1939年アメリカ。世界で最も有名な映画の一つ。「人生の困難に立ち向かう女性」ってありがちな話なんだけど、この映画の最大の魅力はヒロインのキャラクター設定だ。スカーレットはまあまあ自己中で知的でも上品でもなく、とにかく強気で思い込みが激しい。しみったれてないところがすごくよかった。気が強くて利己的で行動力抜群というのはトランプ大統領に似てる。商魂たくましいところも同じ。善良で健気なヒロインが嫌がらせや悪意という困難に立ち向かって云々みたいな辛気臭い話、ほんと苦手。
「古き良き南部」タラでアイルランド系のオハラ一家は裕福な暮らしをしていた。黒人の召使がいて上下関係はあってもそれぞれの立場にあって建設的な絆があり、屋敷はにぎやかだ。娘のスカーレットはものすごい自信家。近所に住むアシュリー・ウイルクスに恋しているが、アシュリーは従妹のメラニーと婚約してしまう。スカーレットはアシュリーが自分への愛に気づいていないから「貞淑ぶりが鼻につく」メラニーと婚約してしまったと思い込む。昼間肌を出すのはレディの嗜みに反するのに、スカーレットは自分を魅力的に見せるべく鎖骨の出たドレスを着て、アシュリーに「真実を告げに」、婚約披露のパーティーへ行く。そこには慣例通り首元まであるドレスを着たメラニー他の若い女性が多々いるが、みんな「スカーレットはそういう女性」と特に気にするでもない。そんな中、時代は南北戦争へと向かっていた。
以前記事にした小説「みをつくし料理帖」は、友人、母、その周辺でみなが夢中になって長い小説を読んでいたが、私はダメだった。三巻で脱落。何がダメって、主人公とその周囲が徹底して善人でつつましやかで、周囲に裕福な悪人がいて善人たる主人公たちに危害(困難)を加える中で人生を切り開いていくって図式がダメだった。この和式情緒、ほんとに苦手。江戸風俗や料理についてしっかり調べられていて、興味深い要素はあったのに。スカーレットが立ち向かう困難は他人の悪意や誹謗ではなく時代の流れだ。ここもこの作品が優れているポイントだ。我の強さにおいてはチャンピオン級。そんなスカーレットが南北戦争で負ける南部に生まれ育ち、北軍にすべてを破壊されてく中で孤軍奮闘。基本は自分さえよけりゃいいスカーレットが家族、友人を護って力強く生き抜く。「通常時」のスカーレットは嫌われてそりゃ当然だよな、という言動が多いが、逆境に陥ると自分の命が危険にさらされ、利己心に引き裂かれても、家族、友人、約束を結局のところ護ろうとする。土壇場でこそ人間の本性が現れるというが、私はスカーレットより上等な人間だという自信はない。
愚かな自信家スカーレット。演歌調な報われない想いを抱く哀れな女には見えない。特に若いころの自分を見ているようで身につまされる。スカーレットのアシュリーに対する想いを支えているのは、「彼は本当は私を愛している。彼は私を愛して当然だ」という願望であり思い込みだ。
「メラニーみたいにつつましやかで聡明、芯が強くてどんな相手にも公平で優しい女性はアシュリーに愛されて当然だ。私は陰ながら彼を想うに留めよう」
なんて謙虚な考えはスカーレットには生まれつきない。アシュリーとメラニーは実際に抱き合い、キスをして、子供まで作って絆を育んでいるのに、男性と愛し合った経験がないのでいまいちそこがわからないのか。自分は愛も絆もない結婚を自分の意思で二度もしている。気質はストーカーだが、気位が高い。現実をみることなく、自分の願望こそが現実だと思い込んでいる。自己中な人間が陥りがちな罠だ。結局自分の中しかみていない。私自身が本質的に自己中な人間なのでよくわかる。自己中な人間は「自分」という罠にはまっている。外に目を向けることでこそ「自分」は開放されるのに。関心・観察眼を外に向けることこそがひととしての健全さであり幸福だ。そこに大小の行動が伴う。「自分」の内面ばかりを集中して眺め、肥大化させることでひとは病んでいく。
ここまでは理解できるんだけど、レットに深く愛されて贅沢を与えられて、可愛い娘が生まれてもまだアシュリーを諦めないのは驚きだ。こいつこの時点で何歳だ。スカーレットが「普通の女性」だったら、とっくにアシュリーなんて忘れそうなもんだけどね。
「あたしはなんて長いこと、なんてしょぼくれた男を崇めていたんだろうか」
って憑き物が落ちてもよさそうなもんだ。この辺は理解不能。この時レットは社会的地位もあり、父親としても充分以上の愛を娘に注いでいる。それに対してアシュリーときたらいつまでもしみったれ。やっぱりアシュリーと離れて暮らさなかったのが大きな仇になったのか。慣れ、習慣とは恐ろしいといったあたりか。レットに懐柔されないスカーレットはあたしにすれば「異常な女性」だ。自分にしろ惚れた男にしろ、子供ができるということがここまで響かないのも異常だと思う。裕福な家庭で両親に愛されて育ったのに、なんでこんなになったのか。というわけで「異常な」スカーレットはせっかく幸せになれる機会を得たのに、自らぶち壊していく。なんて思って見ていたら「その時」は来た。遅い。ここまで「持ちこたえる」スカーレットがあたしは謎だ。原作読むとこの辺納得できるんだろうか。あたしがチョロい女ってだけか。とにかくレットは「その時」には既に疲れ果てている。
アシュリーが優男風なのは当然として、もっと美男ならなあ、と最初は思ったが、ずっと見ていると「なんでこの程度の男に」と思えることのほうにリアリティがある。現実にもよくある話だ。
それにしても価値観の移ろいやすさには驚く。従来の奴隷制を肯定する南部の人間たちは私たちと本質的に同じ人間。支えとしている価値観が全く違うだけだ。今私たちが拠り所にしている価値観も一つの流れに過ぎない。人間はいつまでも変わらないが、価値観はあっという間に変わる。負けを運命づけられている南部の人間の価値観、観念的、精神論的なものの見方は日本軍にかなり共通している。
別の作家が原作の続編を出版して話題になっていた。読んだことないけど。あたしなりにこの続きを考える。スカーレットもさることながら、レットもあまりな個人的悲劇の連続に深く傷ついている。お互いしばらく離れているのもいいと思った。この二人は若い時から出会っては別れての繰り返しで、出会っている時には必ず濃厚な時間を共有している。互いに「運命の相手」なのは間違いない。また人生が交わって当然のような気もする。その時スカーレットは初めて「幻想」から解き放たれた女性としてレットに出会える。でもまあ、「二人で仲良く暮らしました」はイメージとしてピンとこないふたりだけど、50歳、60歳を超えれば違うかな。
※高田郁著「みをつくし料理帖」についてはコチラ(「読んでいない本に関するエピソード」)