僕の家には、オブジェがたくさんある。
それは、あるアーティストが、ときどき作品を置いていってくれるからだ。
それらは、美術館に置いてあるものと違って、いつでもさわったり、持っ
たりすることができる。
僕の家にやってくる人たちのお気に入りは、玄関に置いてある鉄でできた
オブジェだ。
そして、みんながそれを見たときに、「これいいね!」と言って、触れた
り、持ったりしている。
その作品は見ているだけで元気が出てきて、持ってみるとそれは人が作っ
た作品だということが伝わってきて、とても温かく、そして、やさしさを
感じるのだ。
また、リビングに置いてある別のオブジェは、四角い板の上にふたつの同
じような形をした石が並べてある。
そして、目をつぶってその石をさわって、それぞれの石をどんなふうに感
じたかを話してもらったりしている。
片方の石は、海から拾ってきた白い石で、自然が作り出したものである。
もうひとつの石は、大理石のような光沢のある黒い石で、アフリカから取
り寄せたものだそうで、それを、機械で白い石と同じような形に削ったも
のだ。
片方は、自然界が作り出した石で、もう片方の石は、アーティストが模写
して人工的に作ったものだ。
この両方の石を、目をつぶってさわることによって、心の目で見て、何か
を感じてもらおうという作品だ。
同じ石なのに、感じ方が違ったり、また、人によって感じ方や感想がまっ
たく違うのも、とてもおもしろい。
この作品は、1986年ごろに作られたもので、実は視覚に障害を持った
人たちにもアートを楽しんでもらおうというコンセプトでやっている「触
れる展覧会」のために作られたものだ。
このように積極的にさわれる、またはふれることができる作品は、とても
少ない。
美術館では、作品をさわるどころか、ロープや柵があったりして、近づく
こともできなくなっていて、それでは、本当に鑑賞することはできないの
ではないかと思う。
本当に作品がすばらしいのであれば、見た瞬間に思わずフラフラと近づい
てしまって、気がついたときには、それにふれていたり、抱きしめたりす
るものだと思う。
小さな子どもが、興味のあるものを見つけたとき、考える前に、それにさ
わってしまう。また、その絵を我を忘れて見続けてしまったりと、そんな
理性をなくさせてしまうような作品がおいてある場所こそが、美術館でな
くてはならないと思う。
美術館に行くと、今までの日常から解き放たれるようなことが起こらなけ
れば、その価値はないと思うのだ。
オブジェにさわってみて、その質感や暖かさなどを感じて、また2、3歩
さがって、もう一度見る事によって客観的に見ることができ、作品のディ
テールから雰囲気までトータルに感じることによって、初めて、その作品
に「ふれた」と言えるのではないだろうか。
そのオブジェ自体が作品であるが、そうやって、作品とコミュニケーショ
ンすることも、アートなのではないだろうか。
石のオブジェの作者に、話を聞いてみた。
「作品は、制作者が作り終わって、完成するのではない。作ったものを
ギャラリーに展示する。たくさんの人がそれを見る。そうすることで作品
はさらに完成されていく。
「作品は、見つめられるだけで変わっていくと感じるからだ。」
さらに「さわられたり、ふれたりされることで、その作品は削れていった
り、汚れたりすることで変化していく。その変化自身も、アートであり、
作品は過去形ではなく、常に進行形である。」
普通の美術館のように、さわれなかったり、近づけないような作品は、そ
の作品とそれを見ている人のコミュニケーションを断絶している。
そして、近づきにくくもしているし、感じにくくもしている。
ただ、美術館の仕事は、たくさんの人に見せることなので、それは仕方が
ないことなのかもしれない。
「いろんな人にふれられることによって、磨かれていき、作品に心が入っ
ていくことで、作品はさらに、完成されていく。」
僕がもらった(借りている)作品の中には、屋外に置くものもある。
それは、ペイントもされていなくて、裸のままの鉄で、表面は赤黒く錆び
ている。それが、とても温かく感じるのだ。
しかも、その作品は屋外に置くので、太陽の光にあたったり、雨にさらさ
れたり、風にふかれたりして、錆びたり、風化したりして、どんどん朽ち
