2008年に赤塚不二夫さんが亡くなってからもう18年になるのですね。
トキワ荘ゆかりのマンガ家が1990年代から2000年代にかけて次々に亡くなっていったのは、彼らの作品で育った世代でしたので淋しく思ったものでした。
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赤塚さん超えるギャグもう出ない…死を悼む仲間たち(当時の新聞の見出しより)
最近泉麻人の著書:"シェーの時代―「おそ松くん」と昭和こども社会" という本を買って、ひとりでライヴを見に行ったときの開演前の時間つぶしに少しずつ読んでいるところだった。
リアルタイムでは、マンガにハマるきっかけとなった藤子不二雄の「オバケのQ太郎」の方により思い入れが強いが、勿論「おそ松くん」も愛読していた。
次々に登場する個性的なキャラクターの登場人物にも惹かれたが、ドタバタなギャグの中にも時折ホロリとさせるエピソードを交えたり、名作映画のパロディ(と気づくのは中学生以降になってからだが)もふんだんに盛り込んだストーリーの面白さは、大人になってからでも読み返すに値するもので、80年代には神保町の古本祭りで当時倒産して安売りしていた曙出版から出ていた「おそ松くん全集」(全36巻)を5000円くらいで購入したこともあった。
「天才バカボン」も、連載中に段々前衛的な表現になっていくのにはついていけなくなることもしばしばだったが、後年タモリを世に紹介するきっかけとなった山下洋輔一派との交流から考えても、あれは彼にとってのフリー・ジャズみたいなものだったのかもしれない。今となってはそこで描かれたひらめきの数々が(正直未だに理解できないところもあるけれど...笑)懐かしかったりする。
あまりマンガを描かなくなってからは、タモリや山本晋也らとよくテレビの深夜番組でお下劣なことをやっていたけれど、それを「彼は生活そのものをギャグにしている」と言ったのは藤子不二雄Aだったろうか? そう言われると、妙に納得したものだった。
無名時代のタモリを自宅に住まわせ小遣いまで与えて、自分は事務所のロッカーを倒してベッドにして寝ていたというエピソードも、独自の「居候文化論」の裏づけとして興味深かった。
実は高校生の頃、渋谷のパルコで開かれていたマンガ展で赤塚不二夫のサイン会に参加したことがあった。
当時サボテン栽培が趣味というジジくさい同級生Tをマンガの道に引きずりこんでしまったら、Tが僕以上にマンガにのめりこんでしまい、よく彼から情報をもらって一緒にそういったところへ足を運ぶようになっていたのだった。
サイン会はチャリティになっていて、色紙代として500円くらいを払って、それを御大のところに差し出すのだが、黙っていると赤塚はもっぱらバカボンのパパを描いていた。
僕は「おそ松くん」のキャラクターの方が好きだったので、「ハタ坊とチビ太を描いて欲しいんですけど....」と言ったら(それまで並んでいた人でそんなリクエストをした人はいなかったので、今にして思えば強心臓というか羞恥心がないというか....)、ちょっと慌てて「最近描いてないからなぁ」といいつつ、何と鉛筆で色紙に軽く下書きをしてからマジックで注文どおり描いてくれた。
実はその頃彼は少年キングで「おそ松くん」を連載再開していたので、「最近描いていない」という言葉は、その時すでに彼は作画をアシスタントまかせにしていたということを露呈したようなものだったが![]()
途中休憩時間があって、その間も彼は席を離れず、スタッフが「先生、しばらく休んでください」と促したが、手を休めずに色紙にバカボンのパパを描き続けた。
そして更に何か思い立ったのか今度はポスターカラーを用意して着色まで始めた。
その様子を近くでずっと見ていたヒマで図々しい高校生の二人は、こともあろうに「さっき描いてもらった色紙に色をつけてもらっていいですか?」なんて本人に直談判。
「あれ?、キミ達まだいたの?」と呆れながらも、快く手を加えてくださった。
あの頃の自分、そばにいたらブン殴ってやりたいと思ったほど恥ずかしく、後年自己嫌悪にさいなまれたものだった。
僕は手塚治虫を筆頭とするトキワ荘世代のマンガ家たちの作品を読んで育ったようなものだ。藤子不二雄、石森(石ノ森)章太郎、赤塚不二夫、寺田ヒロオ、つのだじろうやちばてつやといった住人でなかった人たちも含め、ほぼ自分の親と同世代のこれらの人達のマンガにはそれぞれ沢山の思い出がある。
多分僕の人格形成にも影響を及ぼしているはずだ。
若い頃の無理がたたったのか、そうしたマンガ家の多くが60代でこの世を去ってしまっている。
赤塚不二夫が10年くらい前に食道癌を告白し、ウィスキーのグラスを片手に記者会見したときには、勿論彼なりのパフォーマンスであったのかもしれないが、どこか淋しげなものを感じた。
彼にあまり生への執着が見られなかったから。
全くの個人的私観だけれど、それは次々にかつての仲間たちを失っていたことへの虚無感すらもうかがえた。
特に無名時代には縁の下の力持ちとなって支え続けた石ノ森章太郎の早すぎた死は精神的に大きかったのではないかと思う。
近年は脳内出血で意識不明と聞いていたが、やはり奇跡を願っていた。
赤塚さん、
今頃は天国で多くの仲間と再会し、トキワ荘名物チューダー(焼酎のサイダー割り)を酌み交わしている頃でしょうね。
多くの面白い(時には毒もある)マンガで楽しませていただきありがとうございました。
勿論ご記憶に残ってはおられなかったでしょうが、あの時の非常識な高校生の図々しい要求にも快く応えてくださったことに感謝しています。
安らかにお眠りください。
公式ホームページ
http://
2008年8月3日 記
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その時の色紙は50年を経た今も我が家にあるのですが、引越しの際に段ボール箱にしまったきりで埋もれてしまっています。いつか救い出さねばと思っています(^_^;)
ちなみに図々しさは同じ頃に他でも発揮していて、里中満智子さんが浅草のデパートで公開アトリエみたいなことをやっていた際、中へは立ち入り禁止だったのにもかかわらずデパートの閉館時間のドサクサに紛れて扉をあけてサインをねだったことがあります。「名前だけでも良いですか?」と言われたのに、「せっかくですから、絵も描いてください」なんて注文したら、当時は確かもう連載を終了していた人気マンガ「姫がいく!」を描いてくださいました。これもさすがに憶えていらっしゃらないとは思いますが...