その激烈な作風で幾度となく世界を騒がせてきた鬼才。
ラース・フォン・トリアー監督。
日本では『ダンサー・イン・ザ・ダーク』など、鬱映画のイメージが強いトリアー監督ですが、実はカンヌ国際映画祭をはじめ、世界的に高く評価される監督の1人でもあります。
今回オススメするのは、そんなトリアー監督の一作、
『ドッグヴィル』です。
『ドッグヴィル』もまた他のトリアー監督作品と同じく、
極端に賛否が分かれている作品で、口コミの中には「よくわからなかった」というような声も散見され残念でした。
というわけで、このブログでは映画『ドッグヴィル』について、
あらすじ、感想&解釈、気まずいシーンはあるか??などなど、私なりに詳しく解説していこうと思います。
おすすめ映画紹介
『ドッグヴィル』(2003)
ラース・フォン・トリアー監督作品
目次
※PCブラウザ版の方は目次クリックで該当記事まで飛べます。
1言テーマ(1文感想)
気まずさ指標
製作データ
『ドッグヴィル』
監督……ラース・フォン・トリアー
感想
『ドッグヴィル』には、『ドッグヴィルの告白』という、キャストやスタッフによる編集後記のようなドキュメンタリーがある。
DVDにはその予告だけが付いていたので再生してみたところ。
「神様誓います、もう二度とこの監督と仕事はしません」
「彼は頭がイ○れてる」
「何を考えているのかわからない」
そう、トリアー監督はイ○れている。イ○れていなければ、この脚本が書けるはずがない。
何を隠そう、『ドッグヴィル』は古今東西のおおよそ作家、哲学者、芸術家と呼ばれる人種の全てが、恐らく
一番描きたくないであろう物語
の一つなのだ。
しかし、描きたくないということは、決して描かなくてよいということではない。人の心の世界が続く限り、いつか誰かが描かなければからなかったそれを彼は雄弁に描ききった。まずはそのことに対して最上の敬意を示さなくてはいけない。
時は大恐慌時代、アメリカのロッキー山脈に位置する小さな街『ドッグヴィル』。
ドッグヴィルには、楡通りと呼ばれる通りを中心に20人程度の住人が住んでいる。住人は皆人並みに欠点を抱えていてお世辞にも思慮深いとは言えないが、基本的に善人だ。
村に産業は2つしかなく、その暮らしは決して豊かではない。
しかし、住人はやらねばならない仕事をこなし、貧困と呼べるほど貧しくはない、牧歌的な生活を送っていた。
ドッグヴィルに暮らす、隠居した医者の息子トムは偉大な作家を目指しモラトリアムを満喫しているが、執筆は禄に進んでいない。彼は村の精神的・道徳的な指導者になるべく、定期的に住人を集めて集会を開き、彼らに倫理や道徳を説いているが、その成果は芳しいとは言えず、次の集会を控えたトムは、村人に「彼らが寛容ではないこと」を納得させるための実例を探していた。
するとその日の深夜、村の近くで銃声が響いた。音に気が付いたのはトムだけで、トムはギャングから逃げてきたという美しい女、グレースと出会う。グレースを追って、村にやってきたギャングに対して、トムはグレースを咄嗟に隠すと、彼女を探し求めていた「実例」として利用することを考えつく。
早速翌日の集会で、トムは村人にグレースを匿うことを提案する。村人はトムの考えに懐疑的であったが、トムの父親が出した助け舟に乗って、最終的にトムと村人はグレースを2週間匿い、彼女の人柄を知ってから改めて彼女を匿うかどうか決定するということで合意する。
翌日からグレースは、働きたいとそれぞれの家を尋ねるようになった。しかし、ドッグヴィルは狭い街で、特に大きな産業があるわけでもない。村人は皆一様に「ありがたいけど、やってもらいたいことがない」と言っていたが、彼らは次第に「特にやる必要はないが、やらない理由もない雑用」をグレースに任せるようになる。
グレースは懸命に働いた。働く日々の中で、グレースは次第に村の生活を愛し、村人を(その欠点すら)受け入れ始める。そんなグレースを村人は次第に受容して行き、2週間後の投票では見事全会一致でグレースを街に置くことが決定した。
そんなある日ドッグヴィルに、警察がやってきた。警察は行方不明者として彼女の写真を貼りにきたのだ。警察に協力すべきでは?という意見もあったが、ギャングは警察にも影響力を持つということで話は纏まる。それから暫くは平穏な日々が続き、村人は彼女に感謝して報酬を支払うようになる。
