十回は見ている気がする。いろいろ問題のある映画だが、巧く出来ているとしか言いようがない。
アメリカ近代史の栄光を全部フォレストが引き受けて、暗黒面を女性であるジェニーが引き受ける。構成としては作りやすくていいのかもしれないが、やはりどうかと思う。理由は幼少期にあることになっている。二人とも片親だが、フォレストは母親として生きる覚悟を固めた女性から健全な愛情を惜しみなく受け、ジェニーは親としての生き様を放棄した、いわば「人でなし」の父親から歪んだ扱いを受けたので将来が狂った、ということになっていると思う。
名シーンは冒頭からラストまでたくさんある。フォレストがバス停で「素敵な靴ですね」と話しかけ、話しかけられた黒人女性が戸惑うシーンの空気感から私はかなり好きだ。それからどんどん熱心な聞き手に入れ替わっていく。逃げ走る子供のフォレストの足から矯正器具が外れていくシーンは「うそーん」と思いつつ毎回泣ける。とにかく何度見ても笑える、泣けるシーンがいくつもある。ベトナム戦争でババが死ぬシーンはつらいので飛ばす。エビ採り船のエピソードが特に好きだ。
この映画を代表する台詞、
「人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで何が入っているかわからない」
人生は絶対に予測がつかない。しかしチョコレートの箱となれば、基本的に入っているのは「チョコレート」という「いいもの」だ。フォレストのお母さんは息子を人生に対して鼓舞するために言っている。だから「塞翁が馬」のほうがより真実だ。いいと思ったものが不運を連れてきて、不運だと思ったことが幸運を連れてくる。禍福はあざなえる縄のごとし。こと個人の人生においては先々何が起こってどういう展開が待っているのか、良くも悪くも、絶対に人知は及ばない。
それにしてもこの年のオスカーはえらい豊作で、他にノミネートされていたのが「パルプ・フィクション」「クイズ・ショウ」「ブロードウェイと銃弾」etc。評判を聞いて映画館で見た映画がたくさんある。1995年、私が24歳の頃だ。
先月大学時代のサークル仲間で集まった。女友達とはある程度頻繁に連絡をとっていたが、25年ぶりくらいに会う男性陣も多々いた。ハゲているひとはほとんどいないが、体重が15キロ以上増はけっこういて驚いた。メタボだ。女性陣にそこまでの変化はない。一生懸命働いたら摂生する余裕なんてないということか。
私たちは女子大出身で、男性陣はバカ田大学の隣に本部がある大学の理工学部出身だ。全員に聞いたわけではないが男性陣の中には40代になってけっこう出世しているひとが何人もいて驚いた。それを聞いて小学校低学年の息子をもつ友人は、
「今回初めてうちの息子も(バカ田大学の隣にはない)理工学部に入ってほしいと思った。去年小中の同窓会があったけど、やっぱり違う」
私には子供がいないが、私の大学の友人たちの多くは子供を中高一貫校、私立中学に入れることで闘った。近くにその姿をみたわけではないが、「親子ともども最終的には精神的に追い詰められる」らしい。ある友人は、自分に子供の中学受験に取り組む肉体的・精神的余裕がないからと止めていた。私は県立高校から私立の女子大なので、中学受験の意義はよくわからない。サークル仲間の男性陣は複数が付属高校からの出身だ。息子がどんな友達と学生時代を過ごすかが将来に大いに影響する、という意味で子供の学歴の重要性を私の友人は考えているようだった。
「(息子が)このまま公立の中学行ったら遊ぶだろうなあ」
子供の中学入試で闘った友人たちはみな、学歴さえあれば子供の将来が保障されるとも、高学歴の道から外れたら「いい人生」の人生の可能性は閉ざされる、とも考えていない。あくまでも可能性を高めること、マイナスの要素を”なるべく”排除することに必死になっている。
昔は一部有名企業に学閥が明確にあったが、私たちの世代になるとそこまで確固としたものはない。学歴が強い保証力をもつ世の中ではなくなってきている。ビートたけしの母親は、ペンキ屋の息子である我が子たちが学歴を得ることに必死になっていたというが、今の世の中に比べたらそうする意義、実質的見返りがはるかに保障されていたのがあの時代だと思う。
うちの夫はというと高卒で、その高校もよくある地元一番の進学校ではない。しかし夫は仕事運については「高級チョコレートの箱」を持っていたようで、類まれというべきチャンスに恵まれ、いわゆる高学歴保持者の同僚部下に囲まれてそれなりの収入を得ている。この四月から転職するが、まだチョコレートは残っているのだろうか? そんな夫から結婚してしばらく、
