先日Upした「駄文」に、補足する形のブログ。

興味ある方だけ、読んでいただければ嬉しい。

 

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ハレの日、という言葉がある。

 

大辞泉によれば、

「多くの人から祝福される儀式などを行う日。人生の記念すべき日。「〜のごちそう」」

とある。要は「メデタい日」と解釈しても構わないのではないかと思う。

 

非日常という意味も、持つらしい。

民俗学者の柳田国男氏が定義した言葉で、日本人の伝統を重んじる世界観を表現している、らしい。

ちょっとはっきりしないので、ざっくりと解説記事などを読んで、僕なりに理解すると、柳田氏によれば、日本人の生活リズムは2つの時期、「ハレ」と「ケ」に分けられる、というのだ。

「ハレ」は一般的に、めでたい、非日常な行事などが行われる時期。

「ケ」は、いつもの(普段と変わらない)時期。

 

非日常である「ハレ」の日は、日常の「ケジメ(ケの時期を閉める、ということか)」を付ける日であり、着飾ったり良いものを食べたりする。

一方「ケ」の時期はまさに、普段通りの生活をする時期らしい。

生活とはこの「ハレ」と「ケ」、再生と崩壊の繰り返しで構成される「円環型時間軸」の上に成り立っていると考えられる。書いていて思ったのだが、これは太極 / 陰陽、にも近い考え方なのだろうか。。。(これについては不学なので、今後の勉強課題だ)

(ちょっと余談だけれども、反対に、世界は一度始まったら不可逆的に進み、最後に崩壊する、という考え方が直線的時間論 〜キリスト教的な、神による世界創造から最後の審判へという流れ 〜 、と言われるものだ)

 

この円循環型時間軸で人生を捉えると、人の時間は「生」と「死」の繰り返しであり、この再生を続けるためにも「生」には常にエネルギーの補充が必要となる、そのエネルギー補充が「ハレ」の日の一つである「祭り」だと柳田学派は捉えて居るのだと僕は理解している。ハレの日には、神は「祭り」を通して人間にエネルギーを与えてくれたのだ、という解釈なのだ。

 

この問題に取り組んでいくと「ケガレ」についても言及せねばならなくなるのだけれど、今回は割愛。

 

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話を、書きたかった本筋に移そう。

 

我々Musicianにとって、「ハレの日」とは一体、いつなんだろう?

そりゃ沢山あるだろう。

バンドのデビューライブの日、レコ発の日。ラジオ出演の日とかもきっとそうだ。

もっと言えば、一つ一つのライブの日は、沢山(で、あって欲しい)のお客様の前で演奏できるのだから、間違いなく「ハレの日」なんだろうな、と思う。

 

では、そのライブ会場に足を運んでくださるお客様の立場では、どうだろう?

 

もちろん普段の生活の中で「ハレ」の要素は多岐にわたっていると思うのだけれど、このブログでは「ライブに行く」事にFocusしてみたい。

ライブに向かう時って、きっと誰もがワクワクしている。そう、紛れもなく、ハレの日だ。

 

すると、ライブという「お祭り」は、見る側にとっても出る側にとっても「ハレの日」であり、お互いのエネルギーの交換が行われる日、という事が言えると思う。

僕もよく言うのだけれど、「お客様からエネルギー貰った」ってのはまさにこれだと思う。

 

この点だけ見ていると、特に問題はないように見える。

 

しかし。

 

お客様にとって「ライブを見てエネルギーを貰える、素敵なハレの日」は、出演者側に高いレベルのエネルギーが要求されて居るのではないだろうか。

逆に、出演者がお客様からエネルギーを頂くには、出し惜しみなどせず、全力でやって初めて、頂けるのではないだろうか。

そりゃ当たり前、ですよね。人前に出てエンターティメントを提供するのだから、準備も練習も必要だし。

放出するエネルギーを作り出し、貯めておく必要がある。

 

つまり、充分な「ハレ」を提供するためには、そのための充分な「ケ」の日々が必要になってくる、ということだ。

お客様にとっては「日頃の鬱憤を晴らし、楽しむ」祭りは、出る側にとっては「楽しむ」だけでは済まされない。

 

そして「ハレ」の日が続き、自身の生活の中で数多く存在する、というのはやはり、僕には出来ないことではないかと思う。

「ハレ」はあくまでも「非日常」であり、それが常態化してしまうともはやそれは「ハレ」ではなくなってしまうのだ。まるで麻薬中毒のように、どんどんと効かなくなってくる。

 

演じる側から言うと、「ハレ」は本来的にはお客様の為のものであって、ライブというお祭りは我々からすれば「ケ」の日々の集積なのだ。日常を重ね続けて、神と繋がり、そこで得たものを非日常としての演出で提供し、お客様に楽しんでいただく。

その上でのエネルギーの「お返し」があった時点で、やっとこさ我々に「非日常」がもたらされる、そんな図式なのではないかと思えた。

 

僕たちは、「祭り疲れ」してないだろうか。「祭り」が日常化してないだろうか。

Rioのカーニバルは、365日のうちのたった9日間だ。