少しrebel
それは、人間社会の諸問題を解決するにあたって、自然界の中に存在する
造形やシステムやプロセスを参照することと概ね説明出来る。
要は、自然に学ぶってことだろう。
その結果、一例として
トンボやハチの空中停止という自然現象⇒ヘリコプターの原理を発想
のように「人間は空が飛べない」という漠たる問題であったものが、
具体的に解決されてきている。自然も人間も偉大なわけである。
こうした例は枚挙にいとまがないといえるが、それでもまだまだ可能性が
残っていると思うわけで、例えば「犬の流し目」はどうであろうか?
特に犬を飼ったことがある人は分かると思うが、あの挙動不審な
上目遣いは、おそらく犬の心理状態の表れだとして、
何故、完全に目を逸らすのではないのか?少し目が合うということの意味は?
「少し、反抗心を伝えたい」ということだと思ってみる。
完全に嫌いな人だと睨んだり出来るが、頭が上がらないこともある人には、
僕もこの挙動をしたことがあったからだ。
で、これをどう具現化する?
秋なのさ
「日常をパレードに彩る・・・」とコメントしてくれており、
その言葉が再び引っ掛かっている。当時も今もとても嬉しい。
それは僕が、生活している限り悲しいことは確かに多いのだけれど、
陽水が一時サイクリング・ブギを評して、確か、辛かろうが笑って
一生懸命漕いでいる様が良いのようなことを言っていたのと同じくらい、
否定しそうになるシーンに対し視点を変えて口にしてみようと
思っているからだろう。
とか言いながら、この曲の紹介はいきなり矛盾するかもしれない、
否定のオンパレードだ。まあ、否定だろうが、
優しい芳醇なワインのような稀有な秋の匂いを運ぶのだからしょうがない。
レジ前の変化
こんなことをぶち上げられる位、今日も案の定期待に応えてくれた。
コンビニに入って色んな商品を手に取りレジに向かうと、
列の最後尾の3人目位に収まったのだが、
すぐに列は膨らんで5人、6人となった。
慌てて別の店員が別のレジを開け、「次のお客様こちらへどうぞ!」と必死で叫ぶ。
中々迅速な対応、結構なことだ。
直ぐに僕の前の男性が、移動していき、それ程待たされた感もなく我が会計となった。
実はほぼ毎日会っていることをお互い分かっているのに、接し方を一定に保つ
金髪の青年がいつもの通り、淡々とPOSを操作、僕の方もいつも以上につり銭を
5の倍数に揃えることが出来るお金を用意。
何でもかんでも1000円札出しゃいいってもんじゃない。
それはさておき、期待通りの展開はここからだ。
僕の後ろに並んでいた客。今回は若い女性だった。
会計が今終わらんとするとき、つまり袋かおつりのどちらかを受け取っているが、
未だ両方は完了していない、まさにそんなとき。
僕の目の前にカゴが置かれた。商品そのものが置かれることも多いが、
今回は買い物量が多かったからだろう。沢山商品が入ったカゴだった。
いつものことだが「やってくれました。」と心の中で笑ってしまった。
思ったとおり、レジ前では決まって行動が加速している。
何故だろうかとか考えるよりも、もはや滑稽に感じるようになってしまった。
予想通りな展開ってつまらないことが大半なのに、この行動はもうしばらくは笑えそうだ。
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そういえばレジ前で一番加速したのは、
コンビニではなく某チェーンのセルフコーヒー店でのことだった。
その日レジに向かい合ってからは、およそ最短距離の動作にて
会計を済ませコーヒーを受け取った僕だったが、それでも
後に続いた紳士風サラリーマンを、よけきれなかった。こんなに早いとは!と驚いた。
ただ、残念ながら少しコーヒーカップが揺れ、トレーを濡らしていたのだから、
反則ではある。その点では一番加速した例として不適切かもしれない。
ともかくそんなこともあってかどうか、気がつくとレジ前では加速しないどころか
悠然と待つようにしている。自分の番になってからは最短の動作が出来るように
おおよそ必要な小銭の入った財布を既に手に持ちながら。悠然と。
簡単なことだ、完全に前の人がレジ前を離れる迄は動かないだけだから。
それでも、こういうことが起こる。面白い。
最後に例外というかちょっと変わったパターンを挙げて置く。
前の人が財布にお釣りを入れている途中で加速しなくて、
店員に「次のお客さん、どうぞ!」と呼び掛けられたことがあった。
さすがにこの時は滑稽どころか疲れたことを覚えている。
悠然と構え過ぎたのかな?
