「何カ国行ったことがある?」

「どこで生まれたの?」

「海外に住んでいたことがある?」

「何カ国語話せる?」

 

カナダ、とりわけトロントで暮らしていると、こうした話題はそれほど珍しいものではありません。

 

さまざまな国にルーツを持つ人が暮らし、家庭によって話す言葉も違う。海外生まれの人もいれば、複数の国で暮らした経験を持つ人もいます。

 

親戚が海外に住んでいることも、決して珍しくありません。

 

だから私は、カナダのような多文化社会では、日本ほど「海外経験」が競争の材料にはならないのではないかと思っていました。

 

ところが、子どもたちの会話や、図書館の子ども向けプログラムで見かけた親子の様子を見ていると、どうもそうでもない。

 

海外経験が珍しくない社会でも、「自分はどんな海外経験を持っているか」が比較の材料になることがある。

 

そして、それは子どもだけではなく、大人も同じなのかもしれません。

 

今回は、トロントの図書館で見かけた、ちょっと不思議で印象に残った出来事から、「海外経験って、そもそもそんなにすごいことなの?」と考えた話です。

 

図書館の工作プログラムで、突然始まった「オーストラリアの親戚」の話

その日は、図書館でRigamajigという自由工作プログラムに参加していました。

 

木材やスクリュー、ヒンジ、ロープなどを使いながら、子どもたちが自由にものを作る活動です。

 

その中に、6~7歳くらいと思われる男の子がいました。

 

小さな妹と一緒に参加していて、ロープを使いながら、エレベーターのような仕組みを作っていました。

 

子どもの自由工作って、本当に面白いんですよね。

 

大人なら「エレベーター」と聞けば、もっと完成された機械を思い浮かべるかもしれない。

 

でも子どもは、目の前にあるロープや木材を見て、

「これを引っ張ったら上がるかな?」

「ここにつなげたら動くかな?」

と、自分なりに考えて試していく。

 

私はその子の作っているものを、

「面白いことを考えるなあ」

と思いながら見ていました。

 

すると、そのお母さんが子どもに英語で話しかけ始めました。

 

内容は、

「あなたのお父さんのいとこは、オーストラリアでエレベーターのエンジニアをしている」

という話でした。

 

最初は、別に何とも思いませんでした。

 

エレベーターを作っている子に、エレベーター関係の仕事をしている親戚がいるという話なら、確かに関連はあります。

 

でも、少しずつ、

「なんだか不思議だな」

と思い始めました。

 

なぜ「これ、私に聞かせているのかな?」と思ったのか

そのお母さんは、子どもたちに中国語で話しかけていました。

 

もちろん司書さんとは英語でしたが、親子の会話は基本的に中国語。

 

ところが、その「オーストラリアにいる、お父さんのいとこがエレベーターのエンジニアをしている」という話だけは英語でした。

 

そして、その周辺にいた大人は、私以外にはほとんどいませんでした。

 

他の子どもたちは兄弟で工作に夢中。

 

大人が子どもに向かって、工作とは直接関係のない親戚の話をするような場面でもありません。

 

私は日本人なので、娘とは日本語で話しています。

 

一方、息子とは英語で話します。

 

その様子を見ていれば、私が日本人だということは、そのお母さんからも何となく分かったのかもしれません。

 

だから私は、ふと、

「これ、私にも聞かせているのかな?」

と思ったのです。

 

もちろん、本当のところは分かりません。

 

たまたまその話だけ英語になったのかもしれない。

 

子どもに英語の表現を教えたかったのかもしれない。

 

単純に、そういう家族の話を子どもに伝えたかっただけかもしれない。

 

だから「私に対するアピールだった」と断定するつもりはありません。

 

ただ、そう感じるような状況だったことは確かでした。

 

しかも、その話は少なくとも3回繰り返された

そして、私の印象に残った決定的なポイントがもう一つあります。

 

そのお母さんは、

「お父さんのいとこがオーストラリアでエレベーターのエンジニアをしている」

という話を、少なくとも3回は繰り返していました。

 

面白いのは、3回とも情報量がほとんど同じだったことです。

 

「実はこういう仕事なんだよ」と具体的になるわけでもない。

 

「エレベーターのこの部分を作っているんだよ」と詳しくなるわけでもない。

 

「安全装置の開発に関わっているんだよ」と新しい情報が加わるわけでもない。

 

ただ、

オーストラリアでエレベーターのエンジニアをしている。

 

この情報が繰り返される。

 

そして、話を聞かされている男の子は、どうもあまり興味がなさそう。

 

「本当に?」「すごい!」と反応するわけでもなく、むしろ聞き流しているように見えました。

 

もちろん、子どもにとって大切な話だから、ちゃんと聞いてほしくて繰り返していた可能性もあります。

 

それなら、それはそれで分かります。

 

でも私は心の中で、

「もう、もういいんじゃない?😂」

と思ってしまいました。

 

そもそも「エレベーターのエンジニア」って、かなり幅が広くない?

