Peaceful Love -47ページ目

Reunion


Reconciliationの原型かもしれない作品を発見しました。
Reunionと書かれているので、おそらくそうかと思われます。

今、彼女のメモリアルイベントが開かれているらしく、たくさん作品の写真を見ることが出来ました。

ああ
行きたいなぁ。

https://www.facebook.com/www.jdevartscaretrust.org

奇跡

Reconciliation

ジョセフィーナとの出逢いである、この作品。
Josefina de Vasconcellosで検索すると
たくさんの「彼ら」に会うことができる。

写真は全てお借りしたものです。

コベントリー大聖堂の、珍しいアングル。

こんな↓写真もみつけました。

単色になるだけで、こんなに違うんですね。

そういえば
一番最初の出逢いは、
こんなもんじゃない真っ黒な昔のコピー。
今のように鮮明ではなく、ほとんど黒かった。
にもかかわらず、一瞬でそのコピー用紙に釘付けになったことも
そのあと彼女のお知り合いが
ありえない確率で、私がこの作品の前にいる時に、作品に会いに来られたことも
そのあとはまるで嘘のように
背中を押されるように、思いもかけず
ジョセフィーナと繋がることができ、
その後会いに行くことになったことも、
どう考えても偶然だとは思えない。

もともと偶然はないと、私は思っている。
その考えは、ますます裏づけられて
最近は、今まで見過ごしてしまっていたような些細な出来事さえ、ものすごいことだと想える。
そう気づいてからは本当に不思議なことが
更に増えて、時々、まるで「ほらね、本当でしょう?」と言われている気がする。

偶然の反対の意味で、よく使われる「必然」。
この言葉は、なんとなくしっくりこない。
それは、魔法のような「奇跡」だと思う。
もともと、今息してること、
ここにいることは奇跡だ。
そうだ。
この世は「奇跡」でできているんだ。

この世の鍵

.写真はお借りしています

イギリス滞在中に
ジョゼフィーナのこの作品に
会うことはできなかった
いつか会えるといいな


苦しみは
実はそこに 浄化すべき事柄があるから
その機会を与えるために発生する
と 最近読んだ本に書いてあった

卵が先か鶏が先かなんて興味がない
謎は謎のままでいい
大切なのはそこじゃないから

ただ
乗り越えられると見込まれたからこそ
与えられるのだとすれば
その話は辻褄が合う
神様が
それほどまでに信頼してくれている自分を
信頼しないでどうする


マイナスな感情を
感じないようにしてはいけない 


それも大切な自分自身
なぜそう感じたのかがわかれば
癒やすことができる
どんな感情にも
まず寄り添うこと
寄り添うことができれば 手放せる
その上で どうしたいか考えればいい
それは自分が どう生きたいかということ

「隣人を愛せよ」 という言葉が
自分と同じように人を愛しなさい
という意味ならば
そこにまず本当の意味の
「自愛」が存在しなくてはいけないと思う

他でもない自分自身を
どこまで愛せるか
それがきっと
この世での人生の 一番の鍵
誰でも持つことができる 大切な鍵

自由


写真はお借りしています。
イギリスの湖水地方の景色


風景の写真を見ただけで
そこに立っている感覚になれる
行ったことのある場所ならば
それは なおさら
湖水地方は 私の心のふるさと
立っている気分と
実際に立っていること
その違いが 最近小さくなっている気がする
実際にそこにいれば
感じるものがそれだけ多いのは勿論だけど

今ここにいる私
どこにでも行ける私

宇宙や神様、天使や妖精
目に見えないものを信じることと
自分自身を信じることは
実は同じことなんだ 
無限に広がる「枠のないもの」に
心をどこまでゆだねられるか
どちらもそういうことだから

光の中にいさせてください、と
見上げてばかりいることは
受けとる器を整えることにはならないのだ
大きな気づきを ありがとう

魂は、本来 自由なもの
この世でもあの世でも、それは同じはず
元の状態に還るために 私達は生きている
それは、どうやら
どれだけ手放せるかにかかっているらしい
どこにでも行ける自分であること
それがきっと 本当の自由だから

たいせつなものは 目にみえない

Adoration of the Holy Innocents



角度でこんなに表情が違います。
写真は全てお借りしました。
↓少し遠目の写真もありました。

ジョセフィーナ。
今年は生誕110年だったのですね。

きっとこんな風に、誰の周りにも
天使がたくさん寄り添い、守ってくれてる。

大切なものは 基本、目に見えない。
だからこそ、見えないものを大切にしたい。
あると思えばあるし、
ないと思えばない。
いや、本当はあるのに、フタをしたいということかもしれない。
信じても信じなくてもそこにあるかもしれないのなら、あると信じた方がずっといい。
単純なことなのに、複雑にしてしまうのは
思考によって、何かのせいにした方がラクだからかもしれない。
人はみんなそうやって、わかった気になって安心したい。
けれども長続きしないから、また題材を探す。
悩んでいると安心。
だけど人や物のせいだけでなく、自分を戒めたり卑下したりすることも、
結局全部エゴで出来てる。
そんな堂々巡りの中にいることに気づけたことに感謝。

どうやら、見えないものをもっと信じることでしか、その堂々巡りからは抜け出せないらしい。
思い込みという名の付属品を手放していくことも、それなくして始められない。
答え合わせをいくらしてみたって、なにかにしがみつくことで得た安心だとすれば、また別のものにぶつかる。
目には見えないものに、もっと身を委ねることができますように。
忘れそうになったら、この作品に逢おう。

ジョセフィーナ
お誕生日おめでとう♡