※ネタバレあり
言語学者のアリスは医師の夫と三人の成人した子供をもち、まずまず順調な人生を歩んでいた。しかし50歳を過ぎてすぐ、自らの異変に気づき病院に行くと、若年性アルツハイマー症の診断を受けた。
認知症がテーマとなると身内がそうなった場合どうする(べき)か、ということに視点がいきがちだが、この映画はどちらかといえば自分がなったらどういう風に症状が進行していくか、という患者自身の体験、認知症を「外部」としてとらえるよりは、その「内部」の描写に重点が置かれている。
家族を含めれば誰の身にも起こりうるのが認知症だ。恐ろしいことだが珍しくもない。国際結婚してアメリカに住む夫の伯母は認知症で施設に入った。孫を既に亡くなった妹だと思っているが、それも常にではなく不安定なようだ。70代半ばになる私の母も最近とみに物忘れが激しい。そういう私自身、先日もこのブログの昔の記事を読み返していたら、すっかり忘れたことが書いてあって、ほとんど新情報。母の老い衰えに怯えている場合でもないと思った。というわけで、この映画は映画を楽しむというよりも、勉強というかドキュメンタリーというか情報番組のようなつもりで見る気になった。その意味ではまずまず応えてくれた。重いテーマゆえに作り手は努めて静かな映画にしようとしたのがわかる。こんなテーマを凡庸なウエットさでわあわあ騒ぐ映画にされたらほんとに見たくない。認知症への理解が深まったかというと、特に新情報はなかったが、患者本人の認識、知覚の変化はリアルに迫ってきた。
認知症への対応(外部としての認知症)について改めて思うのは、病人の異変にこちらが興奮してはいけないということだ。私の亡くなった祖母もごく軽度ではあったが、91歳で亡くなる前には認知症的言動があり、私は苛立ってまともに訂正していた。ほんの数回だが(その程度しか起こらなかった)今でも深く後悔している。ただ特に自身の親相手に「認知症だから」と言動を冷静に受け止めるのも間違いなくしんどい。他人相手とは違う。行きつけのゴルフ練習場に、時折認知症の夫人を連れてきている男性がいた。夫人は夫を探して練習場を不必要にウロウロしていたが、他人である私は冷たい気持ちにも迷惑だとも思わず、ただ「そういう人」と思っていた。できる手助けや相手もする。でも家族だったら、一つ屋根の下に暮らしていたらまったく違う。この映画をみても、アレックス・ボールドウィン演じる夫はいくら医者とはいえ強いというか、しっかりしているというか、彼の立場だったらキツさは半端ないだろう。そのリアリティは追求しなかった様子だ。先述した通り周囲より患者当人の体感に重点を置いている映画だし、介護する側の苦悩を掘り下げたら見ていられないかもしれない。介護のキツさはとりもなおさず、先が見えないことだ。
それがわかっているアリスは、まだ軽症の時期にある「対処」をする。自分のパソコンに、症状が進んだ自身へ自死を促すメッセージを残したのだ。この試みは症状が進んでしまったことそのものと、偶然によって阻まれてしまう。私はこのブログにも以前書いたが、私が重度の認知症になったら私自身を安楽死させて、臓器をしかるべきひとに提供したいと考えていた。しかしこの映画で認知症の進んだアリスがはっきりした意識なく自死に近寄っていったとき、それは起こってはいけないことだと明確に思ったし、薬が飛び散ったときは見ていてほっとする私がいた。しかし重度の認知症が家族や周囲の人生を大いに損なうのは依然として変わらない事実だ。もし母親であり妻であるアリス認知症でなかったら、娘にも夫にも時間、精神力、経済面と別世界の自由が広がる。その問題は依然として残ったままだ。そしてこの映画をみてもなお、私は魂が去ったような状態、ひたすら周囲のひとの生活に負担をかけ続ける生活を送るくらいなら、さっさと死んで臓器提供したいと思っている。