そして、私にはもう一つ気になったことがありました。

 

それは、

「エレベーターのエンジニアって、何をしている人なんだろう?」

ということです。

 

エレベーターに関わる技術職といっても、かなりいろいろあります。

 

設計。

機械系。

電気系。

制御システム。

据え付け。

保守や点検。

修理。

メーカー側の技術者。

安全性に関わる仕事。

 

「エレベーターのエンジニア」という言葉だけでは、具体的な仕事の内容は分かりません。

 

例えば、

「エレベーターの制御システムを設計している」

とか、

「安全装置の開発をしている」

とか、

「○○というメーカーでエレベーターの設計に関わっている」

という話なら、

「へえ、それは面白いね」

となります。

 

でも、

「オーストラリアでエレベーターのエンジニアをしている」

だけだと、かなりざっくりしています。

 

だから私は、

「この人が何をしているのかを伝えたいというより、『海外にいる専門職の親戚がいる』という情報そのものを伝えたいのかな?」

と感じたのかもしれません。

 

子どもの興味につなげるなら、もっと面白い話にできる

もし私が、その場で子どもに親戚の話をするとしたら、もう少し具体的にすると思います。

 

例えば、

「お父さんのいとこが、オーストラリアでエレベーター関係の仕事をしているんだよ」

と一度話す。

 

それで子どもが、

「どんな仕事?」

と聞いてきたら、

「エレベーターって、人を高いところまで運ぶから、安全に止まる仕組みがすごく大事なんだよ」

「こういう安全装置があるんだって」

「お父さんのいとこは、そういう仕事に関わっているんだよ」

と話を広げる。

 

それなら、今まさにエレベーターを作っている子どもの好奇心につながります。

 

あるいは、

「今度オーストラリアに行ったら、仕事を見せてもらおうね」

という話なら、それも分かる。

 

子どもにとって、未来の経験につながるからです。

 

でも、今回聞こえてきた話には、そういう具体性はありませんでした。

 

だから私は、

「家族紹介……なのかな?」

と、ちょっと面白くなってしまったのでした。

 

その年齢の子に「エンジニア」「オーストラリア」はどこまで伝わる?

そして、そもそもその男の子の年齢を考えると、

「エンジニアって何?」

となっても不思議ではありません。

 

「オーストラリアってどこ?」

ということだってあるでしょう。

 

もちろん、言葉として知っている可能性はあります。

 

でも、大人が受け取るような具体的なイメージを、その子が持っているとは限りません。

 

私の息子も、今でも仕事について、

「エンジニアって何?」

「この人は何をするの?」

と聞いてくることがあります。

 

知っている職業名と、仕事の中身を理解していることは別です。

 

そして、海外経験がどれだけ多くても、行ったことのない国については普通に、

「そんな国があるんだ」

となる。

 

だから、子どもにとっては、

「オーストラリアにいる、お父さんのいとこがエレベーターのエンジニアをしている」

という情報が、大人が思うほど「すごい情報」になっていなくても不思議ではありません。

 

実際、その男の子が一番興味を持っていたのは、遠くオーストラリアにいる親戚ではなく、

自分が目の前で作っているエレベーター

だったように見えました。

 

カナダの多文化社会でも「海外経験」は競争になる

この出来事から、私は別のことを考えるようになりました。

 

私は以前、

「カナダは多文化社会だから、海外経験はあまり競争にならないのでは?」

と思っていました。

 

トロントには、さまざまな文化的背景を持つ人が暮らしています。

 

家庭で英語以外の言語を話す人。

海外生まれの人。

複数の国で生活した経験がある人。

親戚が海外に住んでいる人。

 

そういう人は決して珍しくありません。

 

だから、

「海外に行ったことがある」

だけでは、それほど特別ではない。

 

ところが、子どもたちを見ていると、どうもそうでもないのです。

 

