10年の長きにわたってお世話になったマンションの管理人の夏野さん(仮名)が1月いっぱいで定年退職されることになった。初めてお会いしてから10年も経ったのが信じられない。5年くらいの気分だ。勤勉で謙虚で知的な方で、住人からの評判も大変よかった。話によると某中央官庁を定年退職されたあとにマンションの管理人の仕事に就いたそうだ。2月上旬に異例ともいえる送別会が催された。私は病身につき参加できなかったが、夫は出席した。私も元気なときは毎朝のように挨拶して言葉を交わしていたのに加え、夏野さんとは個人的にひとつインパクトの強い思い出があった。 
 2017年10月の末だったか、秋にもかかわらずまだ暑さの残る年で、私は平日の午後、家にひとり、勝手口を開けて網戸にしておいた。すると突然、勝手口から聞き慣れない大きな異音がした。屋上から大きな石のようなものが落ちてきて、ガラスが粉砕するような破壊音だ。そして車の警報機がけたたましく鳴った。車のアラーム音が鳴ることは時折ある。玄関と勝手口は並んで北側にあり、塀の向こうは駐車場だ。塀を隔てて、うちの車はうちの玄関・勝手口から比較的近いところに置いてあった。やがて警報機の音は止み、静寂が戻った。
 異状があったのは明らかだが、外に確認しに行くべきなのか。10月とはいえ涼しいとは言えない日々が続き、普段からすごい恰好で家にいることが多かった47歳のおばはんの私は、着替えるのが面倒くさくてしばらく迷ったが、とりあえず見に行って何もなければそれでいいのだからと、重い腰を上げ着替て、エントランスを通り駐車場に出て、うちの車を見に行った。一見すると異状はない。念のためと車のそばまで行って後ろ(塀側)に行くと、目を疑う光景がそこにはあった。車のリアガラスが豪快に叩き割られて周囲にガラスの破片が散乱していた。何が起こったのか理解できない。そしてしばらくして気がついた。載せておいた二人分のゴルフバッグがない。
 大慌てでエントランスに戻ると管理人室に夏野さんがいたので、事件現場に来てもらった。警察に通報。夏野さんはちょうど帰宅時間だったが、残ってくれた。警察はなかなかこない。この程度のことではそう急いでは来ないのか。近所に交番はあるのだが、かなり待たされた印象がある。私は夏野さんがいてくれてよかったと心から思った。この状況にひとりで対処するのは精神的にキツすぎる。ようやくひとりの警官が来て、状況を見たのち、警察に連絡。状況を説明した。私のことを「マルガイ」と呼んでいた。それから私は夫に電話をした。仕事中にLINEはするが、電話をしたことはほとんどない。
「ちょっと事件がありまして…」
「ちょっとって、事件だったらちょっとじゃないでしょう」
 状況を説明して、早退する必要はもはやないが、なるべく早く帰ってきてくれるようにとお願いした。
 管理人室で防犯カメラを夏野さんと警察官と3人で検証することになった。映像はエントランスの中を映すもので、ガラス張りの入り口と管理人室入口が映っていた。
 まずエントランスホールを覗く、ひとりの怪しい男の人影が映った。顔までしっかり確認できるほどの鮮明さはない。やや小柄といったところか。うちはマンションの戸数自体が少ないので、基本的に人の出入りは多くない。男はエントランスの周囲に人がいないのを確認すると、うちの車があるほうに姿を消した。映像は無音だ。しばらくするとゴルフバッグ二つをもって小走りに逃げる男の姿がエントランスのガラス窓の外に映った。そののち、おそらく車の警報機音に気づいた夏野さんが管理人室から出てくると、ホールの外に出て、外を見まわす姿が映った。異状はうちの車の後ろに回らないとわからない。夏野さんは外に出てしばらくすると何事もなかったかのように戻ってきた。
 その数分後、中年のおばさんがエントランスに入って外に出ていくのが映った。誰かと思えば私だ。想像するよりデカい。あたしってこんななの? このころはジムに入り浸っている真っ最中で、自分のスタイルにはそれなりに自信があったのだが、思っているのより二回りはデカい。ジムの全身鏡に露出の高い恰好をして映っているのを毎日のように見ているはずなのに。ジムでは70代のご常連たちに「スタイルがいい」と再三言われていた私なのに。夏野さんはモニターに私が普段見ているような尺寸で映っている。ほんとにこれはいったいどうしたことだ。泣きっ面に蜂とはこのことだ。やがて「思ったよりデカい」おばさんが外から大慌てでエントランスに戻ってきて、管理人室に声をかけている姿が映っていた。
