万城目氏といえば以前に小説「鴨川ホルモー」を読んで、あら面白い、と思い、勢いに乗って「鹿男あをによし」を読んだら、そーでもない、と思って以来何も読んでいない。その万城目氏が各所に書いたエッセイを集めたものだ。
評価としてはまあまあ、かなあ。ところどころかなり面白いが、全体的には回りくどい。そのネタでそこまで広げる? この話その調子でどこまで続くの? と思ったことが多々あった。「すべらない話」でも、サラっとコンパクトに話してくれればそれなりに面白い話が、話し手の「ほら面白いでしょ」「ほらびっくりでしょ」って気負いが先に立って延々周辺的なことを説明する姿を見て、聴く気が失せてくるのを思い出した。特に冒頭の音楽に関するエッセイは本当に面白くなかった。音を文章で伝えるのって難しいよなあ。でもトルコ旅行の話なんかはすごく面白かった。玉石混交の度合いが大きい気がする。声に出して笑った箇所もけっこうあった。以下このエッセイを読んで個人的に思ったことを綴る。
「トイレ本」。あたしの場合は現在、山岡荘八「徳川家康」だ。朝、便意を催したらまず「徳川家康」を手にとる。この作品は新聞小説だったのだが、最低でも一紙分読むのをノルマとして自分に課している。二日分くらい読めることも少なくない。とにかく見開きと1ページくらいで切れ目がくるので「トイレ本」にふさわしい。連載は18年かかったそうだが、私はいつ読み終わるのか。他に病院での待ち時間、電車に乗るときなどにも持っていく。汚いかな。汚くないよ。あたしきれいだもん。全26巻中、現在第10巻。家康VS秀吉の小牧・長久手の戦いだ。大河ドラマ「真田丸」はもう関ケ原だというのに。以前は「真田太平記」がトイレ本だった。何巻だったか、何もしてない便器に本を落としたことがある。びしょ濡れ。用を済ませてないとはいえ、トイレはトイレ。でもまた同じ本を買うのが悔しいので、乾かして読み切った。別に臭いも汚れもなかったよ。毎日トイレ掃除しているし。そういう問題でもない?
それにしても三谷幸喜氏の判官びいきは徹底している。「真田丸」でも石田三成の人物造形はすごくビビッドで肉付きがいいのに、家康はなんかペラペラ。ありゃちょっと演じる内野が損だよ。「新選組」もそうだし、三谷氏は負け組への感情移入が常々高い。そもそも真田信繁がそうだし。
「コメント能力」について。私はこうして書くことも好きだし、よくしゃべるというのも身内であろうがなかろうがよく指摘される。その私が30代のとき、お台場のホテルのレストランで催されるボジョレーヌーボーの勉強会に誘われて参加した。ごく初心者向けのもので、美味しいフレンチに、その年の解禁してすぐのボジョレーが四種類ほど振舞われた。ソムリエがボジョレーの基本知識について解説したあと、ワインを飲んでは配られたプリントにそれぞれ感想を書いていく。それが書けないんである。空欄が埋まらない。「おいしい」「飲みやすい」「飲みにくい」程度のことしか書くことがない。この私にはめったに起こらない現象だ。対し一緒に参加した女性(かなりのお嬢様育ちでバブル世代)が「あ、これは土臭いわね」「柑橘系・・・シトラスっぽい」などとつぶやきながら書き込んでいる。するとソムリエが私たちのテーブルに来て「よくお気づきで」。言われて同じワインを飲むが土臭いというのがどういうことだか全然わからない。「別に土臭くはない」など書くわけにもいかない。とにかく「(質はともかく)このアタシがひとよりも書けない、書くことがない」という経験は子供の頃から考えても新鮮だった。
猫の「ねね」のくだりはあかんかった。ねねちゃんは自分を拾ってくれた妹さんの結婚式の日に亡くなる。夫の海外出張の二日前に亡くなり、四十九日が私の誕生日だったうちの猫と重り、読んでて涙がダラダラ出てきた。やはり命日は誕生日同様、偶然/適当ではないとつくづく思う。ねねちゃんは公園で妹さんに寄ってきて「連れて帰ってくれ」目線を送ったらしい。村上春樹氏も、学生時代についてきた猫がいてそのまま飼うことになった、とエッセイに書いていた。この猫の名前が村上氏が作家になる前に経営していたジャズバーの店名になったはずだ。私も自分から猫を飼う気はないが、こういう猫が寄ってきたら飼ってしまいそうだ。そもそもうちの猫もそのようなもんだったし。
(文春文庫)