大乗仏教の煩悩はどのように設定されているだろうか。

煩悩とは仏教では邪魔なものとして取り扱われている。

仏教の目的は真実の安らぎを求めることであるから、煩悩は安らぎを得るには邪魔なものということである。

そして安らぎとは涅槃のこと。

煩悩を消せば安らぎが得られる。

私の家の仏壇にある大乗仏教の一つの宗派である浄土真宗(西本願寺派)を見てみよう。

何が煩悩なのかを記述してしまったら「アウト」というルールが潜んでいるかのよう。
結局どういった事柄が煩悩で、そしてそれをなくせば涅槃に至るという記述はなく、「他力」による救済をひたすら待てと書かれている。

ズバッとはっきり言わないのがこの宗派の特徴のようで、記述内容が多く、いつまで読んでも核心部分に辿り着かない。 結局具体的なことは書かれていない。

この経文の書き手は知っているけどあえて書かないスタイルを貫いている。


だから、その逆から探ってみることにしました。  


大乗仏教ではどのような状態をやすらぎと考えているのかである。

すなわちそれが大乗仏教の考える涅槃である。

この経文にはそれは光と喜びの浄土とある。

コレは私が読み違えたのだろう。

この記述は「例え」と考えるべきなのだ。

光と喜びで満たされた浄土が目的ならば、光や喜びを塞ぐ行為が煩悩であると考えていることになる。

光と喜びの浄土が目指すものであると考えるなら、「釈迦がこの世は無常だから涅槃した。」に反している。
矛盾である。

光や喜びの浄土はまたしても無常の手のひらの上にあることになる。

この経文は「他力」での救済をひたすら待つことを勧めており、「自力」で涅槃することは愚かであるとしています。
なので、あえて具体的な煩悩の記述を書いていないのかもしれません。

「自力」での涅槃方法は現代にも語り継がれており、実際に実施している人もいます。

だが、「自力」での涅槃を実施しているものは、傍から見れば廃人にしか見えない。(場合が多いかもしれない)コレを実施するものが社会に多く出現したら社会は混乱するだろう。

それに「自力」での涅槃方法を知り、涅槃の必要性を知ったとしても、それを選択する者はほんの一握りに過ぎない。

釈迦の説いた救済を求めている人は殆どいないと私は考えている。
多くがこの教えを求める時とは、先の見えないような、悲しく苦しい時代でしょう。

凡夫に必要な救済をこの経文の書き手は考え、あえて「他力」での救済を経文に書き残したと見るべきだと思いました。

が、しかしこの経文に記載されている56億7千万年後に他力の力により全てのものが涅槃に導かれるとあります。

この具体的過ぎる数字は何なのか?(そのことについてはこのブログ内で散々書いていますので興味のある方はどうぞ)

釈迦は自力で涅槃する方法を考え出し、その方法を説き、後世に語り継いで人生を終えた。
56億7千万年後にすべてのものが外部の力で涅槃するなどとは言い残してはいない。

この経文の書き手は最初の仏教以外の媒体からの影響が見られる。

           ©西田夕夏  2019.2.27.