それから警察がドッグヴィルを再び訪れたのは、アメリカ独立記念日だった。その時は少し事情が変わっていて、警察はグレースを2週間前の銀行強盗に関連しているとして手配書を貼りに来たのだ。
2週間前といえば当然グレースは村にいた、つまりこれはギャングの陰謀にほかならない。村人はすぐにそう理解するが、「迷惑はかけられない、出ていけと言うならすぐに出ていく」というグレースに対して、村人は緊急の集会を経て、彼女を匿うことのリスクが上がった見返りとして、賃金を減らすことと、労働時間を増やすことを要求する。
グレースは自発的な奉仕活動が、徐々に強制力を持ち始めたことに違和感を覚えつつも、村人らへの感謝からこれを受け入れる。
しかし、これを堺にグレースに対する村人の対応は変わりはじめる。村人は弱い立場である彼女を、次第に奴隷のように扱いはじめ……。
※以下ネタバレの可能性有り※
解釈
セットとナレーション
ドッグヴィルの撮影は全編、写真のように地面に線を引いただけの簡素なセットで行われた。
ドグマ95の『純潔の誓い』などにみられるように、映像による「誤魔化し」を嫌うトリアー監督らしいといえば、らしいやり方だが、俳優に高い演技力が要求されるというデメリットはあるものの、このセットを用いたやり方が、少なくともこの作品において絶大な効果を発揮していることは言うまでもない。
このやり方でトリアー監督は、閉鎖されたコミュニティにおける、全てを見透かせるほどに距離が近いのにも関わらず、近くで起こっている重大な出来事には、壁一枚挟めば(もっとも映画ではその壁が透明化されているわけだが)なにも干渉できなくなるという、なんとも言い難い奇妙な距離感を見事に表現してみせた。
これについては詳しく後述するが、この「すべて見透かせるが、直接干渉はできない。」という感覚、意図的に映画という構図を誇張しているように解釈できないだろうか?
そしてこの上にさらに加わるのは、これまた一般的な映画とは決定的に異なる特異なナレーションである。
本作のナレーションは、状況の説明どころか、それぞれの登場人物の心情すらも、かなり詳しく解説してしまうのだ。
人間の悪徳を赤裸々に描写し、目を背けたくなるような描写も散見される本作において、そのようなナレーションは、村の一員ではない我々に、臨場感を持って状況を理解させる上で極めて効果的であり、わからない(フリ)という逃げ場すらも徹底して潰しているところに、トリアー監督の「解れ」という強い気迫のようなものを感じる。
社会の中の醜悪な人間
まずは、本作のレビューにおいて、一番多く語られているのはこれだろう。「この映画は人間の邪悪さを赤裸々に暴き立てている。」これに関しては誰が見ても明らかなことだと思う。
基本的に善人として描かれていた村人が、欲望のままにグレースを蹂躙しはじめる決定的な転換点となったのは、奉仕が労働へと変化し、労働条件の悪化をグレースが受容したことにより、よそ者であるグレースと町の人々に明確な上下関係が生まれた地点からであることに疑う余地はない。
しかし、グレース来訪以前のドッグヴィルにも、立場の低いものは存在したし、よそ者もいた。
トムの隣人である黒人女性は、障害を持った娘を養っているが、彼女はトムの家の掃除婦であり、トムの父が善意から母娘を家の離れに住まわせていることが序盤に説明されているし、果樹園の主人もまた、グレースと同じように都会から来た人間であることが明かされている。
彼らもまた、グレースと同じように虐げられる可能性があったわけだが、実際にそうはならなかった。
つまり、グレースがあそこまでの扱いを受けるに至ったのには、何かもう一つ別の原因があると考えられる。そしてその原因はおそらく、グレースが村に訪れたことにより村がある一線を決定的に超え、よそ者を迎える土壌が決定的に変化したことだろう。
映画を見返してみると、ドッグヴィルでは、「生きること」に繋がらない営みが徹底して村から切り離して描かれていることがわかる。
商店に置かれたインテリアの人形は埃を被り、売○は外の街で行われ、村の伝道所に神父は不在で、伝道所を管理する女のオルガンの練習は、オルガンの使用には申請がいるからと無音で行われる。
