私たちの旅は平安への旅であるということを、忘れてはならない。
その単一の目的において私たちの心は一つであり、私たちの意志は統一されている。
統一されたゴールを達成しようとする私たちは幸いである。
統一されているがゆえに、私たちの意志は神の意志と一つのものだからである。
私たちが神と共に取り組むことが失敗することがあり得るだろうか。
神には如何なることも可能であり、神が意志することだけが唯一達成可能だからである。
統一されたゴールを目指す私たちには達成するために必要となるすべてが与えられており、私たちが助けを求めて、その答えが与えられずにおかれることはない。
私たちはその答えを受け取っていないと思うことがあるかもしれないが、私たちの方がその答えだけを望んでいるだろうか。
私たちが問題を望んでいる限り、まだ聞かれていない答えが私たちを待っているのである。
神が意志することはすでに達成されているからである。
私たちは一つの声だけを聞くことを学んでいこう。
私たちの心は一つの主人に対して忠誠を尽くすことしかできないからである。
私たちは心を訓練することにより、苦しみから逃れるための多くの答えをを聞くことができるようになっていく。
私たちは答えを求めたのであり、問題を求めているわけではないからである。
私たちは求め、神は答えた。
神の答えの前にあって、解決されない問題があるだろうか。
神の声がその答えである時に、別の声に耳を傾けているのであれば、私たちはその声を聞くことができない。
2つの声を受け入れている心は葛藤から逃れることができない。
心が葛藤から逃れるためには、一方をだけを選択することにより、もう一方を放棄することを学んでいく必要がある。
私たちは統一された共有するゴールを知っている助け主の声だけに、耳を傾けることを学んでいくことで、平安を見いだすことができる。
確かさの原因から与えられている、その助け主の学びは一貫しており決して矛盾することはない。
一貫した学びが一貫した経験をもたらし、その一貫した経験が信念となり、私たちは一貫性のある世界を見いだすことができる。
混沌を生み出すだけの助け主の声は問題を作り出すことしかできない。
何も知らない助け主の声に耳を傾けてきた私たちは、間違ったことを学んできただけであり、その学びは取り消すことが可能である。
もし私たちが学んできた学びが正しいものであったなら、未だに苦しみから逃れることができないことを疑問視するのは難しいことではないはずである。
私たちが望んだものを与えることができなかった助け主にしがみついていても、何の利益があるだろうか。
私たちは単に自身の望むものに対して正直になって見直しているだけであり、何の利益ももたらすことができなかったものに対して正しく判断しているだけである。
私たちのために用意された道は、暗く寂しい孤独な道ではなく、すべてが明瞭であり皆が共に歩む光の道である。
私たちは学ばれた闇のレッスンのすべてを光のもとに運び、光の中で再びそのレッスンを見ることを学んでいこう。
今、私たちには見るための光がある。
光の中で解決されない問題などがあるだろうか。