おはようございます。
心と身体をつなぐカウンセリングセラピスト
つぎたにあきです。
このあいだ、友達と京都の町屋でお昼を食べながら
《最近、自分はいままでいろんなことから「逃げてきた」のかもしれないなあ、と、時々考えることがあるんですよー》
と、そういうはなしを聞いた。
《にげる》ってなんだろうなあ。 と、自分もふくめ考えてみた。
たとえば、
長年やってきたお店をやめたのは、
ありとあらゆる要素や気持ちや状況が重なり合った結果であって、
とても大雑把にいえば、あたらしくやりたいことが見つかったから。といういわゆる《前向きな理由》もあるが、正直なところ、《逃げた》という部分だって、もちろんある。
ただその《逃げた》という部分が、いまの自分にとって重荷や後悔になっていないのは、
体や気持ちに人並みの日々の変化はありつつも、なんとなくは平凡に(つまり体調普通、機嫌も普通に)過ごせているからではないか。
とおもった。
過去のある一つの出来事について考えるとき、
ひとの判断は、今現在の状況や気分によって、ときには体調によって、ころころと変わるもの。
あるときには、《あれでよかったんだ!》と思い、
あるときには、《あれでよかったんだろうか?》と自分の選択を後悔する。
過去の出来事を変える。
過去のある出来事を、重荷や後悔にするのではなく、
あれでよかったんだ! と思える出来事に変えるには、
いまの体と気持ちの機嫌をとるのが近道なんじゃなかろうか。と思っている。
絶好調!でなく、しんどくない平凡な状態に保つ。
あんがいこういうところを整えるだけで、ひとの気分と判断はころっと変わったりすることがある。
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それに、
もし《逃げた》としても、べつにええやん、ともおもっている。
なんでも真正面から立ち向かうことや、最後まであきらめずにやり遂げることだけが、成長や力を蓄える糧ではないとも思うから。
《逃げる》っていうのにも、勇気と技術とタイミングが要るものだから。
自分の体や気持ちに、いちばん負担をかけるのは、どちらか一方のやり方や考え方しかできないことだとおもう。
逃げるも逃げないも、どっちも臨機応変にできたら、ええよね。
さて、
今日もよい一日を!
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