書簡文学の傑作と言われるラクロの「危険な関係」。このフランス文学は各国で何度か映画化されている。1988年度のアメリカ版(グレン・クローズ、ジョン・マルコビッチ主演)は大学時代に映画館で見て、本も読んだ。ということで30年ぶりだか、映画もみて本もまた読んでみることにした。映画はアマゾンプライムのレンタルで見た。時代の変化を感じる。
侯爵夫人(グレン・クローズ)がかつての愛人、子爵(マルコビッチ)に手紙を送る。「かつて色恋沙汰においてあたしたちをコケにした伯爵に復讐するチャンスが到来しました。あなたには15歳のおぼこ娘セシル(ユマ・サーマン)を結婚前に落として、あたしを捨て他の女に走った男(伯爵)に嫁がせてほしい。かつてあなたを捨てて伯爵のところに走った女がいたことを思い出せば、あなたにとっても胸のすくことでしょう」。
それに対するマルコビッチの返事。「そんな計画は今の僕には大して魅力がありません。今、私は貞淑と美貌で名高い法院長夫人(ミシェル・ファイファー。小説の設定では22歳。結婚二年目)をモノにする計画に夢中なのです。世間知らずの処女を落とすことに比べて、貞操観念の強い人妻をわがものにするこの計画はどんなに困難で、どんなに魅力的なことでしょう」。
それに対する侯爵夫人の返事。性根は筋金入りのアバズレなので、あたしが意訳してまとめる。「えっ、マジ?! ドン引き。しょーもな! あんなあか抜けないダサい女に夢中なんて、よくそんな恥ずかしいことを堂々とこのあたしに言えたわね。あんたも相当ヤキが回ってんね。あんな面白みのない女とベッドインしたところで単調で退屈なセックスが待ってるだけなのに」
と、こんな風に書いてみたが、侯爵夫人が世の中(社交界)から「品行方正/高い婦徳」で評判がいいのに比べて、子爵はその放蕩乱行が知れわたっていて悪名高い。つまり侯爵夫人のほうが女であるがゆえに世間体に対してより用心深くならざるをえず、結果巧妙で役者が一枚上なのだが、本質的には似たもの同士。お互いにそれを認め強い仲間/同族意識がある。
この二人共通の価値観は「ゲームの達人」であることだ。他人より実質的に支配的な立場に立つこと。それは互いに対しても変わらない。それが色恋沙汰に限定されているので幾分あほらしい感じはするが、他にすることないのが貴族社会なんだろうか。源氏物語とかね。でもこれが色恋沙汰だから楽しんで読めるってあるよ。「ゲーム」で他人を商売とか地位、人生で陥れる話だったら痛ましくてあたしは読まない。恋愛沙汰で人生を台無しにすることはあるにしても。侯爵夫人と子爵の「美学/信条」によれば、恋愛を楽しむのはアリでも、相手に夢中になるのは「負け」を意味する。「負け」は「ゲームの達人」には許されない。「演歌派」なんつーもんがあるとしたら、そんなのそもそも恋愛する意味ある? となりそうだ。
そのへん踏まえてもどうかと思うのは、子爵が法院長夫人の手紙を盗んだりすることなんである。これって「プレイボーイ」の美学に反しないのかね? 今の感覚だと、モテないストーカー男が思い詰めた末する行為だ。
というわけで「わるいやつら」な二人だけど、ある種のカッコよさというか爽快感に近いものがあるのは、孤軍奮闘の上に被害者意識がないせいだろう。
「私はまだ(十代前半で)年も若く、なにごとにも大した興味はありませんでした。しかし、私の考えだけは私のものでしてから、私の意志に反してそれを取り上げられたり見破られたりされれば、腹が立つのでした」
”被害者”になるなんて恥、というのが二人に共通した決意だ。やっぱり被害者意識が旺盛な登場人物って不快だよな。あたしは特にその傾向がある。たとえば「恵まれない幼少期」の鬱屈した想いで悪、あるいは善を為す、とかね。そういう話ほんとに苦手。辛気臭い。登場人物を理解するは生い立ちが、なんていうけど、基本現在と未来しかみてないひとたちの話がいい。加害者のくせにその意識がない登場人物もかなり不愉快だ。不倫美化の小説の主人公とかね。筆者が酔ってるから話にならないよな(ex渡辺淳一氏の一部作品群、冬ソナのチェ・ジウ)。こういうキャラクターたちと比べたら、自覚の上で加害者のこの二人のほうが読んでてよほど好感がもてる。
