いつどこで聞いたのかも覚えていませんが、忘れられないストーリーがあります。
車椅子の女性がいて、旦那さんにいつもお世話をしてもらうのを申し訳なく思っていました。
出かける時は車椅子を押してもらわないとだし、一人では段差も乗り越えられません。家にいても自分で歩ける人の様に、何でもスムーズにできるわけではないのです。
女性は旦那さんに言いました。「いつも迷惑かけてごめんね」と。そしたら旦那さんが答えたんです。
「僕には君の車椅子が見えないよ」って
これって愛なんです。究極の愛、源の愛、そして全てを包み込む愛です。私たちが日頃使っている「愛」という感情や言葉をかなり超越した物なので他の言葉で表現したいのですが、これ以上の言葉が言語として見つかりません。
説明するまでもなく、言い訳するまでもなく、私たちは無限に愛されていて無償の祝福が降ってくる。見返りを求められるわけでもなく、人生で経験した自分を一番罰したいと思ったその瞬間さえも、受け入れられ愛されているのです。
人生で味わったどんな素敵な瞬間さえも超越する、至福の世界。そんな「愛」があるんです。
ここからは少し私自身の話になるのですが
私の祖母は認知症なので、できない事が沢山あります。毎日言っても何回駄目だと言っても、同じことを繰り返してしまうことが山ほどあります。
ある日私が夜1階へ降りていくと、台所に蕎麦の麺とカップラーメンが置いてあったんです。私が「これ、どうしたの?」と聞くと「買って来たから、夕飯に」って言うのです。
私それを聞いた瞬間、倒れこんで号泣してしまいました。祖母は、少し歩いただけで息が切れてしまいます。しかも怖がりなので、暗闇を歩くことも、その中を一人で帰ってくることも本当はとても怖いんです。
お金だって、レジで言われた金額を出せません。大通りもびくびくしながら渡っています。ましてや一人で買い物なんて、ずーっと行ってなかったし、まさかできるとは思ってもみなかったんです。
私は2階にいて、ずーっとお世話をせずに彼女を放っておいたのに、それなのに私のために、一生懸命ドラッグストアに行ってお蕎麦とカップラーメンを買ってきてくれました。
その瞬間私に、無限の祝福とエネルギーが降り注ぎました。もうこの世で言う「愛」なんかじゃない、もの凄い究極の愛を感じてしまったのです。
その当時炭水化物を抜いていて、インスタント食品もあえて食べていなかったのですが、その瞬間、「彼女が買ってきてくれたものならば、何でも、いくらでも食べようじゃないか」と思いました。
それ以外の選択なんて、これっぽっちも頭に浮かばなかった。私にはそのお蕎麦も、カップラーメンも、彼女という存在も、もう究極の愛にしか、光にしか見えなかった。愛が私の全てを包み込んだのです。
そのお蕎麦は1つ15円位の安いもので、正直今まで食べたこともなかったのですが食べました。美味しかったです。本当に美味しかった。
そこには愛しかなくて、私には愛の味しかしなかった。
私たちには本当は、この無限の究極の愛がどんな瞬間にでも降り注がれているんです。全ての人々に、一人残らず平等に。どんな悪人にも、どんなにあなたが嫌っている人にも、そしてあなた自身にも平等に注がれています。
そして、それを受け取るか受け取らないかは、実は私達次第なんです。私たちがありのままの自分を受け入れ、本来の自分の人生を歩むとその源のエネルギーが流れてきます。
そのエネルギーに包まれて、そのエネルギーと共に人生を歩み始めるようになるのです。
だからあなたは一人じゃない。
どんな瞬間も、愛され、愛され、愛されまくってるんだよ