学校生活では、先生から「好きな席に座っていいよ」と言われることがあります。

 

大人からすると、とても子どもに優しい言葉に聞こえます。

 

「自分で好きな場所を選べる」
「友達と一緒に座れる」
「子どもの自主性を尊重できる」

 

確かに、自由に席を選べることにはメリットがあります。

 

でも、子どもの集団生活を考えると、私は以前から少し気になるところがありました。

 

「自由に座っていい」というルールは、本当にすべての子どもにとって自由なのだろうか?

 

私は中学校や高校で教員をしていたことがありますが、振り返ってみると、授業中の座席を「好きなところに座っていいよ」と完全な自由席にしたことは、ほとんどなかったと思います。

 

もちろん、友達と一緒に座りたいという子どもの気持ちは分かります。

 

それでも、あえて自由席にしなかったのには理由がありました。

 

自由席は「聞こえがいい」けれど、子ども全員が同じように自由になれるわけではない

「好きな席に座っていいよ」と言われたら、目立つ子や自己主張の強い子は、きっと喜ぶでしょう。

 

「ここがいい!」

「○○ちゃんの隣がいい!」

と、自分の希望をはっきり言えるからです。

 

友達を誘うこともできます。

 

「一緒に座ろう」と声をかけることもできます。

 

ところが、すべての子どもが同じように動けるわけではありません。

 

「まあ、どこでもいいよ」と言う子もいます。

 

人と争うのが苦手な子もいます。

 

「ここに座りたい」と思っていても、誰かが先に座っていたら諦めてしまう子もいます。

 

そして、最終的には、

「自分が譲れば丸く収まる」

と考えてしまう子もいる。

 

自由席という同じルールがあっても、その自由をどれだけ使えるかには差が出てしまうのです。

 

私自身、どちらかというと「譲る側」だった

実は私自身、子どもの頃から、どちらかというと「譲る側」の人間でした。

 

「そこがいい」と強く主張するより、

「まあ、いいか」

と引いてしまう。

 

誰かが強く希望しているなら、自分が別の場所に行けばいい。

 

そんなふうに考えることもありました。

 

だからこそ、自由に座るという仕組みに対して、

「これって本当に平等なのかな」

という感覚がありました。

 

自由に選んでいい。

 

ルールとしては全員同じです。

 

でも、実際にその自由を使って自分の希望を通せる子と、誰かに譲ってしまう子がいる。

 

そう考えると、

「全員に同じ自由を与えること」と「全員が同じように自由を使えること」は別なのではないか

と思うのです。

 

「好きな場所に座りたい」と「友達と座りたい」は違う

自由席が難しいのは、子どもによって「自由に座る」の意味が違うからです。

 

ある子にとっては、

「自分の好きな場所に座りたい」

という意味。

 

別の子にとっては、

「友達と一緒に座りたい」

という意味。

 

また別の子は、

「いつも座っている場所がいい」

と思うかもしれません。

 

「今日は前のほうに座りたい」という子もいるでしょう。

 

「先生の近くがいい」という子もいるでしょう。

 

「この子の隣がいい」という子もいるでしょう。

 

つまり、同じ「自由席」という制度でも、子どもたちが求めているものは違います。

 

そして、その希望が重なれば、当然ながら衝突します。

 

友達と座りたい子が増えると、誰かが譲ることになる

例えば、10個の席に10人の子どもが座るとします。

 

席の数としては足りています。

 

全員に一つずつ席があります。

 

だから「平等」に見えます。

 

ところが、

「Aちゃんの隣がいい」
「Bちゃんと一緒に座りたい」
「この場所がいい」

という希望が重なったらどうでしょう。

 

全員が好きな場所に座ることはできません。

 

誰かが別の場所に移動することになります。

 

つまり自由席では、

席の数が足りなくなくても、「希望する席」が足りなくなることがある。

 

ここが難しいところです。

 

そして、そこで誰が譲るのか。

 

自己主張が強い子は譲らないかもしれません。

 

人間関係を大切にする子は友達を優先するかもしれません。

 

争いが苦手な子は、自分が移動するかもしれません。

 

すると、同じ自由席なのに、結果としていつも同じタイプの子が譲ることになってしまうことがあります。

 

「公平」と「平等」は同じではない

ここで考えたいのが、「公平」と「平等」の違いです。

 

自由席は、ルールだけ見れば公平です。

 

「全員、好きな席を選んでいい」

 

全員に同じ条件が与えられています。

 

でも、それによって全員が同じ結果になるわけではありません。

 

自己主張が得意な子は、自分の希望を通しやすい。

 

交渉が得意な子は、友達を誘いやすい。

 

人間関係を作るのが得意な子は、自然と仲間を集められる。

 

一方で、控えめな子や、揉めることが苦手な子は、譲ってしまうことがあります。

 

だから、

「全員に同じルールを与えること」は平等でも、その結果まで平等になるとは限らない。

 

私は自由席について考えるとき、ここが一番難しいところだと思います。

 

私が教員をしていたとき、自由席にしなかった理由

私は中学校や高校で教員をしていました。

 

その頃、友達と座りたいという生徒の気持ちはもちろん分かっていました。

 

仲の良い友達と授業を受けたい。

 

それは自然なことです。

 

でも、私は授業の座席を「好きなところに座っていいよ」という完全な自由席にすることは、ほとんどしなかったと思います。

 

理由の一つは、子どもたちの間に余計な差を作りたくなかったからです。

 

目立つ子や自己主張の強い子は、自由席になると自分の希望を通しやすい。

 

その一方で、譲ってしまう子もいる。

 

自分自身がどちらかというと譲る側だったからこそ、その構図が何となく分かっていたのだと思います。

 