「クリちゃんは高卒でここまできたのに、東大出てあれだせ」
というようなセリフを何度も聞かされた。要は高学歴でも満足に出世できないひとが社内に大勢いるということのようだ。
「学歴があることのよさは、ないことを気にしなくていいことなんだとつくづく思う。この年齢になれば、むしろ学歴がなしにここまできたことを誇っていいと思うのに」
私自身、いわゆる高学歴で夫よりモノも知らないし頭も悪い男性なんていくらでも会っている。高学歴保持者に混じらせても夫に全く遜色を感じない。むしろこんなセリフを聞くことで「高卒」が実は格好悪いことなのだと教えてもらっているかのようだ。
「クリちゃんには大学時代に遊んだ思い出がないからね」
そういう僻みもあるのか。確かに私自身、学生時代の中で一番楽しかったのは大学時代だった。
こんな夫は自分の才覚について大変評価が高いが、見ていると座学は本当に苦手のようだ。本を読んだり、机に座って授業を受けたりして学ぶことに対する苦手意識はキッチリある。その代わりというか、ひとと交わって現場で学び、現実的、組織的にことを押し進めていくことは非常に得意なタイプで、正直高卒であることも、にもかかわらずチャンスを大いに活かせる頭の良さ、才覚があるのも理解できる。夫は良くも悪くもガリ勉タイプではないし(私はどちらかというとこっち)、私のような一部ガリ勉より、社会に出て「使える」とされるのが夫のようなタイプだというのも、この年齢になるとよくわかる。自分の夫を褒めるのもナンだが、私と比べれば対人関係についてもスマートでケチくさいところがなく、リーダーとしての資質にも恵まれている。でもバツ2だけど。
友人の子供たちが40代になるころには、どんな世の中になっているのだろう。そんな夫も同じく三月に地元の中学の同窓会に何十年ぶりかで参加していた。
「あそこにいるとみんなのんびりしていて毒気を抜かれる。勤労意欲がなくなる」
友人が小中学校の同窓会で感じたことに近いかもしれない。
消費以外よりどころなく、さらに拡大していく格差がとりあえずの日本だ。それに伴う個人主義のさらなる拡大。決して未来は楽観視できない。その中にあっていわゆる「高値安定」の地位は学歴によっては保障されないだろう。しかし例えばいわゆる高学歴グループの30%はその「高値安定」の地位にあり、そうでない者は5%にも満たない世の中というのを想定すれば実際とあまり違わないのだろうか? だからこそ親は「高学歴」を子供に与えようとするのだろうか。だとしても結局高学歴でも70%は中流以下になり、学歴はなくとも中流以上になるひとが20人にひとりはいることになる。もしくは高学歴だと「落ちてもこの程度」の下げ止めを期待しているのかもしれない。学歴がない場合、底が果てしなくなる可能性が大きくなる、というような。なんといっても周りを見回して、自分の両親、きょうだい、夫とその両親、みなそれなりに高学歴で、結果としてみな「そこそこの」人生を歩んでいる。この慣れによる安心感は大きい。この慣れ(過去)が未来にどこまで通用するのかはわからないが、かといって代わりに今できることは何があるのか。私の周囲に中高一貫校の出身者は少ないが、子供を入れようとする友人は多い。この辺がご時世だ。
恵まれた人生のひとつに、自分の得意なことで世の中に貢献できる(活躍を周囲や世の中に歓迎される)人生があると私は思う。ひとそれぞれ得意なこと、またそのジャンルによって貢献と成果の形(指標)は異なる。子供たちに幸せな人生を望むなら、まずは健全で強靭な肉体と精神を得られる環境を作ることだろう。「人生はチョコレートの箱」という「すりこみ」はフォレストの母親のその試みのひとつだ。しかし「足りない」息子を置いて夫に出て行かれても自分と息子の人生を諦めなかった彼女こそ「人生はチョコレートの箱」を最も体現し、”勝った”人物だ。
健康な肉体と精神、その二つがあれば、誰にでも必ず(おそらく複数回)巡ってくる人生のチャンスを活かせる可能性は高い。人生は生きるに値するよいものだと思えるような人生を、ひとりでも多くの子供たちに送って欲しいと心から思う。フォレストの人生はファンタジーだとしても、丈夫な体と素直な心で、常に目の前のことに懸命に取り組んだその生き様は、決して侮れたものではない。狡さや小賢しさ、傲慢さが結局のところいかに自分自身の人生の良い芽を摘んでいくか、自分という「しくじり先生」で深く実感している。