あなたが皆と共有しているゴールは心の平安の達成である。

 

あなたがこの世界で何らかの達成を望むのは安心できると思っているからだということを忘れてはならない。

 

だとすれば平安こそが心を救う唯一の道だということなのである。

 

あなたは心の安全を保つことにどれだけ注意を向けているだろうか。

 

肉体の安全にならあなたはいくらかの注意を向けているかもしれないがあなたの投資先が分裂しておりしかもその2つのゴールがお互いに相容れないものだとしたらどうなるだろうか。

 

天国と地獄のゴールの両方を同時に達成することは誰にもできない。

 

2つの世界を同時に見ることが可能かどうかを難しく考える者はいない。

 

あなたには自分が望む平安があると信じている世界を見ることしかできない。

 

それはあなたがそれがそこにあると信じているからでありそれがそこにあって欲しいと望むが故に信じるからである。

 

あなたが見ている世界に安全が存在しないことは明らかなことではないだろうか

 

時間が終わりを定めている世界で安心できる者は誰もいない。

 

そのような世界では取り越し苦労は世の常だからである。

 

自分の未来について完全なる安心を保証する何があるというのだろか。

 

自身の好みにあった状況をいくら作り出したところでその土台となるものが同じなのであれば何の意味があるというのだろうか。

 

無常の世界に永続するものは何もないのである。

 

安心(自由)は何を原因とするものだろうか。

 

恐れ(苦痛)は何を原因とするものだろうか。

 

安心は必ず無罪性を原因とするように恐れは必ず罪悪を原因とするということを覚えておいて欲しい。

 

そしてあなたが本当に望んでいるのは安心なのだということも忘れてはならない。

 

だとすればあなたの望み(ゴール)を達成する手段は自身に無罪性を受け入れることではないだろうか。

 

それがあなたが見ることができるすべてとなることがあなたに安全をもたらすのである。

 

だとすればあなたには無罪性を受け入れることについて学ぶ必要があるということなのである。

 

目的を達成するには必ず手段が必要であるならばその手段について学ぶ必要があることは明らかなことではないだろうか。

 

過去においてのあなたの学びはあなたの望みを全く叶えることができなかったことをあなたは自覚する必要があるのである。

 

もしあなたの学びが正しいものであればあなたは今も安心を追求しているはずはないからである。

 

あなたの望む平安が地獄にあるのか天国にあるのかと問われてあなたはそんなことは考えるまでもない思うかもしれない。

 

しかしあなたが自分が何であるかについて間違っているとしたらどうだろうか。

 

罪を信じている者が平安を追求する世界は地獄だろうか天国だろうか。

 

自身の心に攻撃を受け入れている者は被害者意識を正当化するために必ず罪悪を追求することになる。

 

それは自分が被害者であることが自身の無罪性を証明すると信じているからである。

 

攻撃することは傷つけるという意図なくしてできないものであることは明らかなことではないだろうか。

 

だとすれば攻撃する者は必ず最初に自分自身を攻撃しているはずだということになるのである。

 

もしそうでなければ攻撃することには何の意味もなく何の結果ももたらすことはないということになるはずだからである。

 

そうだとすれば他者でも何でも攻撃する者が自身の内に見たものとは何だったのだろうか。

 

無罪性だろうかそれとも罪悪だろうか。

 

あなたにはその2つを見る見方があってそれぞれに完璧に役立つ手段があるのである。

 

罪悪を追求する者は肉体だけを見る必要性があることに明らかなことではないだろうか。

 

だとしたら無罪性を追求する者は肉体を見ることはあってもそれを越えたところを見ることを選択しているはずである。

 

平安とは肉体とは何の関係もないものだからである。

 

あなたの肉体の眼は肉体がしていることしか見ることしかできないのであるがあなたにはそれをどう見たいのかを選択することができるのでありその選択をする責任があるのである。

 

あなたのゴールが平安でありその達成の手段が自身に無罪性を受け入れることだとすればあなたが苦痛を感じている状況で罪悪を追求することは明らかに自身のゴール達成に対して役立つものとはならないはずである。

