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ことのは

本がだいすきです^^

世の中が、公平であるはずがない。

 

容姿に恵まれてる人・いない人。

家柄が良い人・良くない人。

才能に恵まれている人・いない人など。

 

成績や能力を公平に評価する方法などこの世には存在しない。

成績も能力も「自分が高く評価される基準」こそが

公平であると、みな思っているから。

 

要するに「人の数だけ」公平さは存在するので、

私たちが持ち出す公平さは所詮

「自分にとって都合のよい公平さ」でしかない。

これを自覚している人は、公平などという言葉は簡単には使わない。

 

「善と悪」という概念も同様で、

自分にとって都合が良い、悪いと言えば、

明らかに「自分にとって」という主観であることがわかります。

 

 

人生は「不公平」にできている。

だから「努力は無駄で意味がない」のではなく、だからこそ、

与えられた「公平でない環境」の下で、努力することに意味がある。

 

 

そして、努力の成否は

「他人と比べて結果がよかったかどうか」ではなく、

比較対象は「努力しなかった自分」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わずか22歳にして日本の歴史を大きく変えた女性、

ベアテ・シロタ・ゴードン。

彼女がずっと訴え続けた女性の権利は、現在の日本国憲法のなかに

第24条として残されています。

 

 

ベアテの父親レオ・シロタは世界的ピアニスト。

コンサートツアーの締めくくりとして来日公演したのをきっかけに、

反ユダヤ主義の時代背景から、

家族で日本に滞在することとしました。

 

このときベアテは5歳。

活発だった彼女は、すぐに友だちをつくり3ヶ月も経たないうちに

日本語をしゃべりはじめる。

両親はドイツ語、ロシア語、フランス語、英語を使いこなしましたが、

なかなか日本語を覚えられず、ベアテは両親の通訳となります。

 

日本にも戦争の影が忍び寄り、ベアテは、アメリカへの進学を決意。

サンフランシスコの大学に留学したベアテは、成績も優秀で奨学金を

もらいながら大学に通っていましたが、両親からの仕送りがとだえたことで、自ら翻訳者として働き生活費を稼ぎながら大学生活を送り、

卒業後には陸軍の情報部で翻訳と日本語ラジオ放送の仕事に就く。

さらに2年後、ニューヨークに移り住み、

雑誌タイムの外国部で働きはじめました。

 

しかし、ここで彼女は厳しい現実を突きつけられます。

当時のタイムでは、記者になれるのは男性だけで、女性はリサーチ・アシスタントという「資料探し」の仕事にしか就けなかったのです。

6ヵ国語をあやつり、大学での成績も優秀で、メディアで働いた経験をもっている自分が、ただ女性というだけの理由で、記者になれない。

彼女は大きな疑問を感じながらも、

リサーチの仕事に全力で取り組みました。

 

太平洋戦争が終結すると、ベアテは日本に帰ることを決意します。

終戦間もない日本では、民間外国人の入国が厳しく制限されていたため、GHQの職員に応募し、兵士たちと一緒に日本に入ります。

こうしてベアテは、日本国憲法の草案をつくることになります。

 

憲法や法律の専門家ではない22歳のベアテは、6ヵ国語をあやつる語学力と、タイム時代に磨いたリサーチ能力とで、世界中の憲法をかき集め、ベアテに与えられた担当の「女性の権利」を書いていきます。

 

もともとベアテは、日本女性が置かれた立場にずっと疑問を持っていました。

アマテラス女神の崇拝や、何人もの古代の女帝、女流作家が活躍してきた歴史の中、サムライの男たちが国を支配するようになると、女性の立場はどんどん弱くなり、西洋化を図った明治憲法でも改善されずに、

戦前の女性には参政権がなかったため、投票権もなく、国会議員にもなれない。

財産は男性のものとされ、相続権も、子どもの親権もなく、自分で裁判を起こすこともできず、教育や就職の面でも差別を受け、親の命令で顔も知らない男性と結婚させられることも、あたりまえのことでした。

 

ベアテは「女(おんな)子ども」という言いまわしがいやで、

まるで大人の男性と子どもの中間に「女」がいるような違和感を覚えていて、日本の女性と子どもが幸せになったとき、日本に平和が訪れ、日本人が幸せになれるのだ、とつねづね考えていたといいます。

 

 

日本国憲法 第24条

一 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

ニ 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

 

 

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不幸せや不機嫌になることは難しくない。

ただじっと座っているだけでいい。

笑わせてくれるのを待つ王子のように。

 

幸せになるのはいつだって難しい。

幸せは、たくさんのできごとや

たくさんの人たちと絶えず戦うことである。

負けることもあるかもしれない。

克服できない障害や災難もたしかにある。

 

