印旛沼水害の歴史的背景 徳川家康から田沼意次 そして台風25号
印旛沼では、台風25号の影響で寸断されていた堤防が
緊急復旧によりすべてが繋がりました。
これから、仮堤防築造が進められるとのことです。
印旛沼というと、まず思い浮かんだのが田沼意次でした。
私にほぼそれぐらいの知識しかないということでもあるのですが、
今回の水害は、その頃やそれ以前のことを踏まえなければ、
理解することは難しいかと思います。
1590年の豊臣秀吉の小田原征伐により、
徳川家康は国替えを命じられ、関東へと移り、
家康は低湿地で未開拓の部分も多い江戸を拠点とします。
1603年に徳川幕府が開かれ、
家康は江戸の町の水害から守るためや、
舟運ルート確保、新田開発のため、
利根川の下流を銚子方面へ付け替える大工事を行うこととしました。
当時の利根川は江戸湾に流れていたものの、
これを太平洋側に流れるようにしたのです。
これを利根川東遷事業といいます。
現在の関東1都6県のうち、
利根川水系の流路がないのは神奈川県のみで、
ほかの都県は利根川の恩恵とリスクの上に生活していることになります。
元々の利根川は、支流が今よりもはるかに多く、
その数を減らして、本流に水を集中させるようにしました。
この巨大な川の流路を変えたことで、
利根川本川のスケールに対して周辺の地形や
支川の排水能力がアンバランスになってしまい、
利根川で洪水が発生すると、
行き場を失った大量の水や土砂が印旛沼の周辺一帯へ流れ込むようになりました。
印旛沼の水量が増えると、利根川へ水を逃がしていましたが、
利根川に大量の水があると、行き場を失った水が印旛沼に停留することになり、
台風25号の後のように、
なかなか水が引かないという事態に陥りやすくなったのです。
歴史上、繰り返し水害に見舞われることになった印旛沼周辺ですが、
利根川から流れてきた土砂がたまりやすくなったという問題も出てきました。
そのために、豪雨ではなくても氾濫しやすい地域となったのです。
江戸時代中期の1785年、時の老中・田沼意次は
幕府直轄による印旛沼と手賀沼の干拓事業を開始します。
彼はこの一帯の治水も念頭にはあったでしょうが、
幕府の財政難を立て直すための米の増産を考えていたのでした。
印旛沼の水を江戸湾側へ抜くための大規模な掘削工事を進めるのですが、
1783年の浅間山大噴火や異常気象による天明の大飢饉により工事が滞り、
度重なる豪雨は工事中の堤防を破壊しました。
さらに、田沼意次が失脚。
計画は放棄されて、中途半端な掘割の掘削は周辺の地形のバランスをさらに崩し、
排水がスムーズに行われないまま、
印旛沼の周辺は、より一層大雨のたびに浸水しやすくなってしまいました。
一般的に、印旛沼のような地形は、
本流で増水が起きると、遊水池のような役割を果たしていたものの、
そこに、新田や集落を作ったものですから、
農地や集落は内水氾濫リスクにさらされることになったのです。
その後も、明治、大正、昭和と、
何度も印旛沼開発事業が行われてきたものの、
徳川家康に端を発し、
田沼意次が残した負の遺産は工事や生活の障害になっています。
現代になり、大型ポンプを備えた排水機場や調節池、
水門が整備され、ようやくそのリスクが軽減されたはずなのですが、
今、ここへ来ての気候変動です。
もはや温帯気候とはいえないモンスーン支配型の亜熱帯気候となり、
ペルー沖など熱帯太平洋の東部で海面水温が平年より高くなるエルニーニョ現象、
それをさらに超えるスーパーエルニーニョと呼ばれる状況になりました。
徳川家康も田沼意次も、明治、大正、昭和の人たちにとっても、
想定外の気候変動です。
これまで、利根川水系全体の上中流の治水やダム・河川改修が進められ、
雨水がより迅速に下流へ流れるようになったものの、
あまりにも水量が多いと下流域は
上流から押し寄せる水と、下流に停留する水に挟まれる形となりました。
印旛沼に限らず、台風25号やそれ以前の度重なる豪雨は、
江戸時代から続く利根川水系のバランスの変化、
関東平野の低平地を開発・利用してきたことによるリスクが
目に見える形になってしまっているといえそうです。