 

あなたは自分が苦痛を感じている理由を正しく見ることが要求されているだけである。

 

あなたの過去の学びに基づいた判断によると苦痛がもたらされている理由は外的要因を原因とするものであるがこの学びがあなたに成功をもたらしたことはなかったことを認識しなければならない。

  

それがあなたに平安をもたらすことは一度もなかったからである。

 

そうだとすればあなたは自分が考えているような理由で苦痛を感じているのではないはずだということは明らかなことではないだろうか。

 

あなたが苦痛を感じているということそして苦痛の原因は罪悪だとすればあなたはすでに自分自身に対して有罪判決を下しているということになる。

 

あなたはすでに自分が何であるかについて間違った選択をしているはずである。

 

この選択が原因であなたは苦痛を感じているのであり決してあなたが知覚している外的要因の影響ではないということなのである。

  

それがあなたの下した決断なのであるがあなたはその決断に全く気づいていないのである。

 

これはあなたの心が下す決断があなたにとって無意識のレベルでなされているからであるがあなたは自分の心が下した決断に気づていくことができる。

 

それが明らかに間違ったことに起因するものだとすればあなたはそれが訂正されることを望むのではないだろうか。

 

あなたの無罪性を証明するのはあなたの過去の学びにおいては罪の実在性を証明することだったのであるがあなたには今見るものを選択することができるのでありあなたはその選択をする必要があるのである。

 

それはあなたには自分が見たいと望むものしか見ることができないからである。

 

あなたの無罪性を証明できるのはあなたが敵にしてしまった者の無罪性ではないだろうか。

 

あなたが罪悪に焦点をあてている時にどうしてあなたに無罪性を見ることができるだろうか。

 

罪悪を追求する限りそれを攻撃することは必然の成り行きではないだろうか。

 

あなたが気づいていないことは攻撃することは必ず罪悪感を強化するということである。

 

先ほど述べた通り攻撃する目的は傷つけるためだからである。

 

外側に見られている罪を取り消すことは誰にもできない。

 

それはいつまでも忘れずにおかれるのではないだろうか。

 

あなたが今も罪悪の魅力に惹かれているのでなければあなたが苦痛を感じることはあり得ない。

 

あなたが罪をゴールとしているのでなければあなたに見ることができるものは何だろうか。

 

それはあなたの肉体の眼には見ることができないことは明らかなことではないだろうか。

 

平安は肉体とは何の関係もないのであり心に関するものであるならば心の眼を通して見ることができるもののはずである。

 

例えば光に眼があるならば何が見えるだろうか。

 

それが見ることができるものはそれ自身と同一のもののはずではないだろうか。

 

光は光を見るのであり闇を見ることはできないのである。

 

神はあなたに見るようにと神が今も愛してやまない最高傑作をあなたに与えた。

 

それが見ることができる眼もあなたに与えられている。

 

だとすればあなたがそれを見るために必要なことはあなたが神からの贈り物を見たがっているかどうかの問題ということになる。

 

あなたがそれを望むなら必ずあなたには見ることができるからである。

 

そしてそれは必ず成功する。

 

あなたが神の意志を自身の意志とする時に不可能なことがあるだろうか。

 

神があなたに望むことであなたにできないことなどあるだろうか。

 

神は失敗しない。

 

あなたが神と共に着手することだけが成功するのである。

 

今までもそれ以外に成功するものは何もなかったのである。

 

神にとってあなたの過去が何だというのだろうか。

 

神が知っているのは今のあなたであり神が望む通りのあなたである。

 

あなたの過去は文字通り過ぎ去っているのである。

 

だからあなたには見ることができる。

 

神が神の子に与えた無垢性をあなたには見ることができるのである。

 

わたしと一つであり聖なる神の子であるあなたの心に常しえの平安がありますように。

 

愛と感謝そして祝福をこめて。

 

発芽レイキアカデミー認定レイキティーチャー、Blessing Reiki Academy代表 谷端光博