繰り返し書いているが、死んだアイコンの白猫はうちのマンションの一階にある四軒全てからエサをもらって、個々に名前をつけられていた。それがなぜうちのテラスに居ついたかというと、四軒のうち、うちだけテラスの柵に戸がついており、崖に面した共有スペースに出られる作りになっているからだ。戸の部分だけ柵の間隔が広く、普通サイズ以下の猫なら隙間から出入りすることができた。
 もともと夫の前妻が餌付けした白猫だが、彼女が出ていくと、ひとりになった夫が白猫の面倒をみるようになった。というか猫が夫の無聊を慰め、面倒を見ていたともいえる。会社勤めの夫は日中いなかったが、お腹が空けば他の三軒からエサをもらえばいいので、うちのテラスを本拠地に出歩いていた。
 私がこのマンションに来た時、白猫は既にテラスの戸の隙間から出入りしていたが、夫の話によるとかつては飛び越えて出入りしていたそうだ。私が来た時には既に白猫はばあさんだった。白猫が死んで一年半経ったころ今の茶トラが来るようになった。
 茶トラは往年の白猫同様、柵を飛び越えて出入りした。テラスは外より少し高さがあるので、入るときのほうがその分高く飛び上がらなければならないし、出るときのほうが高いところから飛び降りなければならない。やがて茶トラは出るときは柵の間から出るようになった。当然だがそっちのほうが楽だ。間隔はさほど広くないので、腹回りが一瞬つかえそうになるが、自らの重みも使ってすり抜けていた。しかし入るときは頑固に柵に飛び乗って入ってくる。
 しかしやがて彼にもその時は来た。このところ数回に一度は失敗してずり落ちるようになった。猫とはいえ(猫だからこそ?)できていたことができなくなるというのはショックなようで、失敗するとすぐ再トライをするでもなく、柵の前で茫然と佇んでいる。見かねて柵の前にしゃがみ、猫に視線を合わせて、
「ここから出たんだから、入れるでしょ」
 と隙間に促すと、しばらくウダウダと迷ってから、いかにも不本意だという風にぎこちなく隙間をすり抜けて入ってくる。途中でひっかかりそうだ、という恐怖もあるのかもしれない。柵の上に飛び乗るとき同様、入るときは少しジャンプをして狭い隙間に体を入れなくてはいけない。
 今は失敗より成功が多いので、茶トラは柵に飛び乗って入ってくる。早いところ、入るのも隙間からを習慣づけたほうが彼のために思える。
 ちなみにこの茶トラはキャリーケースに入れられるのが嫌いだ。前の白猫ももちろん嫌いだったが、茶トラは不愉快の表明として中でうんこやおしっこをする。うんこをすることのほうが多い。なまじな人間より臭い気もするし、ケースの中で動き回るので自分がうんこまみれになったりする。うんこまみれ。それはギャグマンガの中だけの出来事だと思っていた。白猫にそういう習性はなかったし、病院から帰るときに至っては自分からケースに入るくらい賢かった。この点を見ても茶トラは白猫と比べてバカなんじゃないかと思える。うんこまみれになったケースは毎回テラスで丸洗いする以外方法がない。うんこにまみれた猫はできるだけ拭くが一度でキレイになるものでもない。なんせ臭いがすごい。ほんとうにバカなんだろうな、白猫と比べると。
 猫は家に入れたらガーゼをつけた猫ブラシでブラッシングするのが習慣だ。ブラッシングしたあと取れた毛とゴミをガーゼごと捨てる。そしてまた新しいガーゼをつける。しかしこのコロナ騒ぎで店からガーゼが払底された。最近マスクは戻ってきているが(アベノマスクは届かないが)、ガーゼは相変わらずない。というわけでもはや限界と、アマゾンで購入。割高ではないと判断して買ったが、30センチ×10m。10mって。果たして猫が生きているうちに使い終わるのか。

※テラスの柵の上に乗る俺。飛び乗らなくても扉の柵の広いところからは出入りできるけど、猫としてのプライドもある。


★今週のつぶやき★
5/14 特定警戒地域を除く39県で緊急事態解除。ヒマに任せてフト考える。1970年生まれの私だが、バブル崩壊にしろリーマンショックにしろ東日本大震災にしろ、どれも結局ことが起こったのは「部分」だった。それが全体に影響を与えるということはあっても、あくまでも直接ことが起こったのは部分。でも今回は日本中、世界中津々浦々くまなくで、その証拠に私たち全員が当事者だ。正真正銘、世界大戦以来の未曽有の事態に陥った。ポスト・コロナの世界と生活のあり方もこれから長い期間をかけて構築していくことになるし、「戦争は知らない」私たちだけど、結局こういう風にはなるんだな、と。悲観的になっているわけではないが、本当に、シンプルに、どうなっていくんだろうと思う。パソコン、携帯が私たちの生活を変えたくらいのパラダイムシフト(百合子みたい)が起こるんだろう。「まったくもとに戻る」ってもうないわな、たぶん。パソコン、携帯の普及は情報・交流の「拡大」を担ったけど、少なくとも数年は「何かと縮小」になるだろう。てことは、自分たちも人生仕切りなおすくらいのフレッシュな気持ちにならんと矛盾になるのかもしれない、なんて思ったり。価値観の大転換が起こる。それは具体的にどういう世界なんだろう。縮小は単に縮小であって、全体としての「衰退」になるのかどうかはわからない。バブルの崩壊だって、今から振り返ると基本「あんなバカ騒ぎしていた時期」扱いで、「あああるべきだ」とか「あの華やかさに戻りたい」と思う人もそう多くはない。ただ短期的には相当な痛みと混乱が続くはずだ。その中にあっていかに現実的、実際的でいられるか。
 とりあえず。目に見えないウイルスは恐ろしいような気もするが、マメな手洗い、適宜マスクの使用と消毒等、基本的な感染症対策を敢行すれば、あとは無駄に怖がっても意味がない。意味がないどころか今後の生活には有害。自分ひとりがやるのは勝手だがひとに強要しないこと。生きること自体常にリスクと隣り合わせで、よく言うことだが交通事故が怖いから外を歩かない、車に乗らないというのと同じ。こういう「めったやたらな恐怖症」人間がどれだけ世界に、人生に活路を見出すのか。