今回はドン・シーゲル監督&クリント・イーストウッドの黄金コンビによる「ダーティハリー」(1971年)。
サンフランシスコの街で連続無差別狙撃事件が起き、犯人を名乗るスコルピオから10万ドルの要求が市長に届く。捜査を担当するのはハリー・キャラハン刑事(クリント・イーストウッド)。
"Dirty Harry (1971), Japanese poster" Photo by Tom Simpson
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ハリーは皆が嫌がる汚れ仕事ばかりしているから「ダーティハリー」と呼ばれています。
ハリーは孤独で人嫌い。悪を嫌悪し被害者の心情を優先させる男で、捜査は荒っぽく、ルールを無視することもしばしば。
架空の刑事とはいえ、破天荒なハリーがなぜ人気なのか?
ハリーは権力に忖度しないし、悪の誘いにも乗らない。犯罪を憎み、悪には非情。
そして彼は法律を軸に自分の厳格なルールに従っているんですね。
ハリーは見苦しい言い訳をしないし、何かあれば潔く身を引く覚悟をしている。
ハリーはアンチヒーローの代表格なんですね。
「ダーティハリー」は、70年代のアメリカという社会情勢が背景にあるんですね。
ベトナム戦争の泥沼化、ウォーターゲート事件に代表される政治の腐敗。
犯罪が増えて被害者が泣きをみる。希望を喪失して混乱した社会。
そんな時代にアンチヒーローというものが人気になるわけです。
"Dirty Harry - Go With It - Strip Club Tune" Photo by Bill Lile
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にしても「ダーティハリー」は古さを感じさせない、そういう不思議な魅力がありますね。普遍性があるんですよね。
正義とは非常に難しい概念です。
人は自分こそ正義と確信する傾向があって、自分の正義感を検証しようとはしないもの。
だから、いつの世でも正義は暴走しかねない、そういう危うさがあるんですね。
実際、ハリーの正義も危ういものがあります。
そして続編の「ダーティハリー2」では、法の目をかいくぐって私腹を肥やす輩を粛清する私刑軍団が現れてハリーと対峙します(マイケル・チミノが脚本を書いた「2」も名作ですよ)。
思うに、シリーズを通じて「正義とは何か?」という難題を突き付けてくるのが「ダーティハリー」の普遍性なんですね。