
大阪科学技術センターに所属する企業の関係者が気楽に意見交換できる組織として、大阪国際サイエンスクラブ(ISCO)が結成された。本クラブは60余年の歴史をもち、長きに亘り会報を発刊してきた。
現在は、年に、4回発行している。小生、編集委員会の委員長を仰せつかっており、会員に楽しんで頂ける内容となるべく、毎号の編集に無い知恵を絞りだしている。
その編集企画の中で、生涯現役で重用されている方、100歳を目指してご活躍の方にインタビューさせて頂き、会員の皆様方の「人生の指針づくり」に生かそうとする新企画を始めることにした。ISCO事務局長の堀内さんと共々、ZOOMでお話をさせていただいた。
今年(2021年)、97歳になられた宮本さんの発する詞は、仙人の詞になぞらえるのではないかと思われるほど深く、実に心に響く話題の連続であった。
食事は、好き嫌いなく常に感謝を込めて頂くこと、百薬の長たるお酒は生来の下戸にて飲まず。見逃してはいけない点は、常に、10年先、20年先をみて生きること!で、90歳からサクソホンを始められたのには驚きました。
常に、求めるものごとをもち、求められる存在たれ!という信念が、長寿の秘訣とお見受けしました。自らの健康診断をルーチンとし、これまで数十年間欠かさず、毎朝晩、血圧を測り記録し、生活に役立て、日々の出来事を日記に記す。日記には「今日があって、明日がある!」。
宮本さんの言葉には含蓄があり、1時間を超えるインタビューも瞬く間に過ぎてしまいました。
インタビューの打ち切りを惜しみつつ、明日に向かって生きる元気さを頂くことができたことに感謝を申し上げ、この貴重な内容を本ブログに掲載することにしました。
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【家族構成と日々の生活】
私は、大正12年9月生まれで、97歳になります。家内は昭和4年10月生まれで91歳です。娘2人はそれぞれ結婚して別居しており、今は家内と二人で暮らしていますが、二人ともとても健康で、家内もいまだに毎水曜日の朝8時過ぎのバスに乗って寝屋川まで裁縫を習いに行っております。もう60年も洋裁を続けておりますが、続けるということを私たちは大事にしています。
私たちは、毎朝晩、血圧をずっと測っています。これも60年間ずっと2人で、毎日記録しています。最近では、コロナが始まった時分から血中酸素濃度というのを2人で測っています。これで自分の健康状態を知ろうということですね。ちょうど私の家のお向かいに病院の先生の自宅があり、とても親しくして頂いているので、転宅以来50年、毎月欠かさず健診に行くようにしています。非常に環境に恵まれていると思っています。
現在は、株式会社東進で顧問をやらせて頂いておりますが、この会社に74歳でお世話になるようになってから、気がついたらもう23年も勤務したことになります。会長の大和谷さんとは長い付き合いになりましたが、お互いに心の通うお付き合いをさせて頂いておりまして、会社のことだけではなく、ご家庭のことにまで色々と口出しさせて頂いております。

【祖母に育てられた幼年時代】
私の本籍地は、愛媛県西宇和郡三崎村というところです。私の父親は大阪で結婚し、22歳のときに結核を患いました。その時分は結核というのは死の病と恐れられていたので、田舎へ帰り、村の外れに家を建て、療養生活をしておりました。昭和4年頃、父親が体調を取戻したので、母親の姉の家が大阪でメリヤスの卸業を営んでいたこともあって、メリヤス生地の編立業をやろうということになり、大阪府布施市長堂というところで事業を始めました。生産した商品は、母親の姉の嫁ぎ先に卸すというわけです。
私は五男一女の6人兄弟の次男ですが、うちの祖母は海運業をやっており、次男の私を「わしの後継ぎにするから、この子はここに置いていけ」ということで、私は小学2年生のときから祖母に育てられました。私の家には文政9年頃の「家訓」が残っており、祖母はその家訓に基づいて私を教育したのだと思います。祖母はものすごく厳しい人で、とにかく毎日のように殴られながら、「男は強うなれ、男というものは命かけて海に出るんや」と言って、非常に厳しい躾を受けながら小学校時代を過ごしました。