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そうこうしている内に、皆目的を終えて、外に出て行く。
店内がテリトリーなわけじゃない。
外を見渡す。
ゆったりと歩いている人も結構いる。ていうか歩くのが遅い人も多い。
ガンバレミンナガンバレ。
俯瞰し置換してみる。
電車の中での痴漢で捕まっている人が思った以上に多いと感じる。
無茶苦茶電車に乗る頻度の高い僕だが、
痴漢をしたことも痴漢の行われる決定的瞬間に立ち会ったこともこれまでなかったので、
最近の報道などから、なるほどこれは日常茶飯事な出来事なのだと改めて認識した。
今回、そんなに多くのケースがあるのだったらと「捕まっている人をセグメントしてみると・・・・・」
と書きたくなってもくるのだが、大体役職や肩書のある人以外は報道されていないのだろうから
どだい無理な話で、やっぱり痴漢をする人に共通する何かを発見し見える化するなんて
徒労過ぎるのでやめにする。
そうなると注目したいのが、痴漢を取り巻く周囲の状況の方になる。
そういえばソースは新聞だが、あることに気が付いている。
それは、大体において被害者が痴漢にあっていることを表明すると、
周囲の乗客が犯人を取り押さえているということだ。
文面から想像するまでもなく、
一致団結の掛け声をあげ皆で取り押さえようという動きではなく、
自然発生的に結果的に一致団結した捕り物となっているように思う。
そしてその結果、犯人が逃げ切ったという記事は未だに目にしていない。
逃げ切った事実があるとして、それを取り上げない報道の問題なのか
それほど世の中が暇じゃないのかどうかはともかく、
複数人の力で確実な成果を上げているのは間違いない。
ああ世知辛い社会にあってその実、人はまだまだ捨てたもんじゃないよと
話を持っていければいいのだけれど、ところがどうだ。
先日、某満員電車に乗っていると、野生化した自己を抑制することなく、
10代の女の子が足を踏んだのに謝らないと言って
「常識がないのか?!おまえらは!」ともはやその女の子だけではない対象に向かって叫ぶ、
酒が入っていない中年ヒゲ親父に出くわした。
自分も含め誰も注意しなかったし、それどころか満員というのにその親父にはわずかだが
追加スペースが与えられるといった始末だった。
「場合によりけりだよ。」と言っちゃえば話は済んでしまう。
だが集団の力を持ってすれば、野生化した親父を何とか出来たかもしれないと思い、
痴漢なら力を発揮出来て野生の親父なら対象外となってしまっていることに目がいく。
例えば親父が女の子や周囲の誰かに対し、言葉以上のアクションを行動に移したのだとしたら、
その力は発揮されただろうと考えられなくもない。
自分も含めそうありたいものなのだが、痴漢に話を戻すと、僕が記事を読んで感じた
一致団結って一体何だろうって思う。
そこにあるのは、怒りなのか?
実際僕が体験した前述の親父には、僕は多少なりとも怒りを感じたし、
周囲も親父から目を背けてはいたが、きっと同じように怒りを感じた人が多いと思う。
僕の場合「うるさいんだ!ゴリラ!」って言いたかったし
「今からお前に姓名は不要だ!今日からお前はゴリポンだ!役所に行け!」
とか言いたかった。ここにあるのは明らかに怒りだ。
痴漢の場合、怒りがあるとすれば「羨ましい!この野郎!」とか「ふざけやがって!」とか
「けがらわしい!」とか「女性の敵!」とか、前述の親父の場合のように
性別を問わない怒りと違って、性別ごとに類型化出来る種類の怒りだろう。
そして多くの男性の場合に限っていえば、僕が男性ということもあろうが、
痴漢に対する怒りは、正直親父の場合ほど露骨に意識出来る怒りではない類だろう。
もちろん怒りを感じないと言っているのではないので悪しからず。
その怒りは何か抽象的な類とでもいうべきか?
