大乗仏教のわかり難さと、輪廻転生について考えてみました。

元々凄くシンプルな発想だった仏教をもの凄く難解にしたのが大乗仏教だと思います。
分かり難くした原因はなかなか涅槃しないせいだと思います。

その解りづらいと思われているだろう部分を私の想像で列挙してみます。

1つ目は極楽浄土と輪廻転生です。
輪廻転生を脱したら涅槃ということですけど、「極楽浄土」という新たな単語を持ってこられると難解になってしまいます。
なので、極楽浄土が涅槃なのだと感じ取ってしまう。
だけど、浄土真宗に書いてある極楽浄土についての描写を見る限り、涅槃ではないようです。
あの描写ですと、無常についてが無視されています。
( この描写から煩悩の内訳が偏ったものになった可能性もある。又、釈迦が生前托鉢して食べたりしていたことも関係していると思います。)
だから、仏教の目的が2つあるのかのように感じ取れます
私は大乗仏教の目的は涅槃するまでの間、できるだけマシな来世を目指して人生を歩むことだと考えています。
極楽浄土とは涅槃ではなく、良い方の来世ではないでしょうか?

2つ目は日本のお墓制度です。日本のお墓は縦長の竿石を置くタイプと5つのパーツを置くタイプがあります。どちらも人体を模したものです。
そこに亡くなった人の御霊を入魂する。
縦長の竿石のてっぺんが頭で、下の方が腰の部分だそうです。(だから昔の人は幽霊には足が無いイラストを書いたんでしょうか? )
5つのパーツのタイプも同じくです。
(同じ石に複数人の御霊を入魂する場合もあります。)
この竿石や5つのパーツの部分にお墓の主の御霊入魂の儀式が僧侶によって行われる。
そして家には亡くなった先祖や親族の御霊が入った位牌が仏壇という礼拝する為の場所に安置されています。(だから何となくそこに霊魂が居るような感覚を殆どの人が持っている。私の家にもあり、何となくそこは他の部屋とは違った緊張感があります。例外の人もあるでしょうけど。)
すると輪廻転生はどうするんだろう?といった疑問をたいていの人が持っているに違いない。
だけど生身の肉体に直ぐに輪廻転生できるのでしょうか?
それが出来ない場合、魂は空中に浮遊することになると考えた為のその防止策だったと思います。

だけどお墓が日本で流行りだしたのは江戸時代からだそうです。
意外と最近で驚く人も多いと思います。
では、それ以前の人たちの魂はどうなったのでしょう。(きっと空中浮揚していたのでしょう。)

自然と魂が消えてなくなると考えるのなら仏教の根柢部分の否定につながります。
もしも自然に消えるのなら仏教徒は即解散することになってしまいます。
お墓や位牌などの存在が凡夫には必要だと考えて江戸時代の僧侶が作ってくれたものだと思います。( 現代では高い買い物であるとの意見や無縁墓問題が浮上していますが、その当時は善意からのものだったと思います。 )

それから、樹木葬や散骨なんてのもありますが。(コレに関してはまた今度ココのブログで詳しく語りたい。 )

3つ目は涅槃は他力で行うのか自力で行うのか、どっちが正解なのか。
だと思います。
実は両方並走して存在しています。
日本は「他力」チームに入ります。
(密教系も涅槃先延ばし型だからそうだと思います。)
他力チームは涅槃する為の具体的なことはしません。
他力での涅槃は浄土真宗の経文によると、56億7千万年後に「ミクロ」と呼ばれるものの手によって全員オートマチック涅槃します。( 畜生などの自力で決して涅槃出来ないような生き物も対象です。 )
だけど、そこの描写の部分がどうもおかしいので、この経文の書き手の想像なのか願望なのかが反映されてしまっているように感じます。
( コレについてはココのブログで過去に書いていますので時間があったら読んで下さい。)

