大河ドラマ「どうする家康」の織田信長(岡田准一)は“魔王”というかんじでした。
上洛を果たした信長は、1582年6月1日本能寺に有力な公家たちを集めて茶会を開き、
諸大名から奪い取った高価な茶器を誇示した。
しかし、翌朝…明智光秀の軍勢により本能寺は火に包まれる…
現在の本能寺は、“本能寺の変”の後に豊臣秀吉の施策により鴨川近くに移転されます。
秀吉は京都の町の防備のために鴨川添いに土塁(御土居)を築き、さらにその内側に寺を集めて寺内町を造りました。
敷地の広い寺は戦さのときは武士たちの宿舎にもなるからです。
堀川高校の建物の裏手に信長時代の本能寺の跡地としての石碑がありますが…
ただ、どうやらこの石碑は、本能寺の敷地の南の角っこらしい。
元本能寺町というあたり150m四方が本能寺の敷地であったとされます。
本能公園あたりが北限なのかも…
石碑のある場所から東に数百m歩くと、南蛮寺(当時のキリスト教会)跡地の看板を発見~~~
信長と謁見した宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には、“本能寺の変”についての具体的な記載がかなりあります。
また、秀吉以前に信長は明国を制圧する野望をもっていたとも書かれています。
それが信長の本心なのか、単なるうわさだったのかはわかりませんが…
信長が滞在地としてなぜ本能寺を選んだのか?
その理由として、現在の本能寺の公式サイトをみますと、
①当時の本能寺の住職が天皇の親戚であり、信長は天皇家とのつながりを築こうと考えていた。
②本能寺は広い敷地を高い塀と深い堀で囲まれていて安全であった。
③本能寺の属する法華宗本門流は、種子島にも多くの信者がいたので、本能寺は鉄砲や火薬の交易の場になっていたらしい。
この中で、特に③の鉄砲や火薬の交易のためという理由は、目が開かれる思いでした。
近年、“本能寺の変”の真相については、たくさんの説があるようで、明確なことは分かりませんが、
少しでも過去の歴史上の出来事の本質に迫ろうとする気持ちをもつことで、自らの未来の生き方や展望も開かれていくような感じがします。