ただ、これ以上ないほどはっきりしているわたしたちの義務は、

自分から負けたと思う前に全力で戦うことである。

とりわけ明らかなことは、幸せになりたいという願望がなければ

幸せになることはありえないということ。

だから、自分の幸せを願い、自分でつくりださなければならない。

 

楽観主義は誓いを必要とする。

最初はどんなにおかしいと思えても、

わたしたちは幸せになると誓わなければならない。

「悲しくなるような考えは、すべて間違った考えである」と思いなさい。

こうして用心をすることは不可欠だ。

なぜなら、人はなにもしないでいると、

すぐに不幸せを当然のようにつくりだしてしまうのだから。

「退屈」がそのいい例である。

 

 

困難なことに全力をつくしている人は、まったく幸せである。

ものごとの責任を担っているかぎり人は幸せである運命にあり、

自分の過去や未来を考えている人が

完全に幸せになることはありえない。

自分自身の重みを背負ったとたんに、あらゆる道が苦難になる。

過去と未来は道の途中にある障害である。

要するに、自分のことを考えるべきではないということである。

 

絶望も、希望も、

雲が形を変えるよりも早く、人から人へ転じていく。

自分が相手から受け取るものはすべて、

自分が渡すものにかかっているのだ。

そして、よく考えよう。

希望を持ちつづけることができるのは、

人の意思の力だけだということを。

 

なぜなら希望とは、

平和や正義といった、わたしたちが望みさえすればつくりだすことが

できるはずのものに基づいているからである。

それと反対に、絶望はそこに居座って、絶望しているという自らの力によって絶望を強化しているのだ。

 

 

この世の中は、

自ら求めようとしない人には、何も与えてくれない。

 

スピノザはこう言っている。

後悔することもまた罪である、と。

 

 

 

 

 

 

「なぜ生きているのか」という問いには、

「生まれたからだ」という答えが、最も正確なのである。

 

「なぜ」に対して、何らかの「理由」、

すなわち生きているというそのこと以外の何事かがあり得ると

思うから、希望をもったり絶望したりということにもなるのだが、

生きているというそのことには、そもそもいかなる「理由」もない。

山がそこに在るのと同じである。

たんに、在るのである。

 

考えても、理由がない。

理由が見つからない、ということは偶然である。

したがって「絶対」である。

 

この、偶然的なことが絶対的であるという原点に気がついていると、

自分の人生に、言ってみると腹が据わる。

人と比較するということがなくなる。

だって、絶対なんだから。

自分の人生はこうであり、これ以外はあり得なかった。

 

 

こうわかっているなら、

あとは黙って生きるだけだ。

 

 

 

 

何かに襲われたような毎日だった。

さまざまな出来事が、公私を問わず、文字通り一気に襲ってきた。

代表者をつとめていた会社を倒産寸前まで追い込み、同じ時期に、

日々を支えてくれた妻にリンパ節に転移している癌が見つかった。

 

そんな日々の中、財務整理をしているときだった。

何か強い力に突き動かされるようにして、事務所を飛び出た。

自分でも、どこへ向かうか分からなかった。

上野の国立西洋美術館の貸切のような状態の中、

ゴッホの絵の前まできて、ようやく足が止まった。

 

絵を見る。

はじめは、豊かに花をつけた背の高い植物が認識されるが、

見つづけていると、まるで違った風景が見えてくる。

絵と私に、ある空間だけが残って、

それ以外のものはかたちを留めず、

絵を扉に、向こうの世界にはまったく異なる光景が開けていた。

 

危機は、それを認識し得ない者に忍びよる。

生活の労苦、状況の逼迫は、

人間の肉体だけでなく精神をも蝕むことがある。

魂を飢えさせることがある。

飢えると書くのは、一枚の絵によって充たされたあのときの経験が、

鮮やかに思い出されるからである。

 

美術館を出て、しばらく歩く。

目に映る木々は、内なる光景がまったく違って感じられ、

もう一つの次元が開かれた、と思った。

 

 

誰にとっても、自己は永遠の謎である。

人は誰も、まず自分によって「わかろう」とされなくてはならない。

誰もが自分によって、最初に愛されなくてはならない。

そのことを、私たちは「考える」なかで確認する。

 

「わかる」の経験において、自他の区別は消滅する。

一方「考える」とは、自己を無限にむかって開くことである。

無数の他者とつながり、自分自身を回復する営みである。

 

自分とは、

文字通り、自己を分かりつつある状態を意味する。

 

自分が自分に語りかけるとは、いったいどういうことか。

もしも、自分が自分として完結しているなら、

そこに語りかけるという行為は発生しないはずである。

すると内語は「誰に」語りかけているのだろうか。

 

 

人間とは、言葉に用いられる器である。

人間が言葉を話しているのではない。

言葉が人間によって話しているのだ。

 

