価して終わり、では到底通用しない世界が、すでに動き出している。
つまり、企業のプレスリリースがつい踏み外してしまう3つの点――
目標を、さも成果のように語ってしまう
AIがAIを評価して、検証した気になる
データの所有権や規制の話を、すっ飛ばす
これらは全部、研究の世界が「これだけは守れ」と決めつつあるルールの、ちょうど裏返しなのだ。
ニュースを批判的に読むというのは、難しいことではない。この3つのルールを当てはめてみるだけでいい。そうすれば、誰でも同じ"引っかかり"にたどり着ける。それが、再現可能な"目利き"の強さだと思う。
おわりに
一本の業界ニュースから、ずいぶん遠くまで来てしまった。
しかし、これが「情報を読む」ということだと思う。表面の「AIで95%削減!」を鵜呑みにするのでもなく、かといって「どうせ大げさだろう」と斜に構えるのでもなく、一次情報を確かめ、業界の構造に位置づけ、専門知識で裏を取る。すると、一本のニュースが、医療データ・企業システム・AIの未来をつなぐ"窓"に変わる。
製薬業界のERPと医療データの連携は、まだ事例が出揃っていない夜明け前の領域だ。だからこそ、これから何が起きるかを構造から読み解く面白さがある。次にこの手のニュースを見かけたら、ぜひ「目標? 成果?」「誰が検証した?」「データは誰のもの?」と問いかけてみてほしい。きっと、景色が変わって見えるはずだ。