私の故郷の愛媛県の三崎というところは、四国の西北端の細長く突き出た半島の先の方にあります。昔は恐らく海賊がいた所で、我が家も海賊の末裔ではないかと思ったりしております。というのは、昔の海運業というのは海に慣れた人でないとできません。そんな家系だったので、非常に厳しく、殴られながら育てられたのだと思います。
三崎は細長い半島という地形から、米が一切取れません。米半分、麦半分というような食事生活をしておりました。祖母は年に1回、朝鮮半島の最南端にある木浦というところへ渡って、米を買い付けていました。港の近所の農家へ米の前金を渡しておいて、この田んぼでできた米の80%はうちに売るというような約束をし、そして米の取れる頃にまた朝鮮へ渡って残金を支払って船に積んで三崎の米屋さんに卸す、という商売をやっていました。また、近江商人との関係が昔からあり、近江商人の荷物を瀬戸内海から九州へ向けて運ぶという仕事もしておりました。炭鉱用の坑木(地盤が崩れないようにする支持材)の専用船も持っているなど、手広く海運業をやっておりました。祖母は28歳の時に夫を亡くし、後家になっても海運業に従事していたという、非常に男勝りな人でした。明治の初め頃は、生涯村から出たことがないというような人もいる時分に、大阪や九州、朝鮮半島にまで飛び回っていたという人で、「韋駄天のおナツ」という異名をとるぐらい、業界では有名な人だったようです。
祖母には小学4年生から日記を毎日書けと言われました。「日記を一生書こうと思ったら続かない。夕べも書いたから今晩も書こうと考えて、それを毎日続けたら100年でも続くはずや」というような教育を受けました。また、「商人は今のことを考えるだけじゃいかん、20年先を考えて、現在どうすべきかを考えなさい」ということも教えられました。時代の先取りという言葉はなかったと思いますが、時代の先取りについて寺子屋しか出ていない人に教えられたのはすごいことだと思います。祖母にこの二つのことを徹底的に教えられたことで、私の子供時分の人間形成がされたように思います。

【中学から大学時代】
昔は小学校6年間、高等小学校2年間を終えて就職するというのが一般的でした。ところが、私の祖母は、自分が教育を受けていなくて苦労したからか、私を中学校(当時は旧制の5年制)にやってくれて、宇和島の中学校で下宿生活を始めることになりました。祖母は、「これまでは子供やから親の責任やけれども、中学へ行き出したら自分の責任で何でもやらないかん」と言って、ころっと怒らなくなり、小遣いも過分に持たせてくれました。本を読めば賢くなるという信念があったようで、大阪や東京などへ行った際には、本屋に寄って本をたくさん買ってきて、私に「本を読め、本を読め」といつも言っていました。そのことも私は癖になり、成人してからも毎月1万円ぐらいは買おうと、家の中が一杯になるほど本を買っていました。そのようなことも、祖母に教えられたことの一つです。
祖母がたまたま九州へ行った時に、大分の高等商業の先生と船の中で一緒になり、「うちの息子は今、中学2年生で、勉強はできないけれども正義感だけは強いんや」というような話をしていたら、船から下りるときに河上肇さんの『貧乏物語』という本を下さったそうです。私に読んでみなさいと言って渡されましたが、いわゆる経済書ですから、とても難解です。ところが、我慢して読んでいると次第に分かるようになり、そのうちにマルクス経済学にはまってきて、経済学の大学へ行きたいと思うようになり、日本大学へ入りました。2年間の予科を終えて学部へ入った頃、学徒出陣で兵隊に行くことになり、佐世保海兵団(佐世保鎮守府)へ入りました。昭和18年12月のことでした。
【第二次世界大戦】