ていくのだ。
僕は見ていて「もったいないな」と、いつも思う。
世の中には、ステンレスで作ったり、ペイントをしたりして、外観を永遠
にとどめていこうとする作品が多い中で、彼の作品は、どんどん削れたり、
錆びたりしていく。
そうすると彼は、「鉄が錆びるのは自然のことで、屋外においていると、
いろんな人がさわって汚れたり、また酸化して錆びていくのは、鉄であれ
ば当然のことで、自然の摂理だ。そして、酸化するということは、鉄と酸
素が結合していることで、その作品が空気を吸うことと同じなのである。
錆びるということは、自然とその作品自身がコミュニケートしていること
であって、そして、朽ちることで、鉄が自然に戻っていっている。もとも
と鉄は、土から取ってきたものが、人の手を借りて作品となり、それがま
た、土に戻っていく、そのこと自体がアートなんだ。」と言った。
そういえば、彼は、突然現れては、僕の自宅や会社に作品を置いていく。
ある日、僕が住みたかった念願の家に引っ越しが決まったとき、彼から電
話がかかってきて、「引っ越し祝いをあげようと思うんだけど、3万円準
備しといて。」と言われた。
僕は「変だなぁ」と思いながら、3万円を準備して待っていると、4~5
人の体格のいい男の人たちと一緒に彼がやってきて、庭に木の板をひいて、
養生しはじめた。
しばらくするとクレーン車がやってきて、なにやら重そうなものを運びだ
してきた。それは、4~5人の男の人たちによって、リビングに運び込ま
れた。
大きな石で、300kgぐらいあるものだった。
彼は「これはテーブルの足だ。天板は自分で用意してね。」と言って、置
いて行ってしまった。そして、僕に「クレーン代ちょうだい。」と言って、
3万円を持っていった。
それから僕は、引っ越しするたびに、その300kgの石を運び続けてい
る。
僕は、彼の作品を自宅やオフィスに置くことで「さわることができるギャ
ラリー」のようなものになったらいいなと思っている。
【追伸】
彼の作品は、博多駅裏のハイアット・リージェンシーホテル前の公園で、
見ることができます。噴水の真ん中の手の形をしたオブジェです。
それは、あるアーティストが、ときどき作品を置いていってくれるからだ。
それらは、美術館に置いてあるものと違って、いつでもさわったり、持っ
たりすることができる。
僕の家にやってくる人たちのお気に入りは、玄関に置いてある鉄でできた
オブジェだ。
そして、みんながそれを見たときに、「これいいね!」と言って、触れた
り、持ったりしている。
その作品は見ているだけで元気が出てきて、持ってみるとそれは人が作っ
た作品だということが伝わってきて、とても温かく、そして、やさしさを
感じるのだ。
また、リビングに置いてある別のオブジェは、四角い板の上にふたつの同
じような形をした石が並べてある。
そして、目をつぶってその石をさわって、それぞれの石をどんなふうに感
じたかを話してもらったりしている。
片方の石は、海から拾ってきた白い石で、自然が作り出したものである。
もうひとつの石は、大理石のような光沢のある黒い石で、アフリカから取
り寄せたものだそうで、それを、機械で白い石と同じような形に削ったも
のだ。
片方は、自然界が作り出した石で、もう片方の石は、アーティストが模写
して人工的に作ったものだ。
この両方の石を、目をつぶってさわることによって、心の目で見て、何か
を感じてもらおうという作品だ。
同じ石なのに、感じ方が違ったり、また、人によって感じ方や感想がまっ
たく違うのも、とてもおもしろい。
この作品は、1986年ごろに作られたもので、実は視覚に障害を持った
人たちにもアートを楽しんでもらおうというコンセプトでやっている「触
れる展覧会」のために作られたものだ。
このように積極的にさわれる、またはふれることができる作品は、とても
少ない。
美術館では、作品をさわるどころか、ロープや柵があったりして、近づく
こともできなくなっていて、それでは、本当に鑑賞することはできないの
ではないかと思う。
本当に作品がすばらしいのであれば、見た瞬間に思わずフラフラと近づい
てしまって、気がついたときには、それにふれていたり、抱きしめたりす
るものだと思う。