「私という女は、もう一度あなた(子爵)を虜にすることも、あなたに法院長夫人のことを忘れさせることも、やればやれる女なのです。(中略)あなたがあの信心深い女性を手においれになって、その証拠を私に見せることがおできになったら、すぐにいらしてください。そうしたら私はあなたのものになります。(中略)実は本気で申すのですが、貞女というものはあのことのあとでどんな手紙を書くものか(中略)私はそれが知りたくてたまりません」
すごい自信。とにかく他人より優位に立つことが何より大事な侯爵夫人だが、その見下ろし方というか生き方は楽しいか? という疑問はつきまとう。彼女も狭い視野と価値観の中で生きながら、自分は誰よりもものが見えていると誤解している。
そんなこんなで小説の筋自体はけっこうおもしろいと思うし、展開も手紙の通数に対して考えれば悪くないテンポだと思うのに、とにかく一通が長い(ってこんなブログ書いてるあたしだが)。あんな手紙(メール)を現代でもらったら、たいていのひとはその長さにまずびっくりして引く。もっとスッキリ要点まとめてほしいというか、クドクドいろいろ書いてあるけど、とにかく前置きが長い、表現が回りくどい。結局何が言いたかったのかわかるようでわからない、面倒なのでわからなくってもいい、となってしまう。特に侯爵夫人と子爵の手紙は長い。この二人、恋の権謀術数に没頭しているように見えるけど、それと同等以上に書くことが好きなんだとしか思えない。書くことが好き、っていうのはもちろんわかるよ、あたしも。でもあっちは手書き。なんぼ書くのが好きなあたしでも、手書きであの長さは難しいような気がする。特にこんなPCの世の中になってみては。
でもそう考えてみると、この時代はテレビはもちろん映画とか映像の娯楽、情報伝達もないわけで、音楽・舞台はあるけど手紙含む文字による娯楽が最もお手軽で、今とは比べ物にならないほどその生活に対する比重が大きかったんだろうな。
法院長夫人は子爵に「恋」を告白されて「不倫」を拒否するが、その手紙もまた長い。これってイエス、フォーリン・ラブの証拠だよな。最初っから「信じられない」となったら、反応しないのがフツーだろ。22歳で恋愛経験なく結婚して(でも尊敬できる旦那様のよう)、名うてのプレイボーイに「真剣なんです」って迫られて、舞い上がる(平静を保てない)のは理解できるよ。嫌よ嫌よも好きのうち、ってののバカバカしいくらいの典型。でも一通をもう少し短くしてほしかった。
「私(子爵)の計画というのは、彼女(法院長夫人)が私に捧げる犠牲の一つ一つの重さと大きさをじゅうぶんに感じさせることであり、良心の呵責が追いつけないほど早くは彼女を導かないことであり、彼女の貞操をゆっくりと悶えさせながらしめあげていくことであり、その悩ましい光景をたえず彼女にみせつけてやることであり、そうしてもはやその欲望をいつわることができないようにさせてからはじめて、この私を腕に抱く幸福をあたえてやることなのです」
今の世の中、日本においても不倫願望のあるスケベおっさんは少なくないだろうが、ここまで求道的っていうか、手間暇かけて邪念を膨らますひともそう多くはないだろう。やっぱり暇のなせる業としかいいようがない。人間することなくなるとこんな風になっちゃうのかね。作り事だけど。これもキリスト教って「規律」があってこその背徳の喜びであるから、あたしたちに日本人にはもうひとつわかりにくい感覚ではある。