夫の実家に帰ると、折に触れて夫は義母の言動に「ボケちゃっているから」という。しかし私からすれば、80歳を過ぎた義母の「ボケてない度」はすごいくらいだ。随所に老人らしさはあるものの、認知機能については話していて私が驚くほどしっかりしている。私の実母のほうがよほどヤバい。しかし夫はもっと若くしっかりしている頃の義母を知っているので、それと比べて老いた母を実感し、実態以上に反応している気がする。なんせマザコンだし、悲しいというか、心配というかなんだろう。「他人」の私からすれば、義母はボケているのではなく、時折説明が足りないだけなのがよくわかる。昔の義母はもっと説明が行き届いていたのか(想像つかないが)、そういうことはなく、ただ立ち居振る舞いが今より若かっただけなのか。親の老いを実感するって、子供には時としてしんどいものだ。同居していた祖母が老いていくときには経験しなかった感情だ。
2014年アメリカ作品。この作品でジュリアン・ムーアがオスカーの主演女優賞を受賞した。
★今週の全米OPテニス★
9/9 大坂なおみちゃん、日本人初のグランドスラム制覇。素晴らしかった。同時に元女王セレナ大暴れも話題に。試合をWOWOWで見た。今回はWOWOWに加入していてよかったと心から思った。あれは見てないと経緯がつかめない。なぜセレナが大暴れしたかといえば、なおみちゃんの安定した好プレーに封じられていつも通りのプレーが想像以上にできず、
「なんだこれ、いくらなんでもあたしどうした。ナオミは確かに素晴らしいが、想定外というわけでもないじゃないか。想定外なのはあたし自身だ」
もちろんあたしの想像ですが。苛立ってギリギリを耐えているときにコーチングの警告をきっかけにヒステリー噴出。準決勝までのセレナはいつも通りスロースターターでも、抜群のゲームコントロール能力を結局発揮していた。セレナは線上ギリギリのボールでも、相手がいい球を打てばジャッジが出る前に拍手をするような選手だ。なおみちゃんの調子がいくら良くてもセレナに分があると私も思っていた。セレナに勝つには試合時間を長くするしかないと夫に解説していたくらいだ。理由はセレナが現地の湿気に相当ヤラれていたからだ。しかし実際には普段の1、2ゲームの「様子見」程度で終わるはずの調子が結局1セットまるまる最後まで続いてしまった。これは湿気とは関係ない。警告に逆上したセレナはコーチングを受けてないと言い張り続けたが、コーチは試合後認めている。セレナがその時コーチングを認識していたかどうかは不明だ。確認して目くばせしているかにみえる映像はあった。異様な雰囲気になってなおみちゃん、1ゲーム分は明らかに動きが止まったが、次のゲームではしっかり立て直した。これでこのままなおみちゃんがもし負けていたら、セレナも観客も嬉しくはないだろう。またセレモニーでも観客の態度も非難の対象になっている。私もあれはよくないと思うが、基本的にあの時観客は「コーチングはなかった」というセレナの主張を支持した、審判に対してのブーイングなので試合後になってしまえば集団心理の怖さを思うばかり。なおみちゃんの言動は終始パーフェクトだったが、ほんとうにいい経験だったと思う。想定外の試練を実に見事に潜り抜けた。これからトッププレーヤーとして長く生き抜くには、単純な意味でのプレー以外の様々なプレッシャー、ストレスが待ち受けているだろう。もはやチャレンジャーでもなくなった。その出発点でケチがついたというのは、決してなおみちゃんにとってマイナスではないと思っている。むしろここで完全無欠の「運気の頂点」のようなものでなくてよかったとすらいえるかもしれない。
あたしもゴルフしていてヒステリーを起こすことはしょっちゅうなので、セレナの行動は褒められたもんでないにしても実感としてはわからないでもない。一緒にするのもどうかと思うが、むしろああいう絶対女王もけっこうギリギリでプレーしてるんだな、余裕で臨んでるわけでもないんだな、と、凡人と根本的に変わっているわけじゃないのを発見した。準決勝までのセレナの言動を私自身リスペクトしていたので、彼女があんな風になること自体が驚きだった。セレナはその気になればすごく度量の大きな高潔な人間になれるし、基本そうあろうとする女性と思っている。観客たちもそう思っているので、「あのセレナがしているコーチングをしてないと言い張るはずがない」という思いがあったのも理解できる。すごく寛容で立派な人間でも想定外の状況ではどうなるかわからない。「地金が出た」という判断についてはまだわからない。
結論から言うと、あの試合の審判はすべき仕事をした。ハードだったと思う。彼にとっても災難だった。セレナの言うダブルスタンダードも、彼女の試合中の言動を擁護する要因にはならない。