小さな子どもが、興味のあるものを見つけたとき、考える前に、それにさ
わってしまう。また、その絵を我を忘れて見続けてしまったりと、そんな
理性をなくさせてしまうような作品がおいてある場所こそが、美術館でな
くてはならないと思う。
美術館に行くと、今までの日常から解き放たれるようなことが起こらなけ
れば、その価値はないと思うのだ。
オブジェにさわってみて、その質感や暖かさなどを感じて、また2、3歩
さがって、もう一度見る事によって客観的に見ることができ、作品のディ
テールから雰囲気までトータルに感じることによって、初めて、その作品
に「ふれた」と言えるのではないだろうか。
そのオブジェ自体が作品であるが、そうやって、作品とコミュニケーショ
ンすることも、アートなのではないだろうか。
石のオブジェの作者に、話を聞いてみた。
「作品は、制作者が作り終わって、完成するのではない。作ったものを
ギャラリーに展示する。たくさんの人がそれを見る。そうすることで作品
はさらに完成されていく。
「作品は、見つめられるだけで変わっていくと感じるからだ。」
さらに「さわられたり、ふれたりされることで、その作品は削れていった
り、汚れたりすることで変化していく。その変化自身も、アートであり、
作品は過去形ではなく、常に進行形である。」
普通の美術館のように、さわれなかったり、近づけないような作品は、そ
の作品とそれを見ている人のコミュニケーションを断絶している。
そして、近づきにくくもしているし、感じにくくもしている。
ただ、美術館の仕事は、たくさんの人に見せることなので、それは仕方が
ないことなのかもしれない。
「いろんな人にふれられることによって、磨かれていき、作品に心が入っ
ていくことで、作品はさらに、完成されていく。」
僕がもらった(借りている)作品の中には、屋外に置くものもある。
それは、ペイントもされていなくて、裸のままの鉄で、表面は赤黒く錆び
ている。それが、とても温かく感じるのだ。
しかも、その作品は屋外に置くので、太陽の光にあたったり、雨にさらさ
れたり、風にふかれたりして、錆びたり、風化したりして、どんどん朽ち
ていくのだ。
僕は見ていて「もったいないな」と、いつも思う。
世の中には、ステンレスで作ったり、ペイントをしたりして、外観を永遠
にとどめていこうとする作品が多い中で、彼の作品は、どんどん削れたり、
錆びたりしていく。
そうすると彼は、「鉄が錆びるのは自然のことで、屋外においていると、
いろんな人がさわって汚れたり、また酸化して錆びていくのは、鉄であれ
ば当然のことで、自然の摂理だ。そして、酸化するということは、鉄と酸
素が結合していることで、その作品が空気を吸うことと同じなのである。
錆びるということは、自然とその作品自身がコミュニケートしていること
であって、そして、朽ちることで、鉄が自然に戻っていっている。もとも
と鉄は、土から取ってきたものが、人の手を借りて作品となり、それがま
た、土に戻っていく、そのこと自体がアートなんだ。」と言った。
そういえば、彼は、突然現れては、僕の自宅や会社に作品を置いていく。
ある日、僕が住みたかった念願の家に引っ越しが決まったとき、彼から電
話がかかってきて、「引っ越し祝いをあげようと思うんだけど、3万円準
備しといて。」と言われた。
僕は「変だなぁ」と思いながら、3万円を準備して待っていると、4~5
人の体格のいい男の人たちと一緒に彼がやってきて、庭に木の板をひいて、
養生しはじめた。
しばらくするとクレーン車がやってきて、なにやら重そうなものを運びだ
してきた。それは、4~5人の男の人たちによって、リビングに運び込ま
れた。
大きな石で、300kgぐらいあるものだった。
彼は「これはテーブルの足だ。天板は自分で用意してね。」と言って、置
いて行ってしまった。そして、僕に「クレーン代ちょうだい。」と言って、
3万円を持っていった。
それから僕は、引っ越しするたびに、その300kgの石を運び続けてい
る。
僕は、彼の作品を自宅やオフィスに置くことで「さわることができるギャ
ラリー」のようなものになったらいいなと思っている。
【追伸】
彼の作品は、博多駅裏のハイアット・リージェンシーホテル前の公園で、
見ることができます。噴水の真ん中の手の形をしたオブジェです。