◇ 人類の豊かな人生の中で通り過ぎていく無数の家畜たち。
その家畜にも煩悩があるという不都合がなぜ仕組まれているのでしょう。

仏教徒がこの世の仕組みについて考えれば、当然出てくる疑問である。
この世はヒトが中心なのか、そうではないのか。
ヒトが中心であれば家畜はヒトが成長し、発展するための道具という存在である。
家畜が感じる苦痛はヒトに影響を与えることもないのである。
家畜に煩悩があるように見えるのも気の所為ということになる。

だがそのことについて仏教は答えない。
「釈迦は生前肉を食べてたから食べても仏教的には問題ない」と思っている人は多いと思う。
が、釈迦はその一生が終わった後、涅槃する予定の人だったので特に気にもしなかったのである。
どういうことかと言うと、涅槃したらカルマはチャラになるから気にする必要はなかった。
(気にしてなかったは言いすぎかもしれない。哀れな存在と思っていたかもしれない。ただ釈迦は救える存在は可能な限り救ってあげようと考えていた。だが、家畜は救えない存在に数えられた。)
釈迦のような涅槃即決型の人々にとっては修行のために生きなければならなかった。
今生で決着をつけたいと考えていた。
そのために托鉢で得た働かずに得た食べ物は何でも食べた。
死んだら涅槃するための修行内容を実践できませんのでとにかく生きるために何でも食べたのである。
(ちなみに植物にも煩悩があるので肉食べなかったからセーフとか言う話でもないのです。)


だけど大乗仏教徒が涅槃するのは56億7千万年後である。まだ来世が存在する。
しかし大乗仏教ではヒトが生きるためなら家畜や魚介類の殺生はカウントされない事になっている。(ように私には見える。植物に至っては煩悩は存在しないことになっている。)
そう考えられれば楽だけど。

家畜達はその輪廻地獄から自力で這い出すことができない存在である。(釈迦が言い残した涅槃方法を知ることはないだろうから。)

ただただその状況が不都合だと感じ続けている。
家畜や魚介類が人類が消えればこの不都合な状況が消えると知ることもないだろうが、その状況がない状況に常に憧れを抱いている。
コレが遠因となって人類に何らかの影響が起きると私は予測している。
この世はこの世に存在する煩悩の調和によって形成されている。
そして一個の個体の一つの行動は複数に相対的な影響を及ぼす。
例えば個体Aのある行動が個体Bには迷惑な出来事で個体Cにとっては歓迎される出来事となった。など。個体Aはヒト、個体Bはヒトに狩られる鹿、個体Cは鹿に表皮を食べられている木。
なので複雑に事が絡み合うから一概には言えないが、やり過ぎればヒトの食材からヒトへの反射はあるだろうと予測する。(それにヒトが調和に貢献しているようには見えない。)

◇ 畜産、漁業関係者の人々が他の職業のヒトよりも早死や悲惨な目にあっている。
などという事実はない。
家畜や魚にも煩悩があるのならまっさきにその職業の人がダメージを負うのではないかと予測しがちだが事実はそうではない。つまりカルマは「転売可能」ということを物語っている。

ではどこにそのカルマは流れていくのかと言うと畜産、漁業関係者を必要とした人々へ分散されて流れていく。

家畜や魚介類を食べたヒトの魂は牛や豚や魚の肉体に輪廻転生することはない。
(と私は予想していますが実際に確認したことではありません。)

ヒトはヒトの考えで生きているので牛や豚の肉体には宿らない。
因果応報によって人は家畜を食べたら家畜になって食べられることにはならない。
食べられる存在から都合の悪い存在という位置づけとなり、何らかの要因で減る。
減るけど絶滅はしない。
その存在がないと食物連鎖のピラミッドは形成されなくなる。
ただ多すぎると都合が悪いだけ。
これが食物連鎖を支えているのだろう。
自然界は食物連鎖のピラミッドが保たれている。
どの個体も「食物連鎖のピラミッドを形成したい」などと考えているようには思えないが自然と食物連鎖のピラミッドが形成されている。
自然の摂理は煩悩が形成していると私は考える。
畜産や魚介の養殖を量産すれば解決という話でなない。(繰り返しになるけどそれらにも煩悩があるからである。)

そして輪廻は止まらずそれがこの地上で延々と繰り返されている。
「この世にはもううんざり」だなんて思っていたとしても煩悩がある限り、再び輪廻します。
輪廻して初めて前世のカルマが機能しだすのです。

現状、人間のいる世界の食物連鎖のピラミッドの形は四角柱、又は台形に近いので人類の上に何者かが降臨するか自滅的に減るかするのではないかと心配になってくる。
人類の上に来るとしたらそれはA.Iではないかと私は予想しています。(異星人もありかも。)

その2択以外の3つ目の選択肢として畜産の飼育法や屠殺法に気を使うのをオススメしたい。
税金を投入するなどして苦痛のない飼育と屠殺をしてくと少しはマシな人社会が形成されるだろう。

それがなぜ有効かと言うと、家畜や魚介類にも煩悩があることがその理由。
家畜や魚介類、そして植物にも煩悩がある。
どうしてそれがあると私が言い切っているのかと言うと、それらがより好みをしているからである。
例えば野生の豚などは餌場と寝床とトイレの場所を分けている。
植物などは光のある方に葉を伸ばし、水のある場所を求めて根を伸ばしている。
これが煩悩がある証拠。
彼らには人間ほどの複雑な煩悩はないかもしれないけれどあるにはある。
当然根っこを引っこ抜かれることを嫌い、屠殺されることも嫌う。
だが、苦痛の伴う屠殺とそうでない屠殺であったならどちらが良いのかはすぐに判る。
両者には差があります。同じではない。

将来的に「苦痛のない屠殺をした肉を使用。」という文言が商品の表示に登場し始めるだろう。
(何らかの働きかけで)

屠殺方法や飼育方法、そして食品ロスについて考えていくことは人類のためになるだろうと私は予測する。
人類の発展のために家畜が存在している説があったとして、人類全てがそれに貢献しているのかという疑問。
食べることに積極的になりすぎる弊害も気にしていこう。
倫理問題に触れない実現可能なことから手始めに実行していくことが人類が少しマシな今生、もしくは来世を掴むための方法だと予測します。

◇ このブログのタイトルにしてある
『釈迦が肉を食べていたのは食肉業の方々を救うためではない。』なんですが、「ヴィーガンのデモ行進がうざい」といったテーマのコーナーに寄せられていた一般の方のコメント欄に「釈迦も肉を食べていました。それはその職業のヒトを救われない人にしないためです。」と書いてあったことが印象的すぎて、その反動でこんなタイトルにしました。
そのコメントを書かれた方は「托鉢」という行為が涅槃に直結する修行であると思っているかのような印象を受ける。そして「涅槃」とは来世の延長上にあるものだと思っているような感じがする。きっと多くの人がそう考えているだろう。


2019.6.9. ©西田夕夏