江~姫たちの戦国~ その背景 -関ヶ原の戦い その11- 開戦 | テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。

江~姫たちの戦国~ その背景 -関ヶ原の戦い その11- 開戦

関ヶ原の戦い


これが関ヶ原における両軍の布陣図(スクロールできます)。


西半分はこのようになります。

関ヶ原の戦い

赤が東軍、家康は桃配山の麓に本営を構えています。

これだけですと、西側の西軍、
東側の東軍が対峙しているように見えますが、

関ヶ原の戦い

家康の東側を見てみますと、
このように総大将・毛利輝元の名代の秀元の大軍や
長宗我部盛親らが陣取っています。

つまり、家康は敵と敵の間にいることになります。
素人目にも不利な布陣です。
西には石田三成、東には毛利秀元がいます。
なぜ、こんなところに家康は陣を布いたのでしょう?

一つにはこの布陣図において、
大きく黄色で示されている小早川秀秋と、
秀元の北の吉川広家が期待通りの役目を果たしてくれることに、
相当の自信があったのかもしれません。
また、家康自身は短期決戦で
この戦を終わらせなければならない理由があったともいえます。

もしも、松尾山の城に総大将の毛利輝元と、
豊臣秀頼が来着したならば、
西軍将兵は計り知れないほど士気が上がるでしょう。
そして、東軍のほとんども豊臣恩顧であることから、
間違いなく、悪影響を与えるはずです。
何しろ、家康は

秀頼様の御威光を笠に着る奸臣・三成を討つ

という大義を掲げて、戦を始めています。
この戦場に秀頼が現れるような事があっては困るのです。
それまでに、勝利を収めておかねばなりません。

家康は焦っていたのかもしれませんが、
対する石田三成も焦っていたのかもしれません。

豊臣秀頼も毛利輝元が大坂城から出てこないからです。
秀頼はともかくとしても、
輝元は総大将、それが戦場に現れないとは。

一説には秀頼の母・淀が西軍内の内通者の存在を危惧して、
輝元を大坂城に留めておいたとも。



9月15日早朝から睨み合い膠着している両軍でしたが、
東軍の中から西へ進む隊がありました。
井伊直政の隊で、軍評定では
福島正則が先陣を切ると決められていたのを無視して、
一番槍の手柄を得るべく、直政隊が前進、
宇喜多秀家の軍の前まで来ると、突然発砲、
この銃声が号砲となり、関ヶ原は両軍入り乱れる戦場となりました。

東軍の最前線にいるのは、福島正則など、
石田三成憎しの私的感情を持っている者が多数です。
彼らが三成目指して殺到します。
しかし、三成には秘めていたものがありました。

それが大砲。

大砲の音を皮切りに、鉄砲隊が押し寄せる東軍に打ちかけます。
大砲の数は多くありませんが、
関ヶ原中に響く轟音は、
東軍の士気を挫き、西軍を奮い立たせたことでしょう。

押し寄せていた東軍は一気に前線を後退させることになりました。

東軍不利の情勢に、家康自身も近習の者に斬りかかるなど狼狽、
さらに本営を移します。

しかも、家康は東に後退したのではなく、
西へと本営を移します。
総大将自ら、激戦地に近づこうというのです。
東軍の士気は回復しようとしていました。


さて、その頃、毛利の軍はどうしていたのでしょうか?
これまでも、三成から進軍を促されていましたが、
ずっと、南宮山の陣に留まったままだったんです。
三成の本営にも近い、島津軍も寄せてくる東軍は攻撃するものの、
前進しようとはしていません。

総大将名代・毛利秀元はなぜ動かなかったのでしょうか?

秀元が陣取る南宮山から戦場へ向かおうとしたならば、
北方面へ山を下りなければなりません。

山の麓近くにいるのは、分家たる吉川広家で、
秀元も三成からの合図に従い、
山を下りようとしていたようです。
しかし、下りられなかったのです。

それは、なぜか吉川広家が動かなかったからで…



ねてしてタペ