それぞれの哲学には、哲学者の「信念」が舞台に現れる地点がある
その地点では、古い神秘劇の言葉を借りれば、次の様なことが起きる
美してく、たくましい
ロバが、現れる
(ニーチェ 「善悪の彼岸」断章八番より)
パロディとは既存のものの模倣ではなく、それを茶化したり笑ったりして権威を失堕させ、別の似て非なる解釈を打ち出す表現形式である
ニーチェはパロディの問題を、自然観に根ざした上下転覆の伝統と慣習に立ち返って捉えていた
ニーチェは言う
「真の世界を我々は廃絶してしまったのだ
で、どんな世界が残っているのか?
ひょっとしたら仮象の世界が残っているのでは?
そんなばかな!
真の世界とともにわれわれは仮象の世界をも廃絶してしまったのである」
(ニーチェ「偶像の黄昏」「いかにして「真の世界」がついに作り話になったか」より)
この辺は 俺の考えている 形の 桃源郷 vs 理想郷 の構図と似ている気もするのだが、
こういったニーチェの思想、パロディ感にバタイユは共鳴していた
そして、太陽肛門の冒頭はこうやって始まる
「世界は純粋にパロディであるのは明白なことだ
つまり人が目にする事物はどれも他の事物のパロディなのである
そうでない場合、事物は同じままであって、その姿にはがっかりさせられる」(バタイユ 「太陽肛門」より)
バタイユはパロディを世界全体の在り方、或いは解釈、世界の自己想像として捉えている様だ
そうだとしても、「世界は純粋にパロディある」この主張は明白なのだろうか?俺には俄かには鵜呑みに出来ない
だからもう少し、この意味を噛み締めてみよう
続く
その地点では、古い神秘劇の言葉を借りれば、次の様なことが起きる
美してく、たくましい
ロバが、現れる
(ニーチェ 「善悪の彼岸」断章八番より)
パロディとは既存のものの模倣ではなく、それを茶化したり笑ったりして権威を失堕させ、別の似て非なる解釈を打ち出す表現形式である
ニーチェはパロディの問題を、自然観に根ざした上下転覆の伝統と慣習に立ち返って捉えていた
ニーチェは言う
「真の世界を我々は廃絶してしまったのだ
で、どんな世界が残っているのか?
ひょっとしたら仮象の世界が残っているのでは?
そんなばかな!
真の世界とともにわれわれは仮象の世界をも廃絶してしまったのである」
(ニーチェ「偶像の黄昏」「いかにして「真の世界」がついに作り話になったか」より)
この辺は 俺の考えている 形の 桃源郷 vs 理想郷 の構図と似ている気もするのだが、
こういったニーチェの思想、パロディ感にバタイユは共鳴していた
そして、太陽肛門の冒頭はこうやって始まる
「世界は純粋にパロディであるのは明白なことだ
つまり人が目にする事物はどれも他の事物のパロディなのである
そうでない場合、事物は同じままであって、その姿にはがっかりさせられる」(バタイユ 「太陽肛門」より)
バタイユはパロディを世界全体の在り方、或いは解釈、世界の自己想像として捉えている様だ
そうだとしても、「世界は純粋にパロディある」この主張は明白なのだろうか?俺には俄かには鵜呑みに出来ない
だからもう少し、この意味を噛み締めてみよう
続く