 定刻をずいぶん過ぎて夏野さんには帰宅してもらった。一緒にいてくれて本当に助かった。もしいなかったら防犯カメラのチェックもできない。ちなみに夏野さんは防犯カメラの映像の巻き戻し確認等をしたことがなく(必要がなかった)、当該時刻の映像を再生させるまで夏野さんと警官と三人で再生機と格闘した。夏野さんは飛び散ったリアガラスの片づけも手伝ってくれた。
 警察官がひとり残り、やがて夫が帰宅した。テレビドラマで見る指紋採取が車、そして私と夫に行われた。何が盗まれてどのくらいの金額かの書類を作り、被害届を出した。数日後、車で私の実家に行く予定だったが、車もこの状態だしでとりやめになった。
 翌日、夏野さんはお見舞い申し上げますという様子だった。私は実家にもっていく予定だった沖縄土産のちょっと上等なちんすこうをお礼として渡した。夏野さんは受け取れないと言っていたが、私としては夏野さんがいてくれたことがどれだけ「不幸中の幸い」だったかを説明して、受け取ってもらった。大したものでなくて申し訳ないが。
 リアガラスがド派手に叩き割られた車に乗り、夫は近所にあるディーラーに運転していったった。マンションのお掃除に来てくれている女性が唖然としつつ夫を見送った。
 その後、朝ポストに新聞を取りに行くと、警察から「深夜にパトロールしましたが、とりあえず異状は見うけられませんでした」という証明書のような紙が入っているようになった。一ケ月くらいは断続的に続いただろうか。結局犯人逮捕の連絡はいまだに来ていない。
 思い返せば、うちの車がヤラれる少し前、盗難バイクがうちのマンションの敷地内に放置されていたことがあった。ひとの出入りの少ない狙い目のマンションとその筋から目をつけられていた可能性は高い。うちの一件をきっかけに、防犯カメラの台数を増やし、かつ高性能なものと買い替えた。うちきっかけというのがなんとなく心苦しいような気もした。以来そういった事件は起きていない。
 事件後、友人にLINEで事件について話した。
「というわけで、めちゃくちゃ凹んでいる」
「私、よくアメリカのドラマとか見るけど、犯人と鉢合わせして超悲惨、みたいなパターンたくさん見たから、そんな風にならなくてよかったよ」

 こいつ、いいやつ、と深く慰められた。こういうときはちょっとしたフレーズがしみじみ心に響く。
 うちのマンションは2003年に完成して、夫は前妻と越してきた。夫曰く夏野さんは三人目の管理人ではないかとのことだった。前妻は近所をうろつく白猫を餌付けしてテラスに引き入れた。2006年に夫が42歳で離婚。中年男のわびしい一人暮らしをアイコンの白猫(るん)が慰めた。るんは平日昼間夫が出勤しているときにはマンションの一階にある他の家からエサをもらって何不自由ない暮らしを続けた。2011年、震災直後に夫は再婚して私が越してきた。私はるんを家に入れて飼うようになった。2014年に夏野さんが就任されて、2016年6月にるんは亡くなり、2017年の末に茶トラ(豆)がうちの近所をうろつくようになった。この頃この事件が発生したと思われる。豆は年を越してからうちの飼い猫になった。
「この猫(豆)は私より先輩ですね。私が来た時にはすでにいました。マンションの東側に居ついていて(うちは西側)、ネズミなんかを追っかけまわしていました」
 うちの飼い猫になって私に抱かれる豆をみて夏野さんは言った。夏野さんは私にとっては二人目の管理人になる。
 余談になるが、豆が2022年の11月に亡くなったあと、二か月ほどしてからカップル猫がうちのテラスに出入りするようになった。二匹は単独で来ることもあるし、二人一緒のこともある。丸々一年、二人は我が物顔でうちのテラスに出入りしているが、いまだに全く懐いていない。前の二匹は数か月で抱っこできるようになったのに、今の二匹は撫でたことすらない。ずいぶん勝手が違う。

★最近の出来事★
2/29 大谷翔平選手(29)が結婚を発表。
3/3 八村塁選手の所属するレイカースのスーパースター、レブロン・ジェームズ(39)が通算4万点を達成。
3/4 日経平均が4万円超えを達成。