45歳の弁護士シロさん(西島秀俊)と43歳美容師のケンジ(内野聖陽)の中年ゲイカップルの日常を描いた、よしながふみの漫画をドラマ化。漫画のほうはMX「5時に夢中」で新潮社中瀬さんが薦めていたので知っていたが、豪華キャストでドラマ化されているとは知らなかった。
 ほとんど時を違わずして、友人三人と妹の計四人がこのドラマを面白いと薦めてきた。世間狭く、友人や妹ともそう頻繁に連絡を取るわけでもなく、まして誰かとドラマの話をすることもほとんどない私にとって、これは今までにない現象だ。というわけで第六話から見てみた。途中からでも楽しく見られたし、なかなか面白かったので毎週録画することに。そして第七話が傑作だった。冒頭からラストまでニヤリとさせるシーンの連続。すっかりハマって、毎日何度も繰り返し見た。以後最終話の12話まで、7話ほどではないにしても好きなシーンがたくさんあった。そこで好きなシーンだけに編集してDVDに永久保存を決意。DVD保存は「逃げるは恥だが役に立つ」に続いてテレビドラマでは二本目だが、#7は主題歌とCM以外は1か所も切ってない。薦めてくれた友人のひとりから、このテレビ東京のドラマ枠は終わると自動的にBSテレ東の日曜深夜に移ると聞いて、楽しみに再放送を待った。
 そして第一話が再放送。見てびっくり。まず内野さん演じるケンジの芝居が硬い。私の知っている第六話からの「活き活き乙女」のケンジではなかった。私の知っているケンジ(内野さん)は、コメディの芝居とシリアスなそれをかなり明確に演じ分けていて、時として「笑わせよう」という意図がはっきりわかる攻めの芝居をしていたが、第一話のケンジにそういう「こなれ感」はなかった。「ケンジ」は匙加減が難しい役だが、回を重ねるごとに内野さんの中でケンジが確立されていったのだろう。
 舞台出身の名優によくあることだが、コメディとシリアスとシーンによって芝居の質そのものをはっきり分けて演じ、その差に違和感を感じさせない。六話以降のケンジはコレだった。私の予想だが、舞台出身の俳優は「一時間以上椅子に縛り付けている目の前の客を飽きさせてはいけない」というメリハリ重視の傾向があるのではないだろうか。加えて舞台俳優は表情の細部まではみえない後部座席の客に対しても喜怒哀楽を伝えなくてはいけない。対し西島さんは第一話からあまり変わらない。映像系の俳優さんは均質性みたいなものを重んじて、舞台系のひとにありがちな露骨な「あざとさ」は控えることが多い。これはどちらがいいとか優れているとかいうことでもなく、結果として作品が成功しているかどうかがすべてだ。特にこの作品はシロさん、ケンジのキャラ設定そのものがお互いの俳優としての在り方にマッチしているので、コンビとして成功している。どーでもいいけど、西島秀俊、1970年生まれの私とは学年が同じってやつだ。
 加えて第一話で驚いたのが、ケンジが「僕のほうが男」と発言していたことだ。え? 「ふんわり乙女」じゃなかったの? このあとシロさんが「俺はタチネコでいったらネコってくらいで」と言う。うん? 「タチネコ」って言葉はうっすら知っているが、調べてみる。「タチ=攻め、ネコ=受け」とのこと。おそらくざっくりした性向のこというだけで、ゲイカップルが明確に線引きして必ずそれぞれ男女の役割を担っているわけではないにしても、ドラマ上内面が男なのはシロさん、女なのがケンジであることは間違いないはず。深まる混乱。そこで愛読している三浦しをんのエッセイを思い出す。彼女はBL漫画にも造詣が深く、映画「ロード・オブ・ザ・リング」の”スラッシュサイト”について語っている箇所があった。「レゴラスが攻(男役)でアラゴルンが受(女役)なんですか!」。というわけでゲイワールドではベッドの上で「タチ(攻)=男、ネコ(受)=女」というような性向、あるいは役割分担を表す言葉遣いがあるかと思われる。ちょっとノンケにはわかりにくいよ、このセリフ。「尽くすタイプ」のケンジがベッドの上で優秀な「タチ」である可能性は高い。ちなみに三浦さんはエッセイの中でよしながふみ氏の才能を讃えていた。