海軍では、士官候補生の海軍兵学校の生徒は250人ぐらいしかおらず、士官が不足していました。そこで、海軍予備学生といって、大学や大学予科を卒業した人は6か月の教育で少尉になるという制度があり、習志野砲術学校というところで教育を受けました。卒業の時、背の順に並べられて、この列は台湾へ、この列はフィリピンへ、この列は沖縄へ行け、というように分けられて、たまたま私たちは台湾に行きましたが、他の班でフィリピンへ行った者は全員戦死、沖縄でも結局殆ど戦死してしまいました。たまたま台湾へ行った私たち10人ほどは、誰も傷つかずに元気で帰ってきたのですが、人間にはやはり運というのがあるのかなと思いますね。
そんな私も危険な目に遭ったことがあります。台湾にいた時、マニラで作戦遂行している部隊から、「秋月という駆逐艦の副長が盲腸炎で動けなくなったから、台湾の海兵団から誰か1人くれ」ということになり、軍隊長から「おまえ、ちょっと代わりにマニラまで行ってくれ」と言われて、嫌とも言えず「軍人の本懐かと思います!」と言って交代に行きました。この部隊は小沢艦隊といって、瑞鳳、瑞鶴、千代田、千歳という航空母艦と、秋月、霜月などの駆逐艦で艦隊を構成していたのですが、これはいわゆるおとり部隊で、マニラ湾の近くまで行って飛行機を飛ばして、湾に爆弾を落とす、それに応じてアメリカ軍が反撃してくれば、さっと逃げて、我々が離れたところでやられている間に、日本軍の他の部隊がマニラ湾へ突っ込むというような作戦でした。戦後色々と物議を醸した作戦でしたが、敵の飛行機が何百機と我々の艦隊の上へ飛んで来ます。私たちは艦長の横にいた時に、ぐわーんという音がしたら、もう瞬間に船が2つに割れてしまって、命からがら海に飛び込みました。流れてくる材木を集めていかだを作り、弱った者を乗せてやり、交代で海に下りていかだにつかまって8時間ほど漂流していると、二式大艇という90人乗りほどの船みたいな飛行艇が迎えにきてくれて、それに助けられて台中へ帰ってきました。私たちは勇敢な戦士たちとして迎えてくれるのかと思ったら、台中の山奥へ連れていかれ、ギルバートで負けた人、アリューシャンで負けた人、ガダルカナルで負けた人など、敗戦の軍人ばかりが2,000人ぐらいおり、全く村の人達と遮断された没交渉の中で1年半ぐらい過ごし、終戦になって帰ってきたというようなことです。
昭和23年に両親がいる布施へ帰ってくると、まだ家も焼けずに残っておりましたから、そこに戻りました。軍隊時分はあっという間に過ぎたような感じです。

【政治運動】
少し時代は戻りますが、昭和16年頃、共産党の佐野学、鍋山貞親が獄中で転向宣言したという歴史的な出来事がありましたが、佐野学の甥の佐野博さんが佐野学より早く出獄したということを聞き、学生時分に東京まで会いに行きました。佐野博さんは、ソ連の指導を受けての共産主義運動は間違いだと唱え、一国社会主義に転向した人です。その時から佐野博さんとは仲よくしておりましたが、昭和23年に、「労農前衛党というのをつくるから、宮本君来てくれんか」と言われ、私も政治運動に興味を持っておりましたので、佐野学一門の政治運動に参加しました。戦後昭和23年当時の写真がここにありますが、私は宣伝部長として祭り上げられていました。勉強をする上ではそう感じませんでしたが、共産党や社会主義と言えば危険視されて、非常に警戒されていたようです。しばらくそんな政治活動を続けていましたが、政治運動というのはお金がかかるもので、その時代は食べる物もない時代で寄附も集まらず、昭和26年に党の運営が行き詰まって解党し、私は両親の住む東大阪へ帰りました。

【仏門から兼松へ、そしてアディダスとの出会い】
予備学生の頃仲良くしていた同郷の友人が、堺の南宗寺というお坊さんを養成する道場のようなお寺によく行っており、ある時私のところへ来て、「宮本君、そんなやけくそみたいなことをしておらずにお寺へ来て座ってみたらどうか」と言って誘うわけです。最初は渋ったのですが、あまり熱心に言うものですから、お寺へ行くことになり、3年間ほど、おやじの里へ帰ったり、またお寺へ行ったりしておりました。
