故・淀川長治さんが、「私にとって映画の神様」といっていたのがヴィスコンティの「ヴェニスに死す」だと思うのだが、ワイルダーの「サンセット大通り」も彼にとって五本の指に入る映画のはずだ。
主人公は借金で首が回らなくなった二流の脚本家ギリス。借金取りに追われて逃げる途中に迷い込んだ豪邸に住んでいたのは、サイレント映画時代のスター女優、ノーマ・デズモントだった。世間から忘れ去られたノーマは、自作の脚本でハリウッドに復帰を企てていた(少女サロメを演じると言い張る怖さ)。行くあてのないギリスはその「サロメ」の脚本の手直しを申し出るが、その半年後、ギリスはこの邸宅のプールに死体として浮かぶことになる。その経緯を描いたのがこの映画だ。
私は20代の頃、淀川さんの映画評を読むために毎号アンアンを立ち読みしていた。淀川さんは「サンセット大通り」が当時のオスカーを対抗馬「イヴの総て」に総なめにされて、とても悔しかった、とどこかに書いていた。「イヴの総て」は私も繰り返し観た傑作だ。私もワイルダーの「お熱いのがお好き」や「7年目の浮気」が大好きで、淀川さんの文章を読み、ぜひこの「サンセット大通り」も見たいと思った。しかし地元川越や池袋に数件あるレンタルでは見つからず、ついに恵比寿のツタヤで発見して借りた。川越在住の私が、定期もないのに(都内までのはあった)恵比寿で新規会員登録してレンタル。こんな苦労をして借りて観てみれば、結果は「え、この程度?」とがっかりして終了。「イヴの総て」は端役でモンローが出ているが、主役級の役者たちに日本で人気のある俳優が出ていないのに、その辺のレンタルですぐ借りられた。苦労しないと借りられないって、結局そういうことなんだ、とこの「イヴの総て」と「サンセット大通り」で当時つくづく納得した。ちなみにワイルダーの名作とされているものでも「アパートの鍵貸します」とか「情婦」なんかもわたしはそこまで面白いと思わない。「情婦」なんて、米製テレビドラマの「検察側の証人」(ボー・ブリッジズ、デボラ・カー出演)のほうがクリスティの原作をオーソドックスに活かしたサスペンスでずっと面白かった。
で、結局今回どうだったのか。これがかなり面白いんである。やっぱり前回は苦労して探し出して借りて、仕事と遊びで疲れつつも夜見て、期限内に遠くに返しに行かなければいけなかったというのが期待値を異様に上げる結果となったのか。WOWOWでやってるなら録画してみるか、見るテレビもないし、というノリでみると、やっぱり傑作の名に相応しい映画だった。見所のひとつはかつての名女優ノーマを演じるグロリア・スワンソンの怪演だ。圧倒的な存在感。マジ魔女。そしてもうひとつは「ろくでなし」であるギリスの心の揺れだ。ヒモに成り下がりつつも、脚本家としても男としても自分を捨てきれず、そうかといって潔く生きることもできない。ウィリアム・ホールデンの控えめだがしっかりした芝居が、スワンソンのいちいち「芝居がかった」仕草と私たちをつなげてくれる。あの怪演の受け手になるというのも相当な力量と個性を要求される。脚本はもちろん、カメラも素晴らしい。あまりに有名なこの映画のラストシーン。「人生は奇妙に慈悲深く、ノーマに情けをかけた」って台詞は文学的美しさと緊張感に満ちている。
前回の「恋愛小説家」同様、20代後半で見てイマイチと思った映画を40代半ばで再評価しているわたくしであった。やっぱり若い頃は視界というか、好みの幅が狭い。というより、今のほうが「共感力」が上がっているんだろう。経験浅い若いときには頭で理解はできても響かなかった映画の中の登場人物の機微/悲哀が、それほど似た人生を送っていなくても今では響くことがたくさんある。でも一本の映画を一生懸命探して観る熱心さは若い頃ならではのものだ。今では考えられない。
偶然だが「イヴの総て」も「サンセット大通り」も芸能界が舞台で、いわゆる「大女優」が主人公のひとりとして出てくる。同じ年(1950年)に60年以上経過してもまだ世界中で見られる傑作が同じ国で作られたなんてすごい。そして二作ともラストを冒頭で見せて、そこに至る過程をみせるという構成でも共通している。「イヴの総て」のベティ・デイビス演じる大女優マーゴは、盛りを過ぎたキャリアにあって、人生においては軟着陸する。ド派手に墜落するノーマとは対照的だ。この傑作二作を見比べるのも面白い。しかし二作とも傑作ながら、二つ並んだら「イヴの総て」に軍配を上げるのは今でも変わらない。「大女優」の設定ひとつとっても、ノーマのキャラ設定はフィクションとしてはすごくよくできているけれど、マーゴのほうがずっとリアルで造形的だ。実在する人物のようなリアリティがある。
「大女優」役は他に「Wの悲劇」の三田佳子とか、W・アレンの「ブロードウェイと銃弾」のダイアン・ウィーストとか、みんな多かれ少なかれキャラ設定が似ている。ステレオタイプってやつだ。「憧れの芸能界」の華やかさの象徴。「名優」役では体現できない。三田佳子は最近テレビのバラエティで「あの役はあたしとは性格が正反対」と言っていたが、実際どうなんだろう。「性格は正反対」かもしれないが、共通点はまったくない、ということもない気がする。役者としての自分の魅力と重要性を、疑いたくてもどうやって疑っていいのかわからないほど確信しているのが「大女優」ではないだろうか?
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