「僕はここで生まれた」に「僕は世界一周した」が返ってくる

私の息子は中国で生まれました。

 

その後、ヨーロッパで生活し、ヨーロッパでも複数の国を経験しました。

 

そして現在はカナダで暮らし、日本にも行っています。

 

まだ8歳ですが、それなりにいろいろな場所を経験してきました。

 

子ども同士の会話で、そうしたことが話題になることがあります。

 

例えば、

「僕はここで生まれたんだ」

と話した。

 

すると相手の子どもが、

「僕は世界一周したことがある」

というように返してくる。

 

それを聞いて私は、

「ああ、ここでもそうなるんだな」

と思いました。

 

もちろん、その子が悪いわけではありません。

 

「僕にもこんな経験があるよ」

と言いたかっただけかもしれない。

 

でも、

「僕はこんな経験がある」

に対して、

「僕はもっとこんな経験がある」

と返す。

 

これは、とても人間らしい比較だと思います。

 

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「何カ国行ったことがある?」は、分かりやすい競争になる

海外旅行や海外生活の経験は、特に比較しやすいものです。

 

「どこに行った?」

「何カ国?」

「何年住んだ?」

「何語話せる?」

 

数字にしやすいからです。

 

「5カ国行った」

「10カ国行った」

となれば、まるで順位があるかのように感じる。

 

でも、本来、経験の価値は数字では決まりません。

 

一つの国に長く暮らして、その文化を深く知った経験。

 

10カ国を旅行して、さまざまなものを見た経験。

 

どちらが上なのかなんて決められません。

 

それなのに、数字にすると比較しやすい。

 

だから、人はつい比較してしまう。

 

海外経験が珍しくない社会では、競争の軸が変わる

海外経験そのものが珍しい社会なら、

「海外に行ったことがある」

だけで差がつくでしょう。

 

でも、多文化社会では海外経験自体が珍しくない。

 

すると、比較の軸が細かくなります。

 

「何カ国?」

「どこに住んでいた?」

「何語話せる?」

「どこで生まれた?」

「海外にどんな親戚がいる?」

「どんな仕事をしている親戚がいる?」

 

つまり、

海外経験が特別ではなくなると、今度は「海外経験の量」や「海外とのつながり方」が比較材料になる。

 

多文化社会だから競争がなくなるわけではない。

 

競争する材料が変わるだけなのかもしれません。

 

でも、海外生活って、そんなに「すごい」ことなんだろうか?

ここで、私は自分の家庭のことを考えました。

 

私は海外生活を10年ちょっとしています。

 

それなりに長いと言えば長い。

 

でも、

だから何?

とも思います。

 

海外で暮らしたことがあること自体が、人として特別にすごいことだとは思っていません。

 

そして、それをもっと強く感じるのが、夫の経歴です。

 

もし海外経験がすごさなら、うちの夫は「神」になってしまう

私の夫は、自分が国籍を持つ国で、ほとんど生活していません。

 

親の仕事の都合で、子どもの頃からヨーロッパの中をかなり動き回っていました。

 

その後、アメリカで大学院生活をしていた期間も長い。

 

つまり、

自分の国籍の国よりも、海外で生活してきた時間のほうがずっと長いような人生です。

 

もし、

「海外生活の長さ」

「住んだ国の数」

「異文化の中で暮らした経験」

そのものが、人としてのすごさを表すのだとしたら。

 

うちの夫なんて、海外経験だけで、

「もう神様です」

となってしまいます。

 

でも、もちろんそんなことはない。

 

夫が海外で暮らしてきたことは、夫の人生の一部です。

 

親の仕事の都合で移動した時期もあれば、自分で選んだ留学もある。

 

いろいろな場所に住んだからこそ得た経験もあるでしょう。

 

でも、

「海外経験が多いから人間として上」

という話ではありません。

 

ただ、そういう人生を歩んできた。

 

それだけです。

 

我が家を見れば、「海外経験のすごさ」はさらに分からなくなる

しかも我が家には、海外経験を一つの物差しで測ることの難しさが、そのまま詰まっています。

 

夫は、親の仕事の都合でヨーロッパを複数の国に移動し、その後アメリカで大学院生活も長く経験しています。

 

私は海外生活が10年ちょっと。

 

そして息子は、中国で生まれ、ヨーロッパで生活し、現在はカナダで暮らしていて、8歳にして3つの大陸で生活したことになります。

 

ここまで聞くと、さぞ「国際的な家族」に聞こえるかもしれません。

 

