※みっしりネタバレ。私見交えつつ。

 1971年ヴィスコンティ監督作品。名匠の代表作のひとつ。あたし個人の感覚だと、薫り高い心理サスペンスといったところだ。この作品のせいでマーラー、特にアダージェット(交響曲五番)が世界的に人気になっちゃって、数年前くらいまで日本の二時間ドラマでも濫用気味だった。

 

<あらすじ>

 精神的な疲弊を抱える高名な作曲家で大学教授のアッシェンバッハ。彼の芸術は彼のなかで行き詰っていた。神経はヒリつき、ついには肉体をも蝕む。静養のためにイタリアはベニスをひとり訪れるが、そこも家族でバカンスを楽しむ欧米人たちや、それにたかる現地の貧乏人たちでごった返し、さほど心落ち着かない。
 同じホテルの滞在客に美少年(マジ子供)タッジオがいた。アッシェンバッハは当初はその美貌に多少目を奪われる程度だったが、何度もすれ違い、タッジオの視線の揺らぎを追うたびに深く心奪われていく。彼は自身が芸術に追い求める美をタッジオに見出していた。一言も言葉を交わさなくても、タッジオは初老の美しくもない男が自分に魅了されていることを知っており、またアッシェンバッハ自身もタッジオの態度に自分の心を弄ぶしるしをみていた。おりしもシロッコによる蒸し暑さが続き、アッシェンバッハは島を去る決心をする。
 ところが手違いで荷物が別の場所に行ってしまう。自分だけミュンヘンに戻って荷物はあとから届けてもらうこともできるのに、アッシェンバッハはベニスに、タッジオのところに戻ることにする。タッジオに弄ばれることをもはや喜びをもって受け入れたのだ(主演のダーク・ボガードの芝居が絶妙!)。愛に、人生に開かれたかのように笑みを浮かべ、ベニスに戻るアッシェンバッハ。神経症的な気難しい佇まいは彼を去る。
 しかし島には伝染病(コレラ)が蔓延し始めていた。島は稼ぎ時であるシーズンから客を逃がすまいと疫病について伏せていたが、隠しようもない。アッシェンバッハは疫病蔓延についての確かな情報を得ると、タッジオ一家にそのことを告げようかと迷うが、それはタッジオとの別れを意味する。苦悩するアッシェンバッハ。そんな彼がしたことは、髪を黒く染め、薄化粧をして「容姿を整える」ことだった。その姿は彼自身が嫌悪を示した、彼が船着き場についたときに話しかけてきた化粧をした奇怪な老人や、ピエロのような流しの芸人のギター弾きと同じではなかっただろうか。島を去ることもなく、完全ストーカーのアッシェンバッハ。タッジオに「愛している」とひとりつぶやく。その愛はかつて妻や娘に向けられたものと同じだろうか。全然違う。かつての彼は妻や娘と抱き合い、キスを交わし、家族とともに「現実」に生きていた。今はひたすら観念の泥沼にはまり込んでいる。よってタッジオに最後まで話しかけることもない。というわけで一般的な意味での同性愛や少年愛の話ではない。ある朝アッシェンバッハはタッジオ一家が帰り支度をしているのを知るが、そもそも弱ってベニスに来たアッシェンバッハは早々にコレラに蝕まれていた。

 

