「大乗仏教」と「上座部仏教」の違いはずばり
「カルマ・輪廻重視」と「無常重視」


「大乗仏教」の経文には自力での涅槃方法は何も記載しておらず、代わりに他力での涅槃の時を待つことが指示されている。

その、待っている間の過ごし方が羅列されているのだ。

涅槃するまでの間には何度も輪廻することが想定されるのでその間いかにして過ごすかの指南が書かれているのである。

「こうやって過ごした方がみんなまんべんなく平和に暮らせますよ」と言いたげな事が書かれている。

その「涅槃」する時とは56億7千万年後とされる。


これに対峙しているのが「上座部仏教」である。
大乗仏教からは「小乗仏教」呼ばれたりしている。
(「小乗」とは少ししか救わないと言う意味である。釈迦の生前の教団内では教えに従わない弟子は即破門されていたという。より多くの者に涅槃方法を伝える為に、反論してくる者は無視して話を素直に聞いてくれる者にだけ教えるスタイルを貫いていたと思われる。そして破門された者は逆恨みするので良からぬ噂をばらまく)

こちらは自力で涅槃する事を主軸においている。
こちらの仏教徒は来世については何も興味を持たない。

「涅槃」とは自力でしか行うことができない。
と言うのがこの「上座部仏教」の考え方である。

仮に56億7千万年後にオートマチック涅槃できるのだとしても
「無常」の悲しさを理解した者は自力での涅槃を速攻で行うでしょう。

涅槃とは高僧が他者の魂を念力でどうこうするような事ではなく、言葉などを介し涅槃の必要性を伝え、涅槃するにはどうするかを伝え、伝えられた者は自力でその方法を実践して初めて涅槃できるのである。

よって、言葉を仲介できない生き物は涅槃させることができない。

釈迦は人しか救う事ができない方法しか言い残していない。


釈迦は生前に托鉢(たくはつ:他人に食べ物を恵んでもらって食べる行為)をしていたのは、まさにこれです。

釈迦は人生の中盤で「涅槃」を発明(?発見?)したが、そのまま涅槃せずにより多くの者に「涅槃」のことを教えてあげようとして布教活動の旅に出る。

涅槃のことを人に伝えるには言葉を介して伝えなければならない。
(紙に書いて言い残しても良いかもしれないけど、おそらくそれだと今現在まで伝え残されていたかどうか怪しい。やはり身振り手振りを交えで伝えた方が良いと判断したのだろう。)

そのためにはまだ涅槃できない。
生きなければならない。
しかし、働いて食べ物を得ていては布教活動できない。
そうだ!方便を用いて食べ物を恵んでもらおう!(多分こんな感じで?)

こうして托鉢しながら信者を獲得しつつ布教の旅に出たのでしょう。

(「托鉢は修行僧が相手に善行を促すため」などというのは釈迦の教えとは合致していない。)


そして強固な信者を獲得した後、釈迦は「もう、いいか・・・」と思って毒キノコを自分で食べたのではないか?

涅槃する術を獲得したとしても死に方によっては涅槃できない場合がある。

釈迦は涅槃を成功させる為に即死しない程度の毒キノコを食べて信者に見守られながら静かに涅槃して逝ったのだと思います。

そして釈迦の布教活動は大方失敗?したのかほとんど実践してる人は居ませんが、今に至るまで涅槃方法は伝え残されている。

                          ©西田夕夏 2021.1.25.