今回は「ゴッドファーザー〈最終章〉:マイケル・コルレオーネの最期」(2020年)をご紹介します。
"O grito sem som de Michael Corleone." Photo by Jean Boechat
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「最終章」はフランシス・F・コッポラ監督が「ゴッドファーザーPART III」(1990年)に新たなオープニングとエンディング、音楽を加えて再編集したディレクターズ・カット版。
「ゴッドファーザーPART III」公開30周年記念作です。
かなり遡りますが、初めて「PART III」を観たときは正直ガッカリしました。
アル・パチーノ演じるあのマイケル・コルレオーネが病に苦しんでひたすら弱々しいし、ポマードでオールバックじゃなくて短髪だったのもこれじゃない感。
「こんなマイケルは観たくない」という感じだったんですが、当時私が青年だったことが影響していたんでしょう。
「PART III」を約30年ぶりに観直したのは今から2年前。観終わって作品の印象がガラッと変わりました。
当時は私も何かと衰えを痛感していた時期でしたから、老いたマイケルの心境を察するようになってきたのかも知れないです。
映画は同じなので、私が変化したんですね。
「最終章」については「どう変わったかな?」という興味と、純粋にこの機会に「ゴッドファーザー」3部作を観直そうと思ったんですね。
今回「最終章」を観て改めて思ったのは「賛否両論の三作目もヤハリ良かった」ということ。
堅気の道を歩むと決意していた若者マイケル・コルレオーネが、愛する父親を守るためにファミリービジネスに加担。
その後、才覚を現してゴッドファーザーを襲名したかつての若者の動機は、金と権力へと変貌してゆく。
敵と裏切り者を次々粛清していき、ついに最悪の罪を犯してしまう。
そして三作目は「許されざる者」マイケルが運命に抗えず、金のために人を殺し続けて来たその罪が果たして赦されるか否か、を描いています。
「ゴッドファーザーPARTII」(1975年)
"The Godfather Part 2" Photo by Craig Duffy
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※今回はネタバレです。ご了承ください。
大方は「PART III」そのままでストーリーに変更はありません。
「PART III」と「最終章」の大きな変更点について。
「PART III」のオープニングはラスベガスの屋敷が映ります。
「PART II」のラスト、マイケルが兄フレドの死を見つめていたあの屋敷です。
時代は1979年、ニューヨーク。
マイケルが子ども達宛ての手紙を書くシーン、次にマイケルが大司教から勲章を授与され、パーティーのシーンへと続きます。
マイケルの罪の中でも最も重い罪が兄殺しでした。
「大好きなフレド伯父さん」と慕っていたマイケルの長男アンソニーはこの一件で傷つきを今も抱えています。
アンソニーはファミリーの事業に嫌悪感を抱き、マイケルの意に反して「大学を中退して歌手になる」と言います。
アンソニーがファミリービジネスを嫌悪している理由に父が伯父を殺させた件が影響していることが 流れるように分かる作りです。
「マイケルの贖罪は成されるか?」が本作のテーマですから、私は「PART III」のオープニングの方がすんなり入ったんですね。
一方「最終章」は、金銭トラブルでバチカン銀行の金に穴を空けた大司教からマイケルが6億ドルもの大金の補填を頼まれる場面から始まります。
マイケルがその見返りにバチカンが25%の株を保有する大不動産企業インモービレ社の支配権を大司教に要求する「ビジネス」のシーンです。
「PART III」で30分過ぎに流れるシーンを頭に移動したんです。
再編集によって本作のことの始まりと、マイケルが今度こそ堅気になろうと目論んでいることをクリアにしたんですね。
次にマイケルが子ども達宛ての手紙を書くシーン、そしてマイケルの勲章授与式はカットされてパーティのシーンへ、となっています。
それよりもラストシーンが気になりましたね。
「PART III」のラストは、マイケルが「Ah~‼」と絶叫した後、メアリーとダンスするマイケル、そしてケイ、アポロニアとのダンスシーンが回想されます。
そして老いたマイケルが故郷シチリアのコルレオーネ村の庭で椅子に座っている。
マイケルはサングラスをかけた後、独りのたれ死にます。
彼の死を知っているのは2匹の犬だけだった。…
"the end" Photo byTnarik Innael
source: https://flic.kr/p/wRzUt
「最終章」ではマイケルの絶叫の後、ダンスシーンの回想はメアリーのみです。
そしてマイケルがサングラスをかけたところでテロップが流れて終演。
テロップの言葉は「シチリア人が『永遠の幸せ』を願うとき、それは『永遠の命』を意味する。シチリア人はそれを忘れない」。
フランシス・コッポラ監督 は「最終章」製作について、メアリー役の演技を酷評されてスケープゴートになった娘ソフィア・コッポラに対して父親としての悲痛な思いがあった、と語っていました。
ダンスシーンをメアリーのみにしたのもソフィアにスポットライトを当てるという監督の意図だったのかも知れません。
しかし「マイケルが愛した女性たちは皆不幸になる」・「マイケルのダンスは死のダンスなんだ」ということが薄れてしまったように思いました。
(でも監督の贖罪だったとしたら、あまり言っちゃいけないのかもしれないけれども…)
孤独になったマイケルの死を描かないことで、まだまだ彼は苦しまねばならない、生き地獄を生きなければならない、ということなのでしょう。
それくらいの罪をマイケルが重ねてきた、ということなのです。
テロップの言葉を加味するなら、マイケルにとって永遠の不幸とはずっと生きること。
それがマイケルに与えられた罰なんじゃないかな…。
でも、個人的には「PART III」のマイケルがガクッと椅子から崩れ落ちる惨めな最期に敵うラストは無かったと改めて思いましたが、いかがでしょう?あくまで個人的な感想ですけども。
「ゴッドファーザー」(1972年)
"#alpacino recently survived a 75th Bday. Happy birthday man. Loved your work in the Godfather. Especially the scenes where he travels through #sicily #italy This is one of my fave #stills from that movie. A #giant amongst #actors" Photo by
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結局、マイケルの罪はいくら後悔して懺悔しようが赦されるほど軽くはなかったのです。
しかも、さいごのさいごまでマイケルは堅気になろうとしては悪の道に引き戻される。
これは彼の運命としかいいようがありません。
マイケルの運命の源とはシチリア島・コルレオーネ村で血が流されて以来、父ビンセントの代から続くコルレオーネ家の暴力の血筋だったと思います。
ビトー、マイケル共にシチリア島からアメリカを行き来しますが、どちらの地でも血の雨が降る。
業深き血が流れるマイケルが足を洗おうにも元の道に引き戻される理由でしょう。
「ゴッドファーザーPARTII」(1975年)
"The Godfather Part 2" Photo by drmvm1
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マイケルの「Ah~‼」という絶叫を観て、ビンセント、コニー、ケイはギョッとする。
あの瞬間「マイケルは贖罪も、うまくいきかけた家族の再統合も、幸せになることも叶うことはないのだ」と観る者に問答無用に理解させる衝撃的なシーンでした。
運命とは、神託のようなもの。
人がどんなに抗ってみたところで結果そうなってしまうというものが運命なのだ、と思わされます。
「ゴッドファーザー」3部作は美しい映像と音楽と共にコルレオーネ家の歴史を描いた家族劇です。
同時に「ゴッドファーザー」は、移民大国アメリカの歴史であり、フランシス・コッポラ監督が言うように、人生のすべてが詰まった叙事詩です。