 ただこのドラマをみていないひとに誤解しないでほしいのは、いわゆるゲイ的なきわどいシーンは皆無だということだ。ゲイとして生きる(生れつく)こととはどういうことか。シロさんとケンジの仕事、社会、親との関わりを通して描いた、実はけっこう真面目な作品だ。笑えて、面白いんだけど、しみったれることなく、深刻になりすぎず、軽妙さを保ったままそこを描き、大変優れたドラマだと思う。いわばその第一話の「こんな乙女な俺ですけど、ベッドでは攻めなんですよ」的、「サラっときわどいことを言って面倒な客を黙らす」シーンが結果として一番きわどくなっているくらいだ。
 見ていてケンジが一番近いリアルのゲイはクリス松村かな、と思った。クリスも自分のこと「乙女」つってたけど女装してないし。でもクリスは自分のことを「あたし」というけど、ケンジは「俺」だ。クリスは化粧はするしなあ。このドラマに出るゲイに女装はいないし、全員一人称で「あたし」等を使わない。この辺は「型にはめるな、ひとそれぞれ」といったあたりか。
 最後シロさんの親が「ケンジが家で女の格好をしている女役」と”誤解”して「うちの息子はそうでない」と喜んだとされるシーンがあったけど、あれもそう「頭の固い昭和な親の稚拙な思い込み」ということでもない。女装こそしないがケンジが「女」なのは事実で、少なくとも息子が自分たちの前で言葉遣いや服装など、本来の自分を長年偽っていたわけではないという確信がもてたことは、あの両親にとって間違いなく喜ぶべきことのはずだ。長年の不安が解消して、そりゃ高笑いもするわ。梶芽衣子の息子が西島秀俊というのは、「結婚できない男」で草笛光子の息子が阿部寛に並んで「さもあらん」的いい配役だと思った。
 ちなみにうちの夫だが、料理の腕、手際の良さについてはシロさんに大変近い。土日の夕飯は夫に作ってもらっているが(時として昼も)、作る料理が庶民的でヘルシー、めんつゆと顆粒だしを多用するところも似ている。夫には半ば強制的にこのドラマを見せている。よって夫は特に思い入れなくこのドラマをみている(つけている)が、シロさんの料理のシーンになると、「あれじゃ味が濃い」「ここでコンソメを入れると思った」など、なんとなく対抗心を感じさせるコメントを発する。ただシロさんは本当の料理好きだけど、夫は「特に嫌いではない」という程度なので、そこは違う。でもひとりのときにお腹減って疲れて帰ってきて、「あるもんでなんか簡単に作るか」と思うあたりはシロさんと同じだ。私だったら絶対出来合いのものを買ってくる。

※追記:正月特番と映画も見ましたが、どちらもこの連ドラにあったほどの魅力は感じられなかった。残念。それはなぜかと考えた。最初の連ドラは今の日本で性的マイノリティとして生きることがどういうことか、ケンジとシロさんていうタイプの違うゲイの二人の仕事、親、パートナーとの関りを通してその苦悩、葛藤を軽妙に描いて見応えがあったが、特番以降は主人公がゲイのカップルであることに大した意味はなくなって、ドラマ自体が薄味になった。

※ドラマの中でシロさんが「世間体を気にして女の子とつきあったこともあった。もしかしたらあのまま結婚していたかもしれない。結婚して、子供を作って、でもゲイであることは止められないから、家族もパートナーも傷つけて生きていくことになる。そんなの、今は想像するだけでぞっとするよ」という主旨の発言をしていたが、まんまこのパターンの人生の悲惨さを描いたのがこのドラマ。こちらも秀作です。