寺のお坊さんは方丈さんという人です。方丈とは1丈四方の部屋にいる人で、禅宗は質素を宗する、老師様は方丈にと、面白いことを言う人で、公案(禅問答)の時に、隻手の拍手が聞こえるか聞こえないかと問うわけです。そんなもの聞こえるはずがないと答えると、分かるまで座っとけと言って、その理由を教えてくれません。そんなことが毎日続いて、今度行ったら聞こえたと言おうと思ってそう言うと、「おまえら狂ってる」と、訳の分からんことばかり言うわけです。
こんなことをしていてはいかんと思い、両親もやいやい言うので、結婚することにしました。お寺へ行って、「もうやめる。もう結婚しようと思うとる」、「結婚したら、おまえ、葬式坊主にしかなれへんぞ」、「いや、わしは坊主になる気はないんや」と言って、けんか別れしたみたいになりましたが、結局そのお坊さんとはずっと交流があって、お坊さんが死ぬまで面倒を見させて頂きました。
田舎へ帰ると、祖母が「これからはこんな田舎で船乗りするような時代と違う、佐野学さんのところへ行ってもええし、商売を考えてもよろしい。これからは世界と商売する時代やから、商社へ行ってみたらどうか」と言うわけです。たまたまそのときに新聞で兼松の求人広告を見て応募すると、なぜか合格して兼松で働くことになりました。
兼松では、繊維部のスポーツ用品課というところに配属になりました。ある時、東大のサッカーの名選手で、後に日本サッカー協会会長やIOCの委員になった岡野俊一郎さんが我が社に来て、「ドイツにアディダスというスポーツ・メーカーがあるが、そこの靴を輸入してもらえないか」と言ってきました。その依頼を受けてドイツのアディダス社に行くと、当時のアディダスというのは従業員が50人ぐらいの、社長がハンマーで靴を叩いて作っているような会社です。ただ、日本では革を鋲で留めてサッカー靴を造っていた時代に、プラスチックで一体の靴をつくっており、この靴は絶対スパイクが取れない、すばらしい靴だということで、契約して帰ってきました。ところが、当時、日本の靴が3,500円ぐらいの時に、1万5,000円ほどで売らなければならず、誰も相手にしてくれません。販路を獲得するために地方の靴屋さんを回ったりして苦労しましたが、8年ほど殆ど売れませんでした。そのような時、アディダスのかばんを売り出したところ大当たりして、100万個作ってもまだ足りないぐらい売れました。そうすると、徐々に靴も売れるようになってきて、日本の靴の値段も上がって価格で勝負できるようになると益々売れるようになり、一時は品薄で手に入れにくいほど売れに売れました。今はアディダスという会社はフランスの実業家に経営権が移って、ブランドを売る会社のようになっています。日本ではアシックスなどが良い靴を作るようになって、世界に遜色ないようになってきましたね。時代は変わりゆくものです。
私は、こんなブローカーみたいな、人のものを売るだけじゃなくて、やはり経済というのは作ることから始めなければだめだと考えて、色々と商品開発もし、それらのものを量販店で売ろうということを考えました。
アメリカでは量販店が増えてきて、日本の小売店も徐々に量販店に代わるようになってきた頃です。東レに平岡真治さんいう人がいて、ちょうどアメリカの大学でマーケティングを勉強して帰ってきたところで、これは面白いと思って、一緒に勉強させてもらいました。日本にもニチイ、ダイエー、岡田屋(イオン)という量販店が出てきた頃で、そういう量販店の人も勉強したいということになり、アメリカのシアーズなどの人を招待して勉強するようになりました。私も一緒について行くうちに、ニチイやダイエー、岡田屋とも心安くなり、量販店にも頭を突っ込むようになりました。あまり真面目な社員ではなかったですが、常に新しいことに挑戦していました。
時代というのはそのように移り変わるので、やはり20年先を見越すことが大事です。業種は変えられないけれども業態は変えられるという話をよくします。私は、そういう時代が来るということを、もう20年も前から新聞に論文を出したりしていました。
兼松を定年退職した頃、量販店が全盛になり、兼松で量販店委員会というのを作ることになって、もう一度顧問として帰ってくれということになりました。私が61歳の時です。さらに、アディダスの代理店と私が古い付き合いになるものですから、そのお手伝いもしておりました。
