まだ若かった大昔に読んで、なんだかおもしろくないなあ、と思った記憶はあるが、久しぶりに「文学」が読みたくなり、この作品を選んだ。
なんせ近代日本文学の頂に位置する作品のひとつだ。あとがきもすごい。人間国宝である俳優の花柳章太郎と、日本文学を世界に紹介したアメリカ人文学者サイデンステッカーだ。この「雪国」や谷崎の「細雪」も翻訳している。キーンさんみたいなひとかなあ?
で、どう読むべき作品なのか。やっぱり画集を愛でるつもりというか世界観を堪能すべく読むべきなんだろうなあ。「世界観を堪能」はどの小説でもそうか。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」
有名な冒頭だけど、キモは「夜の底が白くなった」だ。この言語感覚。散文における詩的日本語運用能力。ねえ、アナタ。この感覚を有する川端先生の愛した日本のわびさびの世界っつーかさ。越後湯沢を舞台に「もののあはれ」ですよ。この日本特有、うら寂しい北陸を舞台にした美意識。芸者である駒子はいかにもかもしれないけど、主人公の島村も相当哀れだ。自身は親の財産で働かずとも妻子を養っていけていて、見たこともない西洋舞踏の記事を想像で書いて文筆家扱いを受けている。
「彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ」
島村のキーワードは「徒労」だ。この諦観にあって島村の目に映るものが描かれている画集が「雪国」だと思う。島村にとって印象に残っている北陸の風景(人間含む)がつづられているだけ。だからどうしたということはない。島岡は「だからどうした」というような安い「意味」を重視する世界で生きていない。これといった意味はないからこそ美しさが浮かびあがる印象的なエピソードがあるのみ。あたしにすればずいぶんうら寂しい虚無的な世界だと思うが、くだらない言い訳がなくて突き抜けちゃってはいる。いろんなこと、特に駒子と島村の性的なあれこれについてもぼんやりしか書かない、でもぼんやりとは書く、といった川端先生の匙加減もこの作品の味わいのひとつだ。
すごく惹き込まれて読んだ箇所もある。
「妻子のうちへ帰るのも忘れたような長逗留だった。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会いに来るのを待つ癖になってしまっていた。そうして駒子がせつなく迫って来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのような苛責がつのった。いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとたたずんでいるのだった。駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来ているのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いていた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった」
ってこんなこと思って一度は駒子から離れようとするんだけど、結局戻ってきちゃう島村。こういう人間は周囲の人間の寂しさを深めるばかりで、誰も幸せにしないだろうなあ、とつくづく思う。まあこの描き方もすごい巧いと感心はしちゃいます。人生経験ある程度積んだ大人、あるいは若くて経験はなくてもカンのいいひとなら、ふむふむと思うこのくだり。しかし似たようなことを書こうとしても、こうは書けない。
というわけで、この作品が面白いのかどうかとなると、やっぱり「面白い」っていうのとは違うなあ。「芸術」だもん。よくよく考えたら「細雪」もそうだったよなあ。あれも大して内容はないもの。それでもまだ、「細雪」のほうが”話”があるけど。
(角川文庫 362円)