 今回は今は亡き映画評論家、淀川長治さんに関する個人的な思い出をメインに。

 淀川さんのことがはっきりイメージできる年代というと、1970年生まれの私より10歳若いくらいまでが限界か(サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ)。私は淀川さんのファンで、雑誌「アンアン」に連載されていた淀川さんの映画評を長年毎号立ち読みしていた(立ち読みを自慢するもんじゃないが)。その連載で淀川さんが薦めていた歌舞伎作品(これまた桜姫東文章つーのがw)まで見に行ったりした。「ベニスに死す」は淀川さん一押しの作品で20歳前後に一度レンタルビデオでみていた。そして20代後半、淀川さんが日比谷のシャンテで「ベニスに死す」の上映前に講演をするというので足を運んだ。さほど広い会場ではないが満席で立ち見のひともいた気がする。淀川さんが最晩年の頃でおじいちゃんだったが、小さな体にみなぎる熱はハンパなかった。淀川さんは「ベニスに死す」を「私にとって映画の神」といい、
「皆さんの前でこの映画について語るこの一瞬一瞬に全身全霊を注がねばならない」
 といったようなことを冒頭自分に強く言い聞かせると、身振り手振りを交えてとうとうと「ベニスに死す」について解説を始めた。語り口はよくテレビで見ていた通り平易でユーモラス、しかしずっと情熱的、かつ的確。どのシーンがどのように意味をもつか鋭く作品をえぐってほとんど全編解説。要はこの映画、映画の真骨頂であるところの、芝居と画で語る映画なのだ。音楽も要所要所で効果的に使う。ベタ付け、音楽による観客の感情の誘導なんて低レベルなことはしない。結果映画が上映されると、淀川さんの解説を確認するというか、なぞるような格好になってしまい、おかげで大変に面白かった。自分ひとりでみたらこうは楽しめなかったろうと深く感動した思い出がある。現在47歳のわたくし。最近BSで放送されたのでまた見て、久しぶりに淀川さんを思い出した。あれから20年(@きみまろ)。映画は予備知識が皆無の状態でみるのがいい、という場合もあるし(私の場合「クライング・ゲーム」が典型)、優れたガイドがあったほうがはるかにいいケースもある。
 そもそも悲劇だし、後味のいい作品ではないけれど、観念的な香りの高さというか、その点において凡百の作品を足元にもよせつけない。演技らしい演技をしているのが主役ひとりっつーのもすごい。しかもほんとに緻密な芝居。実態、実感を伴わない空虚な思索と観念の泥沼に落ち込んだ音楽家。アッシェンバッハは自嘲するほど哀れな自己崩壊を迎える。しかし朦朧とする嘲笑のなかで、ついに彼はみじめな”自分”に、”実感”に至ったのかもしれない。

 

 話はまたちょっと変わるが、サン〇トリーのサプリ「セ〇ミン」のコピーはおぞましいものが多い。最近あったのは「還暦を過ぎても40代にみえるなら40代ってことですよね」。違うって。怖いわ。若々しい還暦と年相応の還暦がいるだけ。でもどっちにしても絶対40代ではないですから。還暦は厳然として還暦だっつの。もし本気でこんなこと考えてる還暦がいたら、この映画のアッシェンバッハが入り込んだ迷妄、醜悪さと同じところにいる。このサプリを飲んでいる人の8割だかなんだかかが「若く見られると回答」って、普通みんな若く見えるっていうから、そう見えなくても。この会社に限らず「若見え系」サプリの広告全般に言えることだが、とんだ茶番、悪趣味で知能指数低めなのが多い。年相応に見えるって、悪いことでもなんでもないから。評価されるべきなのは年齢が上がっても健康で姿勢よく足腰に問題がないことだ。ほんと、薄化粧するアッシェンバッハに共通する美意識の崩壊が若見え系サプリの広告にはあるよな。

 

※ひとが極端に観念的になったらどうなるかの一例を描いた小説だと思っています。アッシェンバッハとは別ケースっての? 町田康「告白」はコチラ

※映画「クライング・ゲーム」はコチラ

★先月のご当選★
 テレビ東京「カラオケバトル」が好きでよく見るのだが、番組特製クオカードが当選した。絵柄は「九州の演歌男子 本永航太」君。できれば宮本さんかオペラ魔女がよかった・・・などと思いつつ。番組をご覧の方はご存知だが、データ放送で挑戦者と暫定王者どちらが勝つかを予想して投票、当たると5点、外れると2点もらえる仕組みになってる。獲得点は週をまたいでも持ち越しになる。通しで5回程度の応募だと思うので、クジ運ない私にしてはかなりの高確率で当選した。

※「年末にはクジ運を試される」はコチラ