生涯に一度でも、この逆転した視点から、

自分と宇宙を眺めてみるといい。

人生とは、言葉そのものなのだと、人は気がつくはずなのだ。

 

 

 

 

各国の特殊部隊と密接に連携し、世界中で共同作戦を行い、

テロ集団と戦うアメリカ陸軍特殊部隊の、ある選考試験。

 

志願者は水深4メートルのプールで立ち泳ぎを強いられる。

大勢の兵士で溢れかえるプールの中で、

指示はわずか1回のみで、質問することは一切許されない。

「ホイッスルが鳴ったら、プールの底にタッチし再び水面へ戻る」

全員が水面まで戻れば、もう一度ホイッスルが鳴る。

 

2、3分経つと、何人かの志願者がプールの脇に退き、

きちんと底にタッチできなかったり、ペースについていけなくなった

ことを申告し始め、5分後にはほぼ全員が退いた。

プールの底にタッチできなかったり、ホイッスルと同時に潜れなかったときにどうすべきかは、何も指示されていないにも関わらず、

彼らは、自らに対して不合格を言い渡したのだ。

 

この試験は、本人がギブアップしない限り不合格にはならない。

「われわれは、わざと誰もクリアできないような課題を出している。

課題をクリアできるかどうかは問題ではない。

われわれが求めているのは、不可能な課題に直面したときに、

決してあきらめない人間なんです」

 

誰からも不合格だと言われていないのに自分は不合格だと

決めつける者もいれば、周りから不合格だと言われても、

決して自らに不合格を言い渡さない者もいる。

 

自分自身があきらめない限り、

われわれは決して不合格になることはない。

プールの中で息を切らしながら必死で立ち泳ぎしている限り。

 

戦い続けること自体が「勝利」であり、

あきらめれば即「敗北」だ。

 

われわれが真に求めてやまないのは「本当の自分になること」

そのためには「かつての自分」を打破しなければならない。

 

 

地獄の真っただ中にいるなら、そのまま突き進め。

ウィンストン・チャーチル

 

 

 

 

