現在、私は予備校で数学を教えています。
しかし、中学1年の2学期までは数学も含めそれほど勉強ができる方ではありませんでした。
私が数学ができるようになり始めたのは、まだ宮崎に住んでいた中学1年の3学期。
きっかけは、近所にできた極真空手の道場と、私と同い年のある音楽家です。
その音楽家の方には心から感謝しています。
というわけで、今日は宮崎滞在記の番外編として、宮崎に帰って思い出したその時の想い出を。

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私は中学3年の冬休みまで宮崎市内に住んでいた。
中学1,2年生の時、Kという同級生がいた。

当時、我々の中学では校則がうるさく、髪については「前髪は眉毛にかかってはいけない、横は耳にかかってはいけない」などとうるさい決まりがあり長い髪はご法度だったが、彼はギリギリの長さでヘアスタイルを綺麗に整えており、身の回りをいつも奇麗にしている。
遠足などでは我々よりもいいものを持ってくる。
彼の家は病院をやっていた。医者の息子の彼は、見るからに、今で言うセレブな雰囲気を漂わせいてた。

彼は吹奏楽部に入っておりトロンボーンを吹いていたが、小さい頃から他にも音楽の教育を受けていたようで、合唱祭などでは彼がリーダーとなり、吹奏楽部では彼が部長になっていたと思う。

彼は勉強においても上位だった。
お金持ちでオシャレで勉強もできる。
しかも、なかなかの美少年。
私は大学生になってから『ちびまる子ちゃん』を知ったが、この漫画で「花輪くん」を見た時「おぉぉ、Kだぁぁ!!!」と思った。漫画に花輪くんが登場する度に、私はKの事を思い出していた。

お金持ちで勉強もでき吹奏楽部のエースとなれば近寄りがたいはずなのだが、彼は三枚目キャラで親しみやすく、我々をよく笑わせていた。
セレブで優秀で面白く美少年なのだから女の子にモテモテのはずなのだが、三枚目キャラのせいなのか、あるいはあの中学は積極的に男子にアプローチする女子が少なかったからなのか、女の子に追い掛け回されていた記憶はあまりない。彼とは男子も女子も笑って過ごしていたイメージが強く残っている。こっそり想いを寄せていた女の子は多かったと思うのだが。

彼の家に何度か遊びに行った記憶があるが、お母様がとても優しい方で、我々をいろいろともてなしてくれた。
定期試験の前の夜、私は彼の家に「一緒に勉強をする」という名目でおじゃました。
まぁ、それは友達の家に夜遊びに行くための名目として行っていたわけで、実際には遊びに行って彼の勉強の邪魔をしに行っていたと言ってもいいだろう。
そんな定期試験前の夜、私は勉強している彼の横で、彼の弟さんと一緒に遊んでいた。
遊びが次第にエスカレートし、しまいにはギャーギャー騒ぎ始めた。すると突然、彼のお父様が部屋に入ってきて「何をやっている!」と怒鳴った。
まぁ、普通の親なら怒るのが当然だろう、というか、今考えるとあれは怒らなくてはいけない思う。
図々しい私もこれにはさすがに気まずくなって帰ろうとすると、お母様がいらしゃり、帰り際、玄関で私を見送ってくださり「これ、帰ってから食べてね」と、私にお菓子をくださった。
迷惑をかけに来た私に何故そこまでしてくれたのかわからないが、私の母が夜仕事をしていて家にいないことをご存知だったのかもしれない。

こんな調子で、私は彼の勉強については邪魔をした記憶しかないのだが、逆に彼は、勉強に関して私のその後の人生を大きく変えるほどのプラスの影響を与えたのだ。

私は小学生から中学1年の2学期半ばぐらいまで、それほど勉強に対するモチベーションが高くはなく、また勉強に対する要領も悪く、成績はだいたいクラスで真ん中ぐらいだった。
そんなダメな私を、母は無理やり塾に入れた。
塾に行っていた時間は退屈で、早く帰ってテレビを見たり漫画を読んだりすることばかり考えながらボーッと過ごしていた。しばらくすると塾に行くふりをして夜遊びをするようになった。そんなことなので当然、成績は上がらず。

私は小学校6年生の時に『空手バカ一代』を読んでから空手を習いたくなっていた。
だが、当時、まだ近所に空手の道場はなかった。

ある日、私の家の近くに空手の道場ができた。
しかも、それは、あの空手バカ一代の主人公である大山倍達氏の極真空手の道場!