ところが、我が家にはもう一人います。

 

トロント生まれの娘です。

 

娘は、なんと3つの国籍を持っています。

 

それなのに、

今まで一度もカナダから出たことがありません。

 

この時点で、

「誰が一番海外経験が豊富なの?」

と聞かれても、もう何を基準にしているのか分からなくなります。

 

3つの国籍があっても、海外旅行をしたことがない娘

では、そんな娘は、

「海外を知らない子」

なのでしょうか。

 

私は、全然そうは思いません。

 

なぜなら、「海外を知ること」と「海外に行ったことがあること」は同じではないからです。

 

娘はトロントで生まれました。

 

まだカナダから出ていない。

 

でも、家族の中には複数の国や文化とのつながりがあります。

 

親の経験。

兄の経験。

家族のルーツ。

親戚が暮らしている場所。

家庭の中で自然に出てくる、いろいろな国や文化の話。

 

そういう環境の中で育っています。

 

だから、娘にとって世界は、

「一度飛行機に乗って見に行くもの」

だけではありません。

 

日常生活の中に、すでにいくつもの文化や国との接点がある。

 

それも立派な「世界とのつながり」だと思います。

 

「何カ国行ったか」と「どれだけ世界に触れているか」は違う

ここは、今回の記事で一番言いたいことの一つかもしれません。

 

「何カ国行ったことがあるか」

という数字と、

「どれだけ世界に触れているか」

は、同じではありません。

 

10カ国旅行した人。

1カ国に長く暮らした人。

海外には行ったことがないけれど、多文化の家庭で育った人。

複数の言語や文化に日常的に触れてきた人。

 

それぞれ、世界との接点が違います。

 

だから、単純に「何カ国」という数字だけでは、その人がどれだけ世界を知っているのかは分かりません。

 

国籍の数と海外経験も、もちろん別のもの

娘の例からも分かります。

 

3つの国籍を持っていることと、3カ国で生活したことは別です。

 

国籍。

出生地。

居住地。

旅行歴。

家族のルーツ。

家庭で使う言語。

 

これらは、それぞれ別のものです。

 

「3つの国籍があるから、きっと海外経験も豊富だろう」

とは限らない。

 

逆に、海外生活が長いからといって、複数の国籍を持っているとも限りません。

 

だから、

「国際的」という言葉自体、何を指しているのか考えると意外と曖昧です。

 

海外経験は「勲章」ではなく、人生の経路の一つ

私自身も、海外生活をしているからといって、それを特別な勲章だとは思っていません。

 

海外生活を選ぶ人もいる。

 

仕事の都合で海外に行く人もいる。

 

親の転勤で海外生活になる子どももいる。

 

留学する人もいる。

 

たまたま海外で生まれる人もいる。

 

その人が置かれた環境や人生の事情によって、海外経験は大きく変わります。

 

だから、

「海外に住んだ年数が長い=すごい」

という単純なものではありません。

 

同じように、

「何カ国行った=すごい」

でもない。

 

海外経験は、あくまでその人の人生の一部です。

 

海外経験が多いからといって、世界をよく知っているとは限らない

これも子どもを見ているとよく分かります。

 

息子はこれまでいくつかの国で生活しています。

 

それでも、行ったことのない国については、

「そんな国があるんだ」

という反応を普通にします。

 

当然です。

 

世界は広い。

 

いくら海外経験があっても、自分が実際に暮らしたり訪れたりした場所は、そのほんの一部です。

 

だから、

「海外経験が豊富=世界をよく知っている」

でもありません。

 

海外に住んだことで得られる視点はある。

 

でも、それは「世界を知り尽くした」ということとは違います。

 

子どもの海外経験を「何カ国」で測りたくない

だから私は、息子の経験についても、

「何カ国行ったからすごい」

という見方をしたくありません。

 

中国で生まれた。

 

ヨーロッパで暮らした。

 

複数の国を経験した。

 

カナダで暮らしている。

 

日本にも行った。

 

これは全部、息子の人生の一部です。

 

そこに、

「だから他の子よりすごい」

という順位をつける必要はない。

 

一つの国だけで長く暮らした子にも、その子にしかない経験がある。

 

海外に一度も住んだことがない子にも、その子の人生がある。

 

経験はランキングではありません。

 

「僕は世界一周した」も、その子にとっては大切な経験

だから、息子に「僕は世界一周したことがある」と話してきた子についても、私は別に、

「張り合ってきた」

と悪く捉えるつもりはありません。

 

