部屋の中には、長座卓が用意されていて、向かい合わせではなく、Ⅼ字型に、奥の席に僕が、その角横に彼女が座る。このほうが話はしやすく、親近感が保てる。
居酒屋なので、料理メニューを見ながら、アラカルトで注文する。
暑い中を歩いていたので、奈良の郷土料理のごま豆腐で、グラスビールを飲む。
彼女が、酒のメニューを見ながら、
「春鹿と言う銘柄のお酒がありますね、春に鹿なんて、今日の奈良公園にふさわしいネーミングですね。」と笑顔で言う。
「ああ、その酒は当時もここでよく飲んでいたよ、奈良では有名な地酒なんだ。
そうそう、奈良は清酒の発祥地で僧坊酒といって、室町時代に奈良の寺院の僧坊で作られていたのだよ。それまではどぶろくみたいな濁り酒しかなかったんだ。」
「そんな話を聞くと、いっそう、このお酒、美味しくいただけそうですわ。」
「だったら、冷でコップ酒で飲んでみようか」と僕は早速、日本酒に合う、奈良漬とあわせてオーダーする。
居酒屋は、フレンチや懐石のコースと違って、気ままに食べたい単品をオーダーできるのがよい。
旨い酒で、ほろ酔い気分になると、いっそう話が弾む。
僕がこのブログの『妻の恋』で前述した離婚に至った経緯を話すと、
「夫がある身であっても、女性は寂しいままにされると、つい、身近にいる別の男性の優しさにほだされて、その人に寄り掛かかり、魔がさして後戻りできなくなることがあるのです。私も、そんな気持ちがよく分かります。」と意味深に述べる。
そして、彼女も自分の心境を語り始めた。
「私、母子家庭で育ったのです。父は早くに亡くなり、母は再婚もしないで私を育ててくれました。母は、郷里の青森で一人暮らしをしています。」
「そうなんだ、寂しい過去があるのだね。」と僕が同情すると、
「だから、私は、今まで父親の愛情を知らないままにいるのです。
貴方の会社にいる親友から、よく貴方のことを聞いていました。
彼女は、すごく優しい社長さんで、親しみがあり、よく、食事にも連れていってもらえるの、なんて言っていました。だから、私も一度、お目にかかりたいと思っていたのです。」