ともかく結果的には間違いなく犯人を取り押さえる側に僕は回ることだろう。
だがここにきて痴漢を取り押さえる自分を想像してみると、
そこには怒りというよりも、恐怖があるような気がしている。
「俺はやっていないんだ!」「俺はそんな人間じゃないんだ!」という自己表明。
誰がそうなってもおかしくないという恐怖。
そういや満員電車に乗らざるを得ない通勤途中でも、
周囲を女性ばかりが固めた場合、そして全く移動出来ない場合、
僕は出来るだけ真っ直ぐ上に手を伸ばすようにしていた。
「冗談じゃないぜ、俺は疑われるだけでも不快だぜ!」
こんな風に考えていた。
強がっているけど、これも恐怖だ。
恐怖は嫌だ。会社に遅れていいのなら、次の電車にしたい。
それで実際に次の電車にしようとしたところで遅刻が決定したりして、
思わず会社に電話して休みが取れたりして違った駅で降りてみたり。
すると中々楽しかったりするんだろう。これこそ是非一度やってみたい。
一度くらいやったって、途中下車じゃ人生は変わらない。
でもわかっちゃいるけど乗り続ける。
間違いないのは人生の置換なんて望んでもいないこと。
痴漢で捕まった後じゃそれを望まねばならなくなると思うと、これがまた恐怖だ。
復活に向けて
産声を上げるような歳ではないと言い訳しつつ、久しぶりにアップしてみる。
元々はオギャーと言っていたはずの私だが、今じゃ尾が取れ「ギャー!」なんて、
酔うと嬉しそうに男に抱きつきながら叫んでいたりして、11月を迎えた。
このページを開設したときの仕事を辞め、1年と少しの時間が流れた。
変わらぬ気持ちがあることに気が付く。但しその気持ちは変わっていくべきものだと気が付く。
この1年、あまり既成の音楽、CDが部屋で流れることはなかった。
音楽が嫌いになったわけではない。事実、学生時代がピークだった「変てこな楽曲作り」を
フェンダーの練習用ギターで再開していたし、つい最近も立て続けに自分の中での快作を生み出したりしていた。
結局寝る前の3時間ばかし、夢中になって歌ったりして、翌朝の寝起きが辛いこともしばしばあった。
音楽を好きな人で、音楽を安易に自作する行為に警鐘を鳴らす人がいる。
私はその考えを凄くよく理解しているつもりだ。
たとえばフォークギターがあって、コードが3つくらい弾けたら、すぐに曲を作ろうとする。
私は典型的にこのタイプだった。もっともギターが弾けるようになる前に頭の中で完成している詞先の曲があって
それにどうしてもコードを付け歌いたいというのが、ギターを練習させた動機だったが。
私のような動きではなく、徹底的に作者の気持ちを想像し、完璧に譜面を再現するために徹底的に練習を重ねる。
この結果音が感動を与えるばかりか、演奏者の人間力とでもいうべきものを磨き上げ洗練させていくということは
恐るべき事実だと思う。
簡単に音楽が出来ると思わない。修行だ。鍛錬だ。
そこにある考えはこういったことだろう。
そんな苦労に楽しみを見出せる人を私は尊敬する。
今日久しぶりの記述にあたって、そこに付け加えるのなら
「音楽は変化への意志」だということ。
安易に始めようが、例えば「カンドレ・マンドレ」を歌っていた人は「氷の世界」を経て「少年時代」なんて曲を作った。
大衆音楽だから?
大衆の定義なんて、ここで始めないけど、ようはみな大衆だ。
大衆だからか、崇高さに惹かれたりして、時が過ぎてから崇高さの一部を失っていることに気が付いたりしている。
前は確かに持ってた。幸い全部はなくしていない。
音楽を掛けたくなっている。ブックオフにでもいってみようか。
値段以上にありがたいのが、営業時間だったりする。
復活に向けて。
こう言うと悪いことばかりだったかのようだが、安易に音楽を、そして生活を作ろうとしていたかもしれない。
また聴きたくなっていることに気が付く。
だから書いてみる。
これこそ安易すぎるかもしれないが。
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【amazonを用いない音楽紹介】
脈絡がないようであるような気がする繋がりでもって、
アルバムとアルバムを連続で掛け続けるのは、やっぱり胸のすく思いがするもの。
ipodで加速した楽曲単位志向に敢えて!
