みなさまこんにちは。
私は元気です。ついに令和になりましたね。
令和になったからと言って大きく変わるという気は全くしませんが、のんびりと生きて生きたいものですね。
とりあえずの目標は部屋にある本を全部読むこととしましょう。半分程度の本は読みたくて買ったまま置いてあるというのが現状なので。
というわけで、今回のテーマは「コンテンツを楽しむ」ということということで始めて行こうかと思います。
ちょっと堅苦しい感じになってしまっていますけど、少し砕けた言葉にすると、日々する遊びとか自体を楽しめていますか?という話です。案外コンテンツの本質を楽しめていないことも多いんじゃないかなと思ってテーマを選びました。
私が今回このテーマにしようと思ったきっかけは先日散歩行った時でした。
何も考えずに散歩することで頭が整理されて結局考えが深まることがあって結構好きなんですよね。この境地にたどり着くまで21年かかったわけですが。
その散歩中に、小学生が鬼ごっこをしているのを発見しました。そこで鬼ごっこについて少々思いを馳せていたというわけです。昔は鬼ごっこはかなり嫌いな遊びだったなーって。それでもやってたなーって思っていました。それについて考察していこうと思います。
鬼ごっこ自体はおそらくみなさま一回はやったことがある、少なくとも耳にしたことはあると思います。
私も幼稚園児、小学生の頃はよくしていました。嫌いでしたけどね。
何で嫌いなのかというと露骨に身体能力が影響してくるからです。簡単にいうと、僕は小学校の頃からデブで足が遅かったから勝てなかったということです。
正直な感想を述べると、鬼ごっこは遊び自体を見ると欠陥のあるものだと思います。身体能力の影響が非常に強く、下克上がなかなか起きない構造だからです。
それでも、私を含め多くの子どもは鬼ごっこをすると思います。それはなぜなのでしょうか。
まず第一に非常にシンプルなルールであることがあると思います。基本的に場所も時間も選びません。それにルールを把握することも非常に簡単です。
次に私がさっき指摘した本質に気づくほどの子どもが少ないこともあると思います。
そして、子どもたちは大人と比較した時に仲間意識が非常に強いと思います。それはおそらく友達等の仲間意識、幼稚園や小学校、あるいはクラスや友達等の狭いコミュニティでの所属に対する経験がないために無意識のうちに求めてしまう。結果として断れないということもあると考えられます。
最後に、これが私は一番大きな理由だと思いますが、結局鬼ごっこを媒体として友達一緒に遊んだり同じ時間を共有することを楽しんでいるのではないかと思います。
私なりに4つ理由を挙げましたが、結局鬼ごっこという遊びの本質に触れているものは最初のものだけです。要するに鬼ごっこそのものを楽しんでいるわけではないのではないかと思います。
このようにコンテンツの本質を楽しんでいるのではなく、社会性等を巻き込んで総合的に楽しんでいる事象は案外多いのではないかと思うという話です。
ここまで、鬼ごっこを例に挙げて話を進めていました。要するにコンテンツそのものを楽しんでいることは案外少ないのではないかと思うという話です。そして、私自身もそうだと思います。
ここからは私自身の話になりますが、昔はゲームを結構やっていました。据え置きのゲームからゲームセンター、最近ではソーシャルゲームも手を出してきました。しかし、今はほとんどしていません。唯一結構しているのはパソコンでするノベルゲームだけです。
結局、私にとっては据え置きのゲームは友達と通話とか相談しながらすることが好きだった。もっと厳しい表現をすると、ゲームをあてにして友達とはなすことが好きだったんだと思います。
ゲームセンターのゲーム、太鼓の達人等のゲームをしてきましたが、それも結局ゲームセンターで知り合った友達と遊ぶことが面白かったんだと思います。それも界隈での共通認識だったと思います。私も日帰り旅行など色々しました。
ソーシャルゲームは最近までやってましたけど、結局のところ話のネタだったのかなと思います。まあソーシャルゲームの利点はその辺りでもあると思います。
ソーシャルゲームの利点は敷居の低さ、スマホはほぼ全員持っていることによる共通の話題等になれること、基本無料なことがメインの強みでしょう。
現在ではいわゆるレッドオーシャンとして見られることが多いと思いますし、私もそう思います。よっぽどマーケティング戦略がうまいか質の高いものでないと難しいと思います。それかSNSでバズるかですね。
ちなみに一気に流行することをバズるって言ったりしますが、英語だとgo viralっていうらしいです。ウイルスが一気に広がるようなイメージらしいですね。
余談が過ぎました。
私の場合は今までやってきた趣味とかは結局それ自体ではなく、それを介して友達と遊んだりすることが好きだったということですね。
こうした傾向はSNSの波及とも緊密な関係にあると思います。
最初は楽しんだものを共有するためにtwitterやinstagramなどのSNSに写真をアップすることが多かったけれど、最近は逆に写真をアップするために出かけたりすることも多くなってきているのかなと感じます。
私の好きな曲に「シナスタジアの透明な夏」という曲があります。よければYoutubeかニコニコ動画で検索をかけてください。
そもそも曲調や世界観が大好きな曲です。その中で好きな一節があります。「写真を撮るのは嫌いだ。撮ってる今を見逃してしまうから。」少し昔の曲ですが、私自身そう思いますし、作者はみんな写真を取ること自体に熱狂してしまうことを予期していたのか憂いていたのかと思います。
写真を取ること自体は最近は二つに大別できると思うんですよね。
一つは思い出として残しておくために写真を取ること。もう一つは共有するために写真を取ることです。私は後者はちょっともったいないかなと思ったりします。余談ですが。
結局人間は社会性に囚われた生き物なんだなーって思います。結局どのようなコンテンツがあっても結局他人と繋がることがメインになってしまうのかと。
そして、どのようなデバイス、携帯やスマホ、パソコンなどなどが生み出されても行き着く先は社会性なのかと。スマホは便利すぎるが故に人間の本質を軽々に表現してしまうような気がしますね。
私が今コンテンツそのものを楽しんでるなーって実感しているのは、音楽聞くことと読書とボルダリングぐらいでしょうか。
そういった意味では、コンテンツそのものを楽しんでいるものがその人にとっての趣味なのかもしれませんね。
今回はこの辺にしようかと思います。
ちょっと文章としてまとまりを欠いてしまった気がします。次回からは気をつけるということでまたよろしくお願いします。
記事のネタはストックがあるのでのんびり頑張ります。