そんなわけで、今まで頼っていた「ことば」の有限性を

初めて痛感したわけなんだけれど、

ここに矛盾が生じてしまうんだよね


「もう言葉を頼りにしたくないんだよ、当分言葉を使いたくない」

っていう感情を発信するにも言葉を用いらなくてはいけないわけで・・・


だから、周りの人には、今まで長い長いメールを書いてた人にさえ、

「最近ことばにできないんだよねえ」としかいうことができなかった

だって、言葉を信用していないといいながら、

言葉で「なんで信用していないか」を説明するっていうのはおかしいもの






「言葉の有限性」の中でも具体的に例を挙げるとしたら、

まずひとつは、結局何を話しても所詮すべてはフィクションだということ



感情を全て言葉にすることは不可能である


これは語彙の問題とか、

言語の根本的な成り立ち方っていうのも関係してくるけど、

それは今までだってわかってたことで、

そうじゃなくて、なんていうのかな、時間の問題かな


全ての事柄には様々な面が潜んでて、

すべての面を書ききるのは、不可能である

そうしたいなら、無限な時間が必要になってくる気がする


例えば、日記に「今日は楽しかった」と書くとする。


けど本当は一日の中には、悲しくなったり、

ちょっと怒ったり、苦しくなった瞬間もあったはずで。

なのに「楽しかった」とだけ書くということは、

読み手に、もしくは自分自身に、

「自分は楽しい一日を送った」と思い込ませているということよね

その瞬間、現実さえもがフィクションとなってしまう気がする。

たとえ嘘をつかなかったとしても、

一つの事実だけ言及して、別の事実を口にしないことは、

読み手の解釈を必ず一定の方向に導いてしまう

言葉とは読み手を導く道具らしい

良い意味でも、悪い意味でもね



今までは嘘さえつかなければ、

それは真実を語っていることと同じことなのだと思い込んできたのだけど、

完全なる真実はどこにも存在しないのね




なるべく偽らないように、嘘をつかないように、

言葉を選んで表現してきたつもりだったんだけど、

それでもあたしの言葉は常として虚栄を含み、真実から程遠いところにいた






例えばね、Mixiの日記で誰かが、

今日の自分の1日がどんなに楽しかったか書くとするじゃん

友達とパーティーして、○○ちゃんがねー・・・って具合に

それも「自分はこんな楽しい毎日を送っているんだよ」という見栄だよね

見せ付けたいという衝動かな


そういうのがすごくあたしは嫌だった

別に、そういう人をやめさせたいわけじゃないんだよ

読みたくない日記は読まなければいいだけなのだから

ただ自慢や見栄の張り合いに巻き込まれたくないと思ってた

でもここにきて気付いたのは

自分もそういう人たちとなんら変わりないという事実



例えばあたしが、自分の思考をMixiの日記に書く

そこには、「自分はこういうことも考えてるだ」っていう虚栄、

もしくは「理解されたい」「わかりあいたい」「認めて欲しい」という

衝動が含まれてた

必ずあった。

なぜなら、言わなかったこと言えなかったことは隠してきたのだから。

他人に言葉を発信するということは、

虚栄であり、見栄であった。





写真も同じ。


例えばFacebookに写真を乗っけること。


Photoshopして画像をいじくってない写真は、「真実」を写していると思ってた。

でも違った。

写真が映し出してるのは限られた部分のみであって、

その夜すべてを写してるわけじゃない。

楽しい部分しか写真は語らない。

みんなが写真で笑ってたところで、その夜がずっと楽しかったとは限らない。

写真もフィクションだね。

写真を撮る瞬間を選ぶということは、編集するということ。


「編集という作業は、必ずフィクションを作り出す」

それは言葉も写真も同じ。

同じように編集されて当事者に届くのだから。





あたしは決して真実だけを愛してるわけじゃない。

虚栄や嘘を認めないわけじゃない。


そうじゃなくて問題は、あたしは常に「真実」を口にしていると思ってた。

自信があった。

でもそうじゃないと気付いて、

言葉を軽々と口に出来なくなった

あんだけ言葉を使うことに自信があったのに、

自信がなくなってしまったのね。




なんだ、あたしも、虚栄を張りたい、

言葉を使って自分を少しでもよく見せたい、

そういう人間と一緒なんだ、ってね。


ある程度は知ってたけど、

改めて実感したこと。



自分の言葉を信じれなくなったから、使わないようにした。

または書いても書いても、すべてが嘘に見えてしまったの。

正直、言葉でなにかを伝えることがこんなに難しいとは思わなかったよ。