私はどうしても入りたいと思い、母にこの道場に行かせてくれとせがんだ。
しかし母は
「成績がちっとも上がらないのにそんなところに行かせられるわけないでしょ! 塾はどうするの? うちに塾と空手道場の両方に行かせるお金はないわよ! あんたにもそんな時間はないでしょ!」
と一蹴。
母からは「塾に行かずに空手道場に通っても成績が上がるなら行かせてもいいけど」と言われた。
これよりも前に(私が空手を習いたいと思う前)、母は私に剣道を習わせようとしたことがあった。面倒くさがり屋な私は結局習わなかったのだが、母に空手道場はダメだと言われた時、何故剣道はよくって空手はダメなのだろうと理不尽に思った。
今思うと、母と離婚した父が若いころに空手をやっていたから、私が父と同じ武道をやるのを嫌がっていたのかもしれない。

それはともかく、勉強に対するモチベーションの低かった私も、極真空手の道場に通うために何とかして塾に行かず成績を上げたいと思った。
が、何しろこれまでまともに勉強をしたことがない。どうやって勉強をすればいいのかわからない。
中学校では教師たちが作った「勉強のやり方」の冊子があったが、そのやり方は手間ばかりかかって面倒くさくて効率が悪そうで、この冊子に書かれているとおりにやって成績がそんなに伸びるとは思えなかった。

困った私は、勉強ができるKに「どうやったら勉強ができるようになる?」と相談した。
当時、彼は公文式に通っていたらしく「数学なら、これが一番いいと思うよ」と、彼が使い終わった公文式の教材を私にくれた。
計算問題のプリントがどっさり。
「習うより慣れろ」式の教材だ。

勉強のできるKがやっていたんだから、これをやれば伸びるだろう。
とりあえずこれをやってみるか。

それから、私は彼からもらった公文式のプリントの問題をひたすら解きまくる。

私は、算数や数学について「わからない」ということはあまりなかった。英語の文法などについても、授業を聴いて文の構造等を「理解」することはできていた。
勉強に対するモチベーションは低かった私だが、「何故そうなるのだろう? 何故それで正しいと言えるのだろう?」というのはかなり気になる方で、自分なりに「あぁ、こういうことか。だからそれで正しいと言えるのか」という「理解」はしていた。
ただ、勉強に対するモチベーションが低く宿題もサボりがちだったので復習や演習による知識の定着や慣れの部分が全くダメだったようだ。

とりあえず、私はKから渡された公文式の教材をやってみた。
この「習うより慣れろ」「とりあえず解け」式の教材は私に合っていたようで、私に欠けていた「反復練習による慣れと知識の定着」「実際に問題を解くことによる実戦力の強化」で、私の数学の成績はドンドン伸びていった。
また、元々パズルのような問題を解くのは好きな方だったので、人から教わるよりも自分で考えて解決していくというのも私に合っていた。
Kからもらった公文式の教材をやり終わった私は、新たに問題集を買い、とにかく問題をドンドン解いていった。
数学が伸びると、不思議な事に他の科目もそれに引っ張られるように伸びていく。
英語や社会科はボチボチといった程度の伸びだったが、理科は数学と同様に伸び、(公立中学のレベルではあるが)理数系の科目ではいつの間にかクラスで、やがて学年で一番になり「数学や理科がわからなかったら寺西にきけ」という状態になっていった。
(因みに、中学の数学だと内容が比較的単純なので「とにかく問題を解く」は私の場合のように効果的なことも多いようですが、高校の数学となるとそれなりに深い理解も必要となり解法も技巧的になってくるので、やはり体系的な理解や、演習で力をつけるにしても考え方・解法が体系的に身につくような指導・教材があったほうが良いと思います)

