トイレが使えなくなった朝
ある朝、トイレが流れなくなりました。
正確に言うと、流そうとすると水位が上がり、「これはまずい」と直感的に分かる状態でした。
原因は共有配管の問題
大家さんに来てもらい、時間をかけて配管を調べてもらったところ、原因はほぼ特定されました。
私たちの家だけの問題ではなく、配管がつながっている他の家庭から、本来流してはいけないものが流れてきて詰まった可能性が極めて高いとのこと。
配管の中からは、なぜか大量の紙が出てきたそうです。
ナプキンなどを流してしまう人も珍しくないと聞きました。
多文化社会では「前提」が共有されない
日本で育った私にとって、「トイレットペーパー以外は流さない」というのは、注意書きを読む以前の常識です。
しかし、多文化社会では、その前提は共有されていません。
国によってトイレ事情は大きく異なります。
紙を流せない国もあれば、「水で流れるものはすべてOK」という感覚の地域もあります。
そこに集合住宅で配管を共有している現実が重なると、問題は一気に生活レベルへ降りてきます。
家の中は非常事態に
その日、私たちの家ではトイレが使えません。
配管を確認するためにリビングの荷物はダイニングや子どもの部屋、廊下へ移動され、家の中は落ち着かない状態に。
夜は息子のベッドのマットレスを寝室に運び、家族全員で一部屋に集まって眠りました。
市の対応は遅れ気味
市の担当者が来る予定でしたが、伝えられた時間を過ぎても来ませんでした。
トロントは大雪の影響が残っており、対応が遅れているようです。
大家さんが何度も問い合わせをしてくれていますが、対応がいつになるかは明確ではありません。
感謝と不便さは別の問題
大家さんはとても親身に対応してくれています。
何度も連絡を取り、原因を調べ、できる限りのことをしてくれています。
それは本当にありがたいことです。
ただし、感謝の気持ちと「生活が成り立たない不便さ」は、別の問題でもあります。
非常時の食事と子どもへの影響
トイレが使えず、ダイニングにも物が散乱していると、きちんとした食事を作る気力が削られます。
簡単な朝食や昼食は何とかなりますが、いつものような食事を用意するのは難しくなります。
それは怠けではなく、非常時として自然な反応だと思います。
1歳の娘にとっても、きっとストレスなはず。
家の配置が変わり、大人が落ち着かず、いつもと違う空気が流れています。
状況は理解できなくても、「何か違う」という感覚は伝わってしまいます。
子育てで感情を抑えるストレス
子どもに不安な思いをさせたくないので、私は「非常事態だけど、プラスの面を忘れないようにしようね」「全員で同じ部屋で寝るなんて滅多にないから、楽しもうね」と声をかけます。
でも、ふとした瞬間にはため息が出てしまうこともあります。
大人だって、疲れていて、不安で、ストレスを抱えているのです。
一時避難の選択
もしこの日も進展がなければ、夕方は家族で外に出ようと決めました。
水曜日の16時以降は無料になるGardiner Museumへ行く予定です。
博物館なら静かで暖かく、そして確実に清潔なトイレがあります。
住まいへの責任と無責任の影響
今回の出来事で強く感じたのは、多文化社会では「言わなくても分かる」という前提が存在しないことです。
トイレに何を流してよいのかという基本的なことさえ、共有されていません。
そしてもう一つ感じたのは、賃貸住宅だからなのか、住んでいる場所に対して責任を持たない人が一定数いるという現実です。
自分が直さなくていいと思った瞬間、その無責任さは、壁や床ではなく、同じ配管を使う他人の生活に直撃します。
集合住宅では、無責任は個人の問題では終わりません。
生活インフラを通じて、誰かの一日を簡単に壊してしまいます。
人の優しさに触れる瞬間
誰かを責めたいわけではありません。
ただ、同じ建物で暮らしているという事実が、あまりにも無防備に扱われていることに、戸惑いを感じています。
そんな中、トロント市内の職場の同僚たちが「いつでもうちにおいでよ!」と言ってくれました。
こういう状況に陥るからこそ、人のありがたさや思いやりに触れることができます。
心の中にぽっかり穴が開いてしまうことがあったとしても、その穴の隙間から見える優しさが、ほんの少しだけ救いになりました。
トイレが教えてくれたこと
トイレが使えなくなった一日は、この社会がどのような前提の上に成り立っているのかを、静かに教えてくれました。
そして、家族や周りの人たちの優しさに気づくこともできました。
非常事態は大変ですが、だからこそ見える景色もあるのだと思います。
【関連記事】