ただこの二人の価値観は「快楽・恋愛至上(貴族)社会」ならではのものと予測される。日本のバブル期、トレンディドラマ華やかなりし頃の価値観と近いのではないだろうか。侯爵夫人の年齢は明記されてないが、自分を指して「若い女」と書いているので、グレン・クローズは実は違いそうだ。なんとなく法院長夫人とそう変わらない年齢かな、という気もする。20代半ばとみればいいのか。そう考えると自己過信が激しい若い未亡人ということになる。欲望と虚栄心にまみれ、自分は世間を上手に欺いている、世間はなんてバカなんだろう、と恋愛経験はそれなりでも人生経験が実は根本的には浅い、傲慢で金と暇を持て余した若い女の像が浮かんでくる。ほんと、あたしくらいの年齢(50)になるといくらヒマでもこれはないわ、元気というか、あほらしいというか、と思うけど、25歳くらいだったら侯爵夫人の価値観にもう少し寄り添うことができたかもしれない。そう考えると子爵の年齢も不明だがマルコビッチは違いそうだ。おそらくセシル(ユマ)の婚約者であり「お年寄り」呼ばわりされている伯爵(36)よりは若いとみて、二十代半ばから30歳前後か? もしかしたら侯爵夫人より若いかも? まあ「兄ちゃん」扱いしていいかもしれない。
映画にもある通り、子爵は法院長夫人を手間暇かけてストーカー的犯罪行為までして落とす。それで「これで私は彼女を捨てる権利を得た」。ってもう何が目的なのか。「悪い男」がというよりは、暇も極まるとこうなるか、としか思えない。ただこの「勝利の報告」である手紙の末尾で、こうなったからにはあなた(侯爵夫人)から「ご褒美」がもらえるはずだ、と繰り返し書きながら、
「生まれてはじめて私は、快楽の後まで残る陶酔というものを知ったのです。私はやっとの思いで彼女(法院長夫人)の腕から離れると、彼女の前にひざまずいて永遠の恋を誓いました。しかも、正直にみんな申し上げしまうと、私は口で言う通りのことを心でも思っていたのでした。そうして、わかれたあとでも彼女の姿が頭をはなれず、それから気をそらすためには、よくよくの努力が必要だったのです」
と、このくだりが侯爵夫人の逆鱗に触れる結果となる。「てめー、あたし以上に感動をもたらす女と巡り合ったのでご褒美くださいとはどの口が言うか?」。この辺の子爵の無邪気で油断したあたり、リアリティあるよなあ、と思う。その後の侯爵夫人の真骨頂と思われる手紙の部分。
「あなた(子爵)もそのサルタンのように、けっして一人の女の恋人でもなければ友人でもなくて、常にその暴君であり奴隷なのですから」
「それにしても虚栄心というものは、どこまで人をひきずっていくものでしょう。虚栄心は幸福の敵だと言った賢人がおりますけれど、ほんとですわね」
当時の貴族社会は本当に虚栄心が支配的だったんだと思う。盲目的にひとは虚栄心に引きずられ、その影響力は日本のバブル期以上だっただろう。今は世の中自体がそこまで虚栄心に引きずられているとは思わないが、SNSで現実を盛るような行動を取るひとも一定数確実にいる。自分の写真の加工は普通だ。虚栄心と人間が無縁になることはないし、虚栄心が100%否定されるべきものではないと思うが、「虚栄心が過度に支配的」は個人としても社会としても病巣になる。
侯爵夫人の激怒をきっかけに二人は後戻りできない意地の張り合いを展開し、若い二人を巻き込んだ破滅に突き進む。常に覚めてて利口なのが自慢の二人だったのにこうなってしまったのは、子爵にとって法院長夫人がただ一人惚れぬいた女性であるのと同時に、侯爵夫人にとって子爵があまたいる愛人とは一緒にできない、ただひとりの男性だったせいだろう。自分はいくつの恋の勝者だったかと指折り数えてホクホクしていたような二人が、結局恋によって身を亡ぼす。恋って本当に怖いですね~(淀川さん風)。あとまあ、傲慢も二人の破滅の大きな要因だよな。ちなみに「書いた証拠」は結局侯爵夫人に提出されずじまいだったみたい(だよね?)
映画と比べて。当たり前だけど原作のほうがプロセスに説得力がある。特に終盤。映画は端折りまくった。文学作品を映画化するときにはよくあることだ。
(竹村猛訳 角川文庫 780円)
★今週の誕生日★
12/24 クリスマスイブですが、夫の誕生日です。無事57歳になりました。おめでと~
いつもお世話になってます![]()
※日本語で書かれた書簡文学で、これはいいです↓