因みに、塾に行かなくなっても成績が伸びたおかげで母はしぶしぶ極真空手道場の入門を許可したが、根性無しの私は結局、青帯を取った段階でやめてしまった。

こんな理数系科目なら校内でぶっちぎりな状態が中学3年の1学期まで続いていたが、まぁ、中3の夏にいろいろ思うことがあり、学校の勉強がアホらしくなってピタッとやめてしまった。
それからは大学に行くつもりもなくなりほとんど勉強せず、高校もいつやめちまおうかと思いながらも居心地のいい高校だったのでズルズルと過ごしたが、高校3年の時に思うことが会って大学受験を決意し、それから浪人時代までそれなりに勉強して理系の大学へ。
暫くは「とりあえず他の科目よりはできるし、自分がやりたいと思っている工業系の勉強には必要だから」という理由で、ある意味仕方なく少し不毛な思いをしながらも数学を勉強していたが、大学院に入ってやっと数学の本当の面白さ・凄さを知ることになる。
そんなこんなで紆余曲折を経て、結局、私は今、人に数学を教える仕事をしている。

私に数学が出来るようになるきっかけを与えたてくれたKは、中学を卒業すると東京の芸術系の高校に進学していった。
私も中学3年の冬休みに家族と東京に引っ越したが、結局、東京で彼と会うことはなかった。

家族と東京に出てきた私は、高校2年生の時、1年間だけ吹奏楽部にいた。
楽器はトランペット。
私の高校は都立杉並高等学校。監督の五十嵐氏の尽力で、現在、都立杉並は高校の吹奏楽部として名門となり、テレビにも出るようになり、吹奏楽部を目当てに入学してくる生徒も多いほどだが、私がいたころはまだ普通の吹奏楽部。高校2年から入部することもできたのだ。
いい加減で音楽のセンスもあまりない私は五十嵐氏や先輩方の立派な指導でも結局それほど上手くはならず、トランペットは高校3年になる前にやめてしまい、また、高校を卒業すると在学中はそれなりに熱中していたギターもほとんど弾かなくなってしまった。

そんなこんなで、高校を卒業すると音楽にほとんど縁がなくなっていた私だが。
数年前に、日曜日の朝にやっている「題名のない音楽会」というTV番組を、教材作成の仕事をしながら見ていた。
仕事に疲れて画面を見ると、どこか見覚えのある男性がトロンボーンを吹いている。

それは、Kだった。

シャープだった中学生時代に比べると恰幅が良くなっているが、目は、確かにあのKだ。
彼はSという吹奏楽団としてはトップの楽団で、日本屈指のトロンボーン奏者として活躍していたのだ。

去年、なかのゼロホールで吹奏楽団Sのコンサートが行われた。
吹奏楽のコンサートは都立杉並高校の定期演奏会以外行かない私だが、スケジュールがちょうど合ったこともあり、私は彼を見に行った。
演奏そのものについては言うまでもなく、様々な工夫がある。
最後に、観客で楽器を持ってきていた人々はステージに上ってメンバーと一緒に演奏していた。吹奏楽部の中高生らしき子たち等がステージに上がり、メンバーと演奏する。
観客へのサービスにあふれた、演奏者と観客が一体になるような素晴らしいコンサートだった。

彼は、プレーヤーとして全国で活躍するだけでなく、指導者としても全国を飛び回り音大などで指導している。
去年、フェイスブックで彼を見つけたが、多くの生徒を抱えとても熱心に後進を育てているようだ。

いつもクラスの皆を楽しませ、私に数学ができるように変わっていくきっかけを与えてくれた彼。
そんな彼だから、今、演奏で多くの人を楽しませ、多くの生徒さんの人生を良い方に変えていっているのだろう。
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Kくん、本当に有難う。