男並みに働きたい女性労働者にとって、

「雇用機会均等法」は朗報ではない。


家に帰れば「メシ・フロ・ネル」の主婦付き男性労働者と違い、

女性労働者は家に帰っても、家事も育児もこなさなければならない、

ハンディ付きのレースである。


一歩家を出れば「単身者」のふりをできる男たちと、

「対等の」競争に参入するのは、最初から負けがこんだ勝負です。

家庭を持つことをあきらめるか、

他のだれかに(実家の母や姑)家庭責任をおしつけるか、

さもなければ、がんばってカラダをこわすのがオチだろう。


つまり「男並みの競争」とは、

もともと男に有利にできたルールのもとでの競争を意味する。

そのなかにすすんで入っていく女が、

悲壮に見えたり、あほらしく見えたりするのも、当然だろう。



それでも、労働基準法だって、雇用機会均等法だって、

天から降ってきたわけではない。

みんな、裁判などで闘争して勝ち取ってきた「権利」である。


女はすでに十分がんばってきた。

がんばって、はじめて解放がえられるとすれば、当然すぎる。

いまの社会で、女性が子供以外のところに自分の生きがいを持てる、

つまり女が自分自身の人生を生きることができるような

世の中をつくっていくことが、あたりまえの女と男の解放なのである。



学問なんて、ほとんど自分がスッキリしたいためだけの、

死ぬまでの極道である。


人生とは、死ぬまでの壮大なヒマつぶし。

どうせ同じヒマつぶしなら、豊かにつぶしたい。




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成功している人を「特別な人」と考えているうちは、

その人のようにはなれない。

どうしてこんな違いが生まれたのか、そちらに目を向けるべきだ。


才能や能力は生まれつきではない。

どんなに優秀な弁護士でも子どもの頃は漢字が書けなかっただろうし、

どんなに優秀なプログラマでもタイピングのできない時代があった。

彼らが能力を手に入れたのは、積み重ねてきたものがあるからだ。

才能とは、上達に必要な労力が人より少なくて済む分野のことをいう。


フツーの生活のなかに、何もしなくていい時がある。

そういう時に、せずにはいられないことがある。

そういうモノなら、いくらでも続けられ、いくらでも上達できる。

努力せずに、いつか、群を抜くことができるモノ。

それを仕事にすべきだ。



貨幣の使用によって、古代ギリシャは部族社会を終わらせた。

カネがなければ、給料はなく、当然、職業選択の自由もない。

日本で身分制度の解体が成功した背景にも、通貨の統一がある。

カネの存在は、本来、自由をもたらす武器である。

どんな卑しい血筋に生まれた者でも、

カネさえあれば劇場の一等席に座れる。


モノの価格がどんどん下がっている。

デフレのことではない。技術革新のおかげで、

私たちの所得に対するモノの値段はダダ下がりを続けている。

例えば米1俵の価格、物価の優等生と呼ばれる鶏卵。

これらのモノは、所得に対する相対的な価値が下落した。

同じことが、あらゆる食料品、工業製品に当てはまる。


モノの価値を測るには、

「それを手に入れるのに必要な労働時間」と考えるといいだろう。

発明されたばかりのころ、

自動車は一生かけて働いても手に入らない高級品だった。

しかし現代では、自動車がなければ私たちの生活は成り立たない。

乗り物の発達が輸送コストを引き下げ、物品のさらなる下落をもたらす。

文明が発展する限り、モノの値段は下がり続ける。



活版印刷によって、一般大衆は「個人的な経験」だけでなく、

「他人の経験」からも知識を得られるようになった。

そしてインターネットによって、一般大衆は「経験的な知識」だけでなく、

「抽象的な概念」をも得られるようになった。

インターネットは、一般大衆の知性を底上げして、

人類社会そのものを変え、人類はこれから賢くなるだろう。


では、人類は賢くなる必要があるのか?

なぜ、バカのままではいけないのだろう。


それは「自由」が、自主・自立とセットだからだ。

そして「民主主義」が、啓蒙とセットだからだ。

私たち一般大衆が賢くなければ、自由も民主主義も成立しないからだ。

かけがえのない自由は、行使しなければ失われてしまう。


自分の暮らしを、自分で立てられない人は、集団に依存して、

集団に支配されて生きるしかない。

支配されずに生きるためには、賢くなければならない。

そして民主主義は、大衆がバカなら簡単に衆愚に陥る。



日本には、大人が少ない。

自分のことで手いっぱいで、次世代のことなんて想像も及ばない。

そういう人を、子どもという。

生きた時間が長いだけでは、ヒトは大人になれない。




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分かるということは、変わることだ。


ある出来事にふれ、真に分かったとき人は、

どこかで変貌している。

変わっていないのであれば、

実は分かっていないことが露呈してしまう。


新しく知るということはないと、プラトンはいう。

彼にとって哲学とは、不断に「想起」する営みだった。


人はほとんど「分かった」と思わず過去形で口にする。

出会うべき言葉は誰もが、すでに自分の手に握りしめている。

生きるとは、自分の中にすでにあって、

見失っている言葉と出会うための道程だとも言えるかもしれない。


だがその言葉は、必ずしも言語の姿をしているとは限らない。

言語は、無尽にある言葉の一形態に過ぎない。

森羅万象の呼びかけに意味を感じることも少なくないからだ。


読むとは、記された文字を情報として取り込むことではない。

書かれた言葉は、読まれることによってコトバとなる。

コトバを媒介として、書いた者と対話することである。

さらにいえば新しいテクストを創造することである。


書くとは、コトバを通じて未知なる自己と出会うことである。

書くことに困難を感じる人は、先人のコトバを書き写すだけでもよい。

その人は、意識しないうちに文章を書き始めているだろう。

自らを真に揺るがすコトバはいつも自分から発せられる。


書くとは単なる自己表現の手段ではなく、

永遠にふれようとする試みとなり、

読むとはそれを書いた者と出会うことになるだろう。


そこに見出すコトバは、時空を超えてやってきた、

自分に送られた手紙であることを知るだろう。



すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。

きこえるものは、きこえないものにさわっている。

感じられるものは感じられないものにさわっている。

おそらく、考えられるものは、

考えられないものにさわっているだろう。


ドイツ作家 ノヴァーリス




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突出してはいけない、

失敗してはいけない、

無難な考え方に、平均的に単一になっていく世界。


ここからどう抜け出すか、

いま私たち大人の志や心意気が試されている。


私は特殊な育ち方をしているので、

血の結びつきを全く信用していない。

ずっと親になりたくないと思って育った私は、

子供を産んで育てる人生ではない、別の人生を選んだ。

今でも、一片の後悔もない。


人生において大事なことは、

自分なりのスタイルを見つけること。

仕事も結婚も趣味も出産も、

すべての決断は自分の意思。

悩んだり迷ったりしても時間をかけて答えを見いだす。


年を重ねた分だけ、人生の厚みを醸し出せる存在感。

いろんな再発見や感動は、胸を張れる人生への修行。

自らが率先して幸せにならないと、人を巻き込めはしない。


知恵や話術を磨いて世の中の役に立ち、憧れられる人間。

人生における最大の課題、老いに対して喜んで挑んでいく。

心身の健康を律する、美しく老いるための見えない努力。



憧れられる大人になることは、大人の責任。

美しいオーラを放てる、カッコいい大人。



山口智子



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