キャーッ♪ ようやく読み終わった全26巻。実に丸四年かかった。この作品は新聞小説として18年かけて連載されたそうで、一日一紙分は読むのを自分にノルマとして課していた。朝、催したらこの文庫本をもってトイレに入るのが日課になった。そう考えたら読み終わるの早くない? 快便なので便所が長いってことはない。トイレの外で読むこともあった。それにしてもこれからの「朝のトイレのお供」はどうしよう。宮本輝「流転の海」シリーズが読みかけだけど、あれは新聞小説でもないので、ちょうどいい切れ目がなく、試してみたが「毎朝のお供」にはあまり向いていなかった。
 家康の最晩年を描いたこの巻で印象に残った箇所を挙げる。

 家康の六男・忠輝はいろいろあって生涯父家康との対面を許されないことになってしまう。
「忠輝の生き方は、いままであまりに他人任せであり過ぎた。父も、兄(二代将軍秀忠)も、舅(伊達政宗)も、自分の周囲の者は、みな自分に好意を持って生きている、そんな風に信じきって甘えていた。ところが世間の実際は逆であった。兄には兄の立場があり、父には父の理想がある。伊達政宗が、自分を空しゅうして婿のために犠牲になるはずもなければ、だいいち世間が、忠輝のためにあるはずものではなかったのだ」
 人生において、知らず知らずのうちに大失敗に至るというのはだいたいこのパターンだろう。私にも身に覚えが十分にある。大失敗に至る前に気づくチャンスは振り返ればいくつかあったはずなのだが、それをスルーし続けると大打撃をくらう。この文章のキモは、「いままで他人任せでありすぎた」だろう。無邪気といえば聞こえはいいが無頓着の弊害。悪気がなければ許されるものでもないパターンの典型だ。

 

 というわけで総括。家康の死を目前に控え、柳生宗矩は震えを覚える。
「(家康は)鬼だ! これこそ凄まじく、大きな泰平の鬼なのだ! それにしても、何という雄大な思案の規模であろうか。眼を血走らせて人殺しを事とした国盗りごっこの戦国武人。その中から、どうしてこうした大きな視野、大きな思案の人が育ったのであろうか。ここまで来るとそれはもはや、小さな一私人ではなくて、まさに神や仏そのものに思えてくる」
 と、荘八君はあからさまにそういうスタンスでこの小説を書いているので、そういうもんだと思えばそういう読み物として読める。時々冷めたけどさ。未来の民衆の安寧、大儀のためにいちいちの行動の指針を置くっていう、山岡君のハートは刺さったよ。しょーもない、子ナシ専業主婦のあたしでも、自分に置かれた立場の範囲でそうあってしかるべきなんだなって、素直に思った。やっぱ大きなビジョンのある小説っていうのはいいね。もうちょっと家康リスペクトを小出しというか巧妙にしてほしかったけど。「史実」が所々古いのも致し方なし。すべての歴史小説が持つ宿命だ。文章は平易で読みやすいが語彙は豊富。表現も豊か。日本語の文章の見本のひとつだ。所々変な箇所がクドかったけどさ。
 私としては全体的に戦の描写がとことん退屈だった。関ケ原だろうが大坂の陣だろうが。全然場面に感情移入できないでほぼ活字を追うだけ。誰がどこから出陣してあーしたこーしたとか、全然地理感覚わかんないし。敵も味方も武将の数が多くて誰がどういう動きをして、それがどういう意味をもつのかいまいちわからない。どうせわからないからと興味も湧かない。これは山岡君のせいじゃなくて、おおむね誰の筆によっても個々の戦の描写はダメだ。

 夫がこの「徳川家康」を若いころの読んだことがあるという話は聞いていた。去年上田に帰った時、本棚に古い装丁で26巻並んでいたのを見つけた。夫はそもそも本を読むタイプでなく、他の本はない。読んでない巻は持って帰ってもよかったが、なんせ夫が20代、本は古ぼけて茶色くなっていた。よって持って帰ることはなく、読んでない巻は結局新たに買った。夫は二か月で読み終わったそうだけど、ほとんど内容を覚えていない。そもそも歴史オンチだし、本を読んだり座学をしたりがあまり得意でない。あたしはどっちもわりと好きだけど。しかし世間に出て役に立つのは次元違いで夫のほうだ。

 四年かけて記事にしたのは第1巻、2、7、8、11、13、14、15、18、19、23、そしてこの26巻の計12冊分だ。

 

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