歴史秘話ヒストリア 「ちょんまげクイズ合戦!~江戸の彼氏は数学がお好き~」 | テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。

歴史秘話ヒストリア 「ちょんまげクイズ合戦!~江戸の彼氏は数学がお好き~」

子供の頃…小学校1・2年生ぐらいは、
算数の文章問題を「おはなしもんだい」とか言ってましたっけ?

私、高学年になっても、普通の

5+6×8=

とかの問題の成績が良くなくて、

ここにリンゴが5こあります。
そして友だちがリンゴが入ったバスケットを8つ持ってきました。
バスケットにはそれぞれリンゴが6つずつ入っています。
ここにはぜんぶでいくつのリンゴがあるでしょうか?


というような文章問題だと、
正解率が上がるような子供でした。

そんな事を思い出しつつ番組を見ておりました。



テーマは「和算」。
我が国独自に発展させた数学です。
この和算では、

タイムスクープハンター「"算額"頭脳バトル」

でも扱われていましたよね。
今回も、遊歴算家と算額も紹介されていました。

その放送後には、関連の検索語でたくさんの方が
このページに辿り着かれました。
おそらく、

タイムスクープハンター「

タイムスクープハンター「

これらの問題のためであろうかと思います。
上の問題は私でも解けましたが、
下のものには手も足も出ませんでした。


この時のタイムスクープハンターで驚いたのは、
山間部の農村の人たちまでも、
こんな和算に親しんでいたということでした。
問題が解けたことを神に感謝する、
自分で考えた問題を神に奉納する算額というものの存在も、
この時、初めて知りました。

奈良県奈良市下山町円満寺

奈良県奈良市下山町円満寺の算額です。
天保十五年とありますので、西暦ですと1844年、
166年前のものです。



徳川時代に、皆が和算を楽しむようになったのは、

塵劫記

この「塵劫記」が出版されてから。
塵劫記は1627年(寛永四)年、吉田光由著。
中国の数学を日本に合わせて、
簡単に説明してみせた和算の入門書です。
日常の生活に必要な計算を、
絵を交えつつ、クイズのような形式で書かれています。
ここには問題と解法、答えが書かれていて、
以後、版を重ねて、多少形を変えた異本などが作られ、
明治に至るまで3~400種類に至ったとか。
よって、塵劫記は和算の入門書の異名ともなりました。

塵劫記

その塵劫記、どの時代のものかは不明ですが、
名城大学附属図書館と
奈良地域関連資料画像データベースのサイトで見ることが出来ますので、
ご興味がございましたら、アクセスしてみて下さい。

奈良地域関連資料画像データベース
名城大学附属図書館(新篇塵劫記)


塵劫記にこんな問題があります。

塵劫記

「油はかりわけてとる事」

一斗樽に油が一斗入っている。
七升枡と三升枡を用意し、
一斗樽と七升枡それぞれ五升ずつに分けたい。


これは番組冒頭に視聴者に向けて出題された問題でもあります。
さて、どうしますか?

油の入った容積10の容器、7と3の容器を使用し、
5と5の油に分けたい
というのが問題です。

わかりましたか?

答えは、ぜひ考えてみて下さい。
面倒な方は、

塵劫記 油分け算

上のリンクのGoogleから適当なページを見てみて下さい。

この本が有名になり、
算術ブームが起こり始めますと、
たくさんのにわか算術家が町に指南所を開設しました。
それを快く思わない吉田光由は、
塵劫記を改訂するにあたり、
それら、にわか算術家を挑発してみせます。

塵劫記では、全て答えが載せられていました。
しかし、改訂版の新篇塵劫記では、
12問の問題を、答えを載せないまま掲載したのでした。

この吉田が発した問題たちは、
にわか算術家を悩ませただけではなく、
庶民までもがその問題の解答に挑み、
これがさらに江戸の町に算術ブームを広げていくこととなりました。

私たちは知に対する好奇心があります。
現代でも、雑学本とかクイズ番組がなくならないのは、
その証でしょう。


さて、新篇塵劫記には12問の挑戦が設けられていましたが、
間もなく、それらの解答を記した「参両録」なる本が出版されます。

参両録
       (京都大学附属図書館)


若き算術家、榎並友澄のもので、
しかも、この参両録にも答えの書かれていない問題が載せられていたのでした。
ここに、

書籍による出題
    ↓
その答えと新しい問題
    ↓
その新しい問題の答えとさらに新しい問題


という流れが出来上がり、
町の庶民は算術の楽しみに浸っていたのでした。


でも、当時の日本には筆算という概念はなく、
このような

算木
       (東京理科大学)

算木などを用いて計算していました。

こういう手法だと限界があります。
特に、未知数が3つになると、手が付けられません。

そこで天才、関孝和が登場します。

関孝和

彼は独自の四則計算、2乗の表し方、
そして未知数がいくつでも計算できる方法を発明したんです。

関孝和

これを見ても、何の事かさっぱりですが、
これで方程式までも表しうるんだそうです。

関孝和

こんな複雑な数式を

関孝和

このように表す事で、
西洋数学に負けない数学を創り出しました。

やがて、彼は中国の暦に頼らない、
日本での観測結果に基づく暦の作成に取り組む事になります。
その時の彼は、緯度経度の秒単位まで計算しようとしていたとか。



話は飛んで明治維新。
明治になりますと、西洋の数学である洋算が入ってきます。
もちろん、和算家たちは独自の算術に誇りがありますので、
これに抵抗します。

当初、和算を用いた教科書が作られたそうです。
そこには、足し算、引き算はなく、
九九から始められていて、
日当から月の手取りを計算してみたり、
金利計算をしてみたりと、
掛け算、割り算の応用問題が続いています。

和算の応用問題を繰り返す事で、
レベルアップを図るという伝統が生かされた教科書でした。

しかし、1872年(明治5年)、明治政府は和算の授業を取りやめ、
洋算の教科書を作成し、
これを用いての授業へと方針変更したんです。

この教科書、最初にあるのは、

旗1本に 旗1本を 加えれば 旗2本となる

つまり、

1+1

です。

和算では、いきなり九九から入っていたのとは大違いです。
西洋の数学では、足し算、引き算、掛け算、そして割り算と、
体系立てて学んでいくという方法を、
明治政府は選んだ訳です。

国民が等しく教養を身につけねばならない。
それは、富国強兵政策のために、
兵として、一定の水準が必要だったためかもしれません。
軍隊の中に、わずかでも足し算、引き算が理解出来ない兵がいますと、
それが敗戦につながることもあるからです。
もちろん、このほうが数学を学ぶには合理的でしょう。
ただ、和算が持ち合わせていた楽しみは失われてしまいました。

学力なんて、別に違っていてもいいと思うんですけどね。

私が小学生の頃、
文章問題が得意で、数式のみの問題でよく間違えていたのは、
きっと、そこに楽しみがなかったからだと思います。
今でも、面白いと思わないことは頭に入ってきませんので。




それでは、最後の問題です。

母親と3頭の子トラが川を渡ろうとしています。
しかし、母トラは一度に1頭ずつしか運べません。
1頭の子トラは母トラがいないと
他の子にかみつきけがをさせてしまいます。
どうすれば親子は無事に川を渡れるでしょうか?

       (男重宝記より)

男重宝記

右の目つきが悪い子が噛みつき癖があるんですね?

油分けよりもこちらのほうがさらに簡単です。
ぜひ、説いてみて下さい。
あまり算術っぽくありませんが、
面倒な方は、こちらから答えをどうぞ。



ねてしてタペ