その子にとっては、

「僕にもこんな経験がある」

と伝えることだったのかもしれません。

 

子どもは、自分の経験を交換しながら、自分がどんな人間なのかを説明していくことがあります。

 

「僕はここで生まれた」

「僕はここに行った」

「僕はこれをした」

それは、単純な自慢ではなく、自分の物語を作っている途中なのかもしれません。

 

だからこそ、大人がそこに「すごさ」という順位を付けすぎないことも大切なのだと思います。

 

子どもの物語に、親が「すごい背景」を足したくなることもある

今回の「オーストラリアのエレベーターエンジニア」の話も、もしかすると同じなのかもしれません。

 

子どもがエレベーターを作っている。

 

そこで、

「実はこの子のお父さんのいとこは、オーストラリアでエレベーターの仕事をしている」

という背景を付け加える。

 

それ自体は、ごく普通の親子の会話なのかもしれません。

 

ただ、少なくとも私には、

「この子には、こんな背景もあるんですよ」

と紹介しているようにも見えました。

 

さらに、それが同じ内容を何度も繰り返すことで、妙に印象に残った。

 

そして私は、

「これは子どもに伝えたいのかな。それとも、周囲にも聞かせたいのかな」

と思った。

 

それが本当かどうかは分かりません。

 

でも、親が「自分の子どもを少しでも特別に見せたい」と思う気持ち自体は、決して珍しいものではないでしょう。

 

子どもが面白がっているものを、大人がそのまま面白がるほうがいい

私は、今回の男の子が作っていたものを見て、

「この子、面白いこと考えるな」

と思いました。

 

それだけで十分でした。

 

その子がどこで生まれたのか。

 

親戚がどこに住んでいるのか。

 

その親戚がどんな仕事をしているのか。

 

それがなくても、その子が作っているものは面白かった。

 

むしろ、

「どうしてこれが上がるんだろう?」

「どうやったら落ちないんだろう?」

という子どもの疑問を一緒に考えるほうが、私はずっと興味があります。

 

子どもにとっても、そのほうが自分の経験になるのではないでしょうか。

 

「すごい経験」を持っていることより、「今何をしているか」

海外に住んでいる。

 

何カ国も旅行した。

 

海外の親戚がいる。

 

珍しい仕事をしている親戚がいる。

 

そうしたことは、確かにその人の背景です。

 

でも、それだけでその人の価値が決まるわけではありません。

 

私はむしろ、

「今、この人は何を考えているんだろう」

「何を作っているんだろう」

「何を面白いと思っているんだろう」

というところに興味があります。

 

それは子どもでも大人でも同じです。

 

多文化社会だからこそ、「違い」と「優劣」を切り離したい

カナダで暮らしていると、さまざまな違いに出会います。

 

生まれた国。

話す言語。

家族のルーツ。

海外生活。

旅行経験。

親戚の住む場所。

国籍。

 

こうした違いは、とても面白いものです。

 

でも、

違うことと、優れていることは別です。

 

「僕は世界一周した」

「僕はここで生まれた」

「うちの親戚はオーストラリアで仕事をしている」

「うちの子は3カ国の国籍を持っている」

 

どれも、その人や子どもの背景の一部。

 

そこに、

「だから私のほうがすごい」

という順位をつける必要はありません。

 

我が家だけ見ても、「海外経験のランキング」は成立しない

考えてみれば、我が家はかなり分かりやすい例です。

 

夫は海外で長く生活してきた。

 

私は海外生活10年ちょっと。

 

息子は8歳で3つの大陸に住んだ。

 

娘は3つの国籍を持っている。

 

でも、娘はまだ一度も海外に行ったことがない。

 

では、

「誰が一番国際的?」

と聞かれたら、どうでしょう。

 

夫?

息子?

娘?

私?