1)ZELDA/ZELDA
2)LARRY CORYELL/SPACES
3)MY BLOODY VALENTINE/ISN'T ANYTHING
4)荒井由実/ひこうき雲
思い付く
犬のかわいらしさに参ったっていう人は多いだろう。
先日、ちょっとした本売場に行ったところ、何種類もの犬の雑誌が目に入ってきた。
それで、こんなにあったのかと驚いたかというと、そうではなかった。
ほぼ全て知らない雑誌名ではあったが、何と言うか、納得を覚える名前ばかりで、奇をてらった名前もあったかも知れないが、奇をてらってみたのだなと共感に似た感情を勝手に覚えられる程、本棚への収まりがよさそうな雑誌たちであった。タイトルは1冊を除いて覚えていないが、今回そんな名前については書かない。
はっきりとしたコンセプトから始まったものや、思いつきのものまで、とにかく誰かが誰かと話し合ったり、あるいは誰かが一人で考えたりといった、名付けのプロセスを経てそれらは発売に至っている。
さて、犬と聞いて頭に浮かぶ犬種は人それぞれだろう。私は柴犬のような感じの犬がすぐに浮かぶ。
これは今までの生活体験から導かれたもので、元来私の頭の中に備わっていたわけでは無いだろうが、
時には最初からあったのではと考えることがある。思い付くということを、時にはこのように考えてみたい。
参考程度になろう。
営業関連の書籍がちょっと前から目についてきた。出版メディアの戦略に私が嵌っただけなのかどうかはさておき、女性の著者が多いのが特徴のようで、よく売れているらしい。(こちらもメディアの発表だが。)
私自身、営業を志望し始めた頃、既に営業としてバリバリと働いていた友人に著者は問わないから2、3の営業本は読むべきだと薦められた経験がある。その友人宅にて営業本が本棚に置かれているのを目にしていたこともあり、なるほど彼の営業力の根拠の一つを見つけたような気がして、妙に納得したのを覚えている。そんなこともあってか、営業として働くようになると、そんなに間を置かず2、3の営業本を購入していた。読み終えたのは、もう4年程前になるだろうか、参考程度になったという意味で読んで良かったと思っている。この参考程度にっていうのが、実に侮れない。「とにかく、どんな手段だろうが仕事を獲ってきて!」と似非精神論を叫ぶ社長に面と向かっていたのではストレスが溜まるだろうが、書籍としてその発言を読むのであれば、あら不思議、なるほどと思えたりするのである。もちろん全部とはいわないが、ストレスは溜まらない。これが、参考程度になっているということの一例だ。
「社長、是非本を出してみませんか?伝わりますよ!」
DTBWB
初めて試したタバコがジョンプレーヤースペシャル?いや、マルボロライト?あれっ、マイルドセブンエフケー?ともかくはっきりしているのは、16歳の頃、近所の酒屋で「吸うとやめられなくなるよ。」という言葉と一緒に上記のいずれかを売ってもらったってことだ。
結局初めて試したのがショートピースではなかったわけだが(未だにショートピースをまともに吸った事はない。)、当時「スモーキン’ブギ」をよく聴いていて、「初めて試した云々」の話になると、彼らダウンタウンブギウギバンドが自然と頭に浮かんでくる。それも、鮮烈なレコードジャケットと一緒になってね。
アメリカンなキャップにサングラス、きっとその下の髪は脂ぎった様相を呈しているはずで、不適な面したジャケットのその顔だったが、高校生の僕には刺激的だったわけだ。今思えば、そのファッションではなく、画像から伝わってくる性とか生の匂いに惹かれたのだと感じる。彼はそれらを撒き散らしていて、それに参ってしまったのだと思っている。まあ、当時はMG5こそあれ、ちょっと前一世を風靡したムースだとか」キョウビの無造作ヘア作成用ヘアワックスなんてなかったし、サラサラヘアだって何それって感じなはずだし。ましてや美顔だの考えもしなかったことだろう。
さて、タバコといえば、1本あたりのタール、ニコチンの量は年々低下してきた。若者が吸う銘柄も10年前と今じゃ明らかに違っている。今はきっとハイライト?セブンスター?ましてやショートピース!?みたいな感じだろう。そんなデオドラントでヘルシーでビューティーな輝ける今を満喫する表参道あたりの若者たちを見ると、それでも昼にはハンバーガーをパクついた後タバコを吹かしていたりして、何だかほっとしたりもする。彼らみたく、案外丈夫な若い時分にDTBWBを聴いていたことが嬉しい。ここで酒屋のおじさんの言ったことを転用するが、彼らを聴くと止められなくなるよ。肺まで入れた場合だけどね。
フロッグ=かえる=帰る
皺くちゃの背広に追い討ちをかけるようにして降り注ぐ雨。深夜になって強くなってきた。終電はやはり満員、それどころか当然のように「傘」の乗客が加わっている。あちこちでぶつかる体と傘。もっとも大半は背広と傘。
みんな働いている。こんな言い回しは、生まれる前から雨のように繰り返されてきたことだろう。
背広といえば古臭い言い回しを使ったかもしれない。大半は背広なんていったら世の女性は私たちだって終電まで働いていると反論するかもしれない。確かに女性も老人もフリーターも乗っている終電の各駅停車○○行き列車だ。
ここで、男性社会とか女性の社会進出とかについて深く言及する気はない。終電まで働いていることを悲壮感をもって描写したいわけでもない。でも結局前置きが長くなってしまったようだ。
雨の日にはほぼ万人が傘を持ち歩く今、この終電車の中のほぼ万人が望むこと、それは早く下車したいってことだろう。夕方から終電を覚悟しなきゃいけないことは、予期しない深夜の雨よりも重苦しいものだろう。男性社会の中でキャリアアップを突き進む女性も彼氏の帰宅をえんえんと待ち続けてたりするはずだろう。
早く帰ること。早く帰れる仕組みを作ること。それが言いたい。それが出来れば、色々な雲が晴れそうだと思う。