もう一つの「自力」チームは南伝と呼ばれる仏教団体です。
だけど実践しているのは出家僧だけです。
こちらは具体的な涅槃するための実践をしています。
こちらのチームは56億7千万年後迄待たずに涅槃しようとしているのです。
早く涅槃したい場合はこちらへ行くと良いでしょう。

4つ目は因果応報(いんがおうほう)。カルマについてです。
( 最初の仏教はカルマについてはあまり興味がなかったのです。 )
家畜などを食べる行為は生きるためだから大丈夫だと考えられている。
その考えの根底には見守ってくれている大きな存在があるように感じさせる。
だけど、それは仏教的な発想では無いと私は感じます。
それはあたかも輪廻転生が肯定されている様に感じます。

菜食の仏教徒がいたり菜食ではない仏教徒がいたりします。
だけど菜食だから完璧に良いわけでもないのです。
だけど、菜食のほうがマシであると言える。(くわしくはまた今度 )

この世には沢山の生き物がいます。
一つのアクションがそれぞれに相対的に作用する。
なので、一つの存在には相殺されたカルマが出来る。(長くなってしまいそうだからくわしくはまた今度 )

要約すると、少食の方が全体のために良い。( 涅槃するしない関係なく。 )
社会の役にあまりたっていない人ほどそれが義務付けられる。( だけど他人の食生活に口を出すことは今の社会では問題ある行為だから気をつけて下さいね。 )
又、家畜の飼育方法や屠殺の方法が苦痛のない方が苦痛のある飼育や屠殺よりもマシであると言えます。
完璧に良いとは言えないのである。

5つ目は「 畜生道に堕ちる 」という言葉があります。
それは本当なのか否か。
それは反社会的な行為をした人によく発せられる言葉であったように思います。
元々の仏教は涅槃することしか考えていなかったので、来世については特に興味なかったと思います。
だが、大乗仏教はまだ涅槃しないので、こんなことを考えるに至るのです。

私は人間は人間の考えで生きているので、人間は人間か人間に近い存在にしか輪廻転生しないと考えています。人が絶滅しても輪廻転生は終わらない。
人が絶滅したらこの宇宙の何処かの人に近めの生き物に入魂するか人のような存在が新たに誕生すると私は考える。

が・・それは私の考えであって実際はどうかなんて分かりません。

それはさておき、どうも気になる事がある。
それは家畜の豚である。
この生き物は頭がもの凄く良く、そして皮膚が人に近いのだそうです。
更に、豚を食べることを禁じている宗教が多いことににに気味の悪さを感じています。
その禁止した理由が良くわからない。只不浄な生き物であるから食べてはならない。としている。まさか・・人と動物の肉体の間を魂が行き来出来てしまうのだろうか?
だが、昆虫や植物にはさすがに無いと思いますけど。・・

煩悩が輪廻転生の原動力である。
その煩悩とは人間の強欲だけを指すのではない。
煩悩なんて植物や微生物でも持っています。

「食べたい」などの感情があれば輪廻転生する材料となる。

だから食べることが出来る生き物であれば人に限らず入魂してしまうのでしょうか?

更に人間に生まれない要素として、人間社会から遠ざけられる人もその可能性が高くなると思います。
他の人から生まれてきて欲しくないと願われている人がいて、だけどその人は生まれたいという願望を持っている。
これは正確には人間社会がより暮らしやすい状態がいいと多くの人は考えている場合、自動的に利他的な人が求められ、利己主義的な人が排除される。
だが、その利己主義的な人も「食べたい」と言う願望を持っている。
そのせめぎあいの妥協点としての生き物に生まれてくる可能性があると思います。
だけど、利他的な人の親族だった場合、コネで人間社会に人間として生まれてくる可能性もあります。又はその利他的な親族まで人間として生まれることができなくなる可能性も同時に存在する。
(コレについてはまたここのBlogで書きたいと思います。 )

© 西田夕夏 2018.4.14.