今日は目覚めから嫌な気分だった。


もうすぐ89歳になる母親と同居している。

杖をついてはいるが自分の足で歩けるし、自分の身の回りのことはすべて自分で出来る。近所のスーパーに買い物に行ったり、ひとりでバスに乗って出かけることもある。地域のボランティア活動にも参加して、そこで会うご老人仲間と話をする時間が何よりの楽しみだ。


だけど「親の老い」という恐怖は、いつもわたしにつきまとっている。


物忘れが激しくなって、会話につまることが多くなった。耳が遠いのもあって、わたしが聞いたことにとんちんかんな返事をする。明らかに見ていない番組(子供向けアニメやニュース)がついたテレビを見つめているか、居眠りをしている時間が増えた。


わたしが「足りないもの」にフォーカスする思考パターンになっている時、こういう母親の姿を目にすると絶望的な気分になる。


今朝目が覚めたとき、母親がトイレのドアを閉める音が聞こえた。その音で目が覚めたと思った。布団に入ったまま耳を澄ませていたが、母親がトイレから出てくる気配がない。

トイレから出る時の音だったのか、と思い直したが、それにしてはおかしい。テレビをつけたりお湯を沸かしたりする音が聞こえてくるはずなのに。静まり返っている。

布団の中でしばらく様子を伺っていたが、妄想がどんどん広がっていく。

トイレの中で倒れてたら?

叔母はトイレで気分が悪くなって、そのまま病院に運ばれて亡くなったって言ってたし。

いや、そもそもトイレのドアの音なんて本当に聞こえたっけ?

もしかして、幻聴かも。しかも何かを告げる幻聴かも。だとしたら手遅れになる前に、行かないと!


膨らむ不安に耐えきれなくなって、起きて母親の部屋へ行った。ドアは閉まっていて、母親はまだ眠っているようだった。わたしがホッとして、ついでに朝食の準備を軽くしてから自分の部屋へ戻ろうとしている時、ちょうどドアを開けて出てくる音がした。


自分の部屋に戻って耳を澄ませていると、母親はいつもどおりの朝の音を立てた。

いつもだったら、朝っぱらから静かにやってくれよ、と文句のひとつもいいたくなるような、母親が立てる容赦ない物音でさえ、元気に生きている証拠じゃないか、と心強く思えた。


布団の中であれやこれやと妄想していた時、まるでその妄想が本当に起こっているかのようにリアルだった。

もやもやした気分から始まり、よーく耳を澄ませて様子を伺うために息は浅くなり、下腹が痛くなり胸は締めつけられるようだった。


実際には何ひとつ起こっていないのに。

母親がいつもより10分遅く起きてきた、ただそれだけだ。それをこれほどのドラマに出来てしまう、自分の想像力には脱帽だ。


人は、自分が見たい世界を見ている。

現実は、自分の内側が投影されたものだ。

自分が放つ周波数と、同じ周波数のものが引き寄せられる。


こんなドラマを見たいと思った覚えはないし、自分がどんな周波数を放っているかなんて、どうやって分かるんですか...?


目の前の現実を見れば分かる、ということだ。

自分が何を見ているのか、どんな現実が引き寄せられているのか、それを注意して観察すれば、自分の潜在意識にどんな思考パターンがあるのか、教えてくれるはずだ。


「親の老い」を拒絶しているわたしには、その現実が度々襲いかかってくる。

嫌だ、起こってほしくない、認めない、受け入れない、と強く思えば思うほど、それは力を持って襲いかかってくる。


その力をゆるめるためには、拒絶しないことだと思う。本来すべてのことは、ニュートラルで良し悪しはない。「親の老い」を悪者として拒絶しようとしているのは、わたしの信念だ。人が生まれて、老いて、病んで、死んでいくのは、ただの自然の法則だ。


まずは「親の老い」を拒絶している自分を、拒絶しないことから始めよう。

そんな信念をいつの間にか身に付けてしまったこと、そのせいで度々ドラマに振り回されること、本来それは自然の流れであること、それを思い出すだけでいい。


ベイビーステップで行こう。