「自由にしてあげればいいじゃない」と言われれば、その通りです。

 

でも、

自由にした結果、いつも同じ子が得をして、いつも同じ子が譲る。

それなら、私はあえて自由にしないほうがいいと思っていました。

 

 

もう一つ、自由席で気になっていたのが「ポツンと残される子」

そして、もう一つ大きかったのが、人間関係です。

 

自由席にすると、どうしても、

「友達同士で座る」

という流れが生まれます。

 

仲の良い子たちは自然に集まります。

 

では、その中に入れない子はどうなるでしょうか。

 

誰かが、

「一緒に座ろう」

と声をかけてくれればいい。

 

でも、そうならないこともあります。

 

気がついたら、最後まで一人だけ残っている。

 

周りは友達同士で座っているのに、自分だけポツンとしている。

 

本人が気にしていない場合もあるでしょう。

 

でも、気にしている子もいるかもしれません。

 

私は教員として、授業の座席によってまで、

「自分には一緒に座る友達がいない」

ということを毎回意識させるような状況は、できるだけ作りたくありませんでした。

 

だから、友達と座りたいという気持ちは尊重しながらも、座席そのものは教師側で決める。

 

そうすることで、少なくとも、

「誰と一緒に座れるか」

を生徒同士の人気や人間関係だけに委ねないようにしていました。

 

「みんなで仲良く使おう」も、実際には難しい

自由席の話をしていると、「みんなで仲良く使えばいいじゃない」という考え方も出てくると思います。

 

でも、これも子どもにとっては意外と難しいものです。

 

例えば、おもちゃが3個しかないのに、10人の子どもが同時に使いたいとします。

 

「みんなで仲良く使おうね」

と言われても、10人全員が同時に使えるわけではありません。

 

誰かは待つことになります。

 

誰かは使えないかもしれません。

 

順番を決める必要もあるでしょう。

 

「貸して」と言っても断られることがあります。

 

場合によっては、誰かが勝手に持っていってしまうこともあります。

 

つまり、

「みんなで仲良く」という理想と、「限られたものをどう分けるか」という現実は別問題です。

 

自由席も、それとよく似ています。

 

「譲ること」と「いつも自分が譲ること」は違う

もちろん、譲ることは大切です。

 

友達に譲ってあげる。

 

相手の気持ちを考える。

 

自分だけが独占しない。

 

こうした経験は、子どもが集団生活を学ぶうえで大切でしょう。

 

でも、

「優しい子だから譲る」ことと、「優しい子だからいつも譲らされる」ことは違います。

 

ここは大人が注意して見ておく必要があると思います。

 

「譲ってあげられて偉いね」と褒めているうちに、いつの間にか、

「この子なら譲ってくれる」

という扱いになってしまうこともあります。

 

それでは、本当の意味での譲り合いとは少し違います。

 

譲ることもできる。

 

でも、譲らないこともできる。

 

「私はここがいい」と言うこともできる。

 

そのうえで、相手の希望も尊重する。

 

それくらいのバランスが必要なのだと思います。

 

自由だからこそ、ルールが必要になる

「好きな席に座っていいよ」という自由席そのものが悪いわけではありません。

 

自分で選べることは楽しいでしょう。

 

友達と一緒に座れることがうれしい子もいるでしょう。

 

自主性を育てるという意味でも、メリットはあります。

 

ただ、自由にするのであれば、

  • 先に座っている人を無理に追い出さない

  • 相手が嫌がっているのに席を奪わない

  • いつも同じ子だけが譲る状況を作らない

  • 一人になってしまう子がいないか先生が見る

  • 子ども同士で解決できない場合は先生が調整する

といったルールも必要になるのではないでしょうか。

 

自由だからルールがいらないのではなく、自由だからこそルールが必要なのです。

 

「好きな席に座っていいよ」という優しい言葉の難しさ

「好きな席に座っていいよ」。

聞こえ方としては、とても優しい言葉です。

 

先生が全部決めるのではなく、子ども自身に選ばせてくれる。

 

友達と座りたい子は友達と座れる。

 

自分の好きな場所を選べる。

 

それは確かに自由です。

 

でも、子どもの集団の中では、その自由によって、

誰かが希望を通し、誰かが譲る

ということも起こります。

 

そして、自己主張できる子と、譲ってしまう子の差が出てくる。

 

友達同士で固まることで、一人だけポツンと残ってしまう子が出てくることもある。

 

だから私は、「自由席=子どもにとって優しい」と単純には考えられません。

 

自由席が悪いのではありません。

ただ、

「自由」と「平等」は同じではない。

 

そして、

「公平なルール」と「公平な結果」も同じではない。

 

これは、子どもたちの集団生活を考えるうえで、とても大切なことだと思います。

 

私は教員だった頃、友達と座りたいという子どもの気持ちは尊重したかった。

 

でも、それと同時に、

「誰かがいつも譲る」
「誰かがいつも選ばれる」
「誰かがいつも一人になる」

という状況も作りたくなかった。

 

だから、あえて自由席にはしなかったのだと思います。

 

今になって子どもの学校生活を見ていると、当時自分が何となく感じていた、

「自由にすれば、それだけでみんなが幸せになるわけではない」

という感覚が、少し分かるようになりました。

 

「好きにしていいよ」という言葉は、確かに優しい。

 

でも、子どもたちにとっては、その自由をどう使うのか、誰が譲るのか、誰が譲らないのか、そして誰が取り残されるのかまで含めて考えなければならない。

 

学校生活の中で何気なく使われている「自由」という言葉は、思っている以上に難しいものなのかもしれません。

 

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