【東進への転身】
74歳の時、もうそろそろ潮時かなと思って引退しましたが、今度は現在お世話になっているタオルメーカーの東進㈱の大和谷社長に頼まれて、お手伝いをするようになりました。昔はタオルを香典返しにすることが多かったのですが、葬式が個人葬になり、香典返しが不要になってくると、地方問屋はどんどん潰れてゆき、東進さんも悩んでおられました。そのときに私は、業種は変えられないけれども業態を変えないといけない、東進は小さい会社だけれども、20年先には得意先を全部一流の会社にしようと進言し、苦労して販売先を開拓しました。阪神タイガースの応援で風船を飛ばすように、東進もタオル業界から応援グッズに販路を方針転換、タオルは拭くものではなくて振るものだと、業態を変換しました。SMAPのコンサートなんかにはものすごい数の人が来るんですよ。その人たちに振ってもらおうと、新しい販路を開拓しました。今、20年経って、販売先も変わってきています。また新しい業態改革をしようと現社長も頑張っており、順調に推移していると思います。

(前列左から5人目が宮本さん、その右隣が大和谷会長)
【食べることや健康について考えること】
食べることも大事だと思っています。健康で活力があれば、食べ物を体が求めます。私も昔は野菜をあまり食べずに肉ばっかり食べていたのが、最近は生の野菜が好きになり、肉類がだんだん減ってきました。牛肉が好きだったのが、最近豚や魚になってきたというように、そのときの体の調子で欲しいものが変わってきます。体が要求するものを食べるのが一番健康に良いのだと思っています。
楽隠居したいと思ったらいかんと思っています。いくつになっても、活力が無くなったらいけません。一年一年人間は年を取るが、老化はしない。好奇心を失った瞬間に老化が始まる、といつも言っています。これは私の持論です。
実は、29歳で総入れ歯にしたんです。昔、米軍が日本へ進駐してきた時に、歯槽膿漏になると膿がお腹へ入っていくから良くないということを言っていたので、全部抜いてしまって入れ歯にしました。この入れ歯、取ろうと思っても外れないぐらい、ぴたっと合ってるんですよ。
体重も毎日記録していますが、若い時分からほとんど変わりません。
酒もたばこもやりません。酒は、体質的に受けつけないので飲みませんでしたが、90歳を過ぎた頃に、人生で出来ないことがあったら困ると思って、ちょっと練習したのですが、2回ほど悪酔いしたら、あれほどしんどいものはないですから、諦めました。
【趣味について、そして結び】
音楽をやろうと思って、90歳からサクソフォンを始めました。2年ほど個人レッスンで習って、大体何でも吹けるようになったと思ったら、心筋梗塞を起こしてしまいました。ジャズというのは息が切れてもまだ吹かないかんから、ちょっと厳しいのと違うかと医者に言われて、今はやめておりますが。

趣味とは言えないかもしれませんが、小学校4年生から現在まで、毎日欠かさず日記をつけています。祖母からとにかく日記というのは続けないといけないと教育されましたから。気がついたら現在まで続いています。
私は、かつて商店や色々な業種の人を集めて、時代が変わりゆくということの勉強会をやっておりました。貴金属屋からレストランから、色々な業種の人が集まってくるので、様々な情報が得られて、私自身の仕事にも大いに役立ちました。40数年間、1回も休まずに、第3金曜日に会議室を借りて勉強会を続けていました。続けることが一番大事の一例です。その中で、80歳を過ぎた頃、「これからの余生は先人の方々の築かれた伝統と歴史を後世の皆さんに語り続けていくことが、老いていく我々の残された使命ではないかという結論に達し、21世紀の金曜会と命名し、後進に語り尽くそうと思っております」と書きました。幕末の儒学者 佐藤一斎は「少(わか)くして学べば壮にして成すことあり、壮にして学べば老いて衰えず、老いて学べば死して朽ちず」という名言を残しています。別に偉くなろうとかいうことよりも、やはり人間死して朽ちないような、「あんな人いてたなあ」と言われるようになれればありがたいと思っています。