 

答えようがありません。

 

なぜなら、そもそも「国際的」というものを、何カ国住んだか、何カ国旅行したか、何個の国籍を持っているかで測ろうとすること自体に無理があるからです。

 

3つの国籍を持ちながら一度も海外に行ったことがない娘は、だからといって「海外を知らない」わけではありません。

 

逆に、海外に何度も行ったからといって、その人が世界を深く理解しているとも限りません。

 

家族との会話。

文化の違い。

言葉。

食べ物。

人との関わり。

日常の中にある小さな違い。

 

そういうものからも、子どもは世界を知っていきます。

 

「海外を知る」ということは、国境を何回越えたかではない

海外旅行の回数。

住んだ国の数。

海外生活の年数。

国籍の数。

 

どれも数字にはできます。

 

でも、

「どれだけ世界に触れてきたか」

ということは、数字だけでは測れません。

 

実際に海外に行くことには、大きな意味があります。

 

でも、海外に行かなければ世界を知れないわけでもない。

 

多文化の環境で育つこと。

 

違う文化を持つ人と日常的に関わること。

 

家族の中に複数の文化があること。

 

そうしたことも、その子の世界の見え方を作っていきます。

 

だから、海外経験を競争にしたくない

私は、自分自身の海外生活も、息子の海外経験も、夫のこれまでの生活も、娘の3つの国籍も、

「こんなにすごい経験をしている」

というカードにしたくありません。

 

だって、それぞれただ、

そういう人生だった

というだけだから。

 

海外に住んだ。

海外に行った。

海外で生まれた。

海外には行っていない。

複数の国籍がある。

一つの国籍だけ。

 

全部、それぞれの人生です。

 

それでいい。

 

まとめ|海外経験は本当に「すごい」の?

今回、図書館で聞いた、

「お父さんのいとこがオーストラリアでエレベーターのエンジニアをしている」

という話から、私はいろいろなことを考えました。

 

普段は中国語で話しているお母さんが、その話だけ英語で話していた。

 

その場にいた大人は私くらいだった。

 

同じ内容を少なくとも3回繰り返していた。

 

一方、聞かされている男の子は、目の前のエレベーター作りに夢中で、どうもそれほど興味がなさそうだった。

 

だから私は、

「これ、私に聞かせているのかな?」

と思った。

 

本当のところは分かりません。

 

でも、そこから私は、

「海外経験って、そもそもそんなにすごいことなのかな?」

と考えるようになりました。

 

カナダは多文化社会です。

 

だから、海外とのつながりは珍しくありません。

 

それでも、人は、

「何カ国行った」

「どこに住んだ」

「どこで生まれた」

「何語話せる」

「海外にどんな親戚がいる」

という形で、自分の背景を比較することがある。

 

多文化社会だから競争がなくなるわけではない。

 

競争する材料が変わるだけなのかもしれません。

 

でも、私はその競争にはあまり興味がありません。

 

私自身も海外生活は10年ちょっとあります。

 

夫は、親の仕事の都合でヨーロッパの複数の国を移動して育ち、その後アメリカで大学院にも長く通っています。

 

息子は、8歳にして3つの大陸で生活しました。

 

そして娘は、トロント生まれで3つの国籍を持ちながら、まだ一度もカナダから出たことがありません。

 

それでも、誰が一番「海外経験が豊富」なのかなんて、決める必要はない。

 

そもそも、そんなランキングに意味がないのです。

 

3つの国籍を持っていても海外に行ったことがない娘は、決して「海外を知らない子」ではありません。

 

海外に何度も行ったからといって、その人が世界を深く知っているとも限りません。

 

何カ国住んだかも、何カ国訪れたかも、人間の価値を測る数字ではありません。

 

海外経験は勲章ではなく、

その人の人生の経路の一つ。

 

それだけなのだと思います。

 

だから、誰かが「こんな経験がある」と話したとき、自分の「もっとすごい経験」を返す必要はない。

 

「へえ、そうなんだ」

で終わってもいい。

 

子どもが「僕はここで生まれた」と言ったら、

「そうなんだね」

と聞けばいい。

 

相手の子が「僕は世界一周した」と言ったら、

「それはどんなところが面白かった?」

と聞くこともできる。

 

経験を数えて順位をつけるのではなく、

それぞれの人の経験を、その人の経験として聞く。

 

そのくらいでいいのではないでしょうか。

 

そして、あの日の男の子が作っていたエレベーターも、私は今でもよく覚えています。

 

遠くオーストラリアにいる親戚がどんな仕事をしているのかより、

ロープを引っ張って、

「どうしたら上に上がるんだろう?」

と試していた、その子自身の好奇心のほうが、ずっと印象に残っています。

 

大人が思う「すごい話」と、子どもが本当に面白いと思っていることは、必ずしも同じではない。

 

そして、世界を知るということも、国境を何度越えたかだけでは決まらない。

 

海外経験を競うより、それぞれの人生をそのまま面白がる。

 

多文化社会で子育てしているからこそ、私はそんなふうにありたいと思っています。