もっとも例外的に、小説を書き、ボードゲーム(とはいえ実力は一方的なもの)をやり、道徳を語るのがモラトリアム満喫中のトムなわけだが、少なくともトムの家以外は生きること以上のことにうつつを抜かす余裕がないわけだ。
しかし、そこに現れたのが「余剰な」労働力であるグレースである。そして、村人がグレースに与えた労働は「やる必要はないが、やらない理由もない雑用。」、これにより村は「生きるために不要なことをやる」という一線を明確に超えたわけである。
グレースは給料を貯めてインテリアの人形を買うし、グレースは盲目の老人の話し相手になるし、グレースは子育てに忙殺される妻が学問の講演に行くための余暇を生み出すし、グレースは全く成果の出ない技術の勉強を手伝うし、グレースはトムがボードゲームで遊ぶ相手に助言をして実力を拮抗させるし、グレースは女のオルガンの練習に付き合い、「空気を通さないとオルガンが駄目になる」と、ペダルを踏む役をやることで無許可でオルガンを使用した共犯になる。これらは全て、「やらない理由もないが、やる必要もないこと」に他ならない。
ただ生きていくだけならば必要なものは有限だ。しかし、それ以上のものを求めるのならば、人は無限の欲望を抱えて生きていくことになる。奇しくも村人にその火を初めて灯したのはグレース自身であったわけだが、その結果はじめて、村にはトムが与えようとした倫理道徳が必要になったのである。
道徳の苦痛と限界
道徳をやろうと思えば一定の苦痛が要求される。
この世に完璧な人間などいない以上、道徳をやるなら、何かしろ自分を顧みて、自分を否定する必要があるのだから当前だ。
冒頭に描かれる、既に失明しているが、そのことを隠すために家に引きこもっている老人の存在が、何より自分の欠点を認めることの難しさを雄弁に語っている。
老人が失明してることを知っているグレースが、ある日そのことを遠回しに指摘したところ、老人は酷く気分を害した様子だった。
結果的に老人は盲目を認めて、引きこもることをやめることで以前より明るく生活するようになったわけだが、下らない片意地ならともかく、ここで認めなくてはいけないのは自分が悪であることなのだからそう簡単にはいかない。
象徴的なのは、ところどころ違和感のある言動を見せつつも、最初から道徳の重要性を解き、恋人として最後まで彼女に手を出さなかったトムの陥落である。
その実最初からトムが行っていたのは、自身の道徳の正当性の証明であって、その実践ではなかった。
トムがグレースと共に働いていれば、物語は一旦の解決を見せただろうし、トムは働いておらず、それができるだけの余暇を持っているのにも関わらず、それをやらなかった。
そしてその上でトムは、もっともらしい理由をつけて、グレースを切ることにした。
なぜならグレースの存在は、彼の善性を揺るがしてしまうから。
この地点で村の道徳は陥落したわけである。
トム、グレース、村人、映画
この映画、村人の置かれた状況が、わかり易すぎるほどに映画的すぎやしないだろうか。
この映画の冒頭を一言に纏めるとこうなる。
「さて、ここに行き場のない美女がいる。
可哀想な彼女に皆は優しくできるかな?」
愚かな大衆は、最初はヒロインの状況を憐れみながらも、憐れんだことで自分はスクリーンの向こうの奴らとは違うと満足し、物語が進んで事情が変わればそんなことはすっかり忘れてしまう。
日頃から道徳に親しんでおり、グレースを物語に仕立て上げたトムですらも、その目的は欺瞞であった。(トムは実際に一連の出来事を小説にしようとしていた。)
しかし物語終盤、グレースと父親の会話で(我々はこの映画において、まともに葛藤のある会話をここで初めて聞いたのではないだろうか)、グレースもまた俯瞰した視点を持っていたことを知る。
その視点は観客そのものの視点というより、映画そのもの、つまりは語り手の視点に近いもののように思う。
つまり言ってしまえば「ドッグヴィル」は、トムとグレース、共に自分の道徳と善性を証明しようとする、二人の語り手のチキンレースのような物語なのではないだろうか。
他人に自身の道徳を認めさせるのか?それとも他人の悪徳を認めるのか?どちらが傲慢か?
答えは両方とも傲慢で愚か。
トムの狙いは失敗するし、グレースはあの様。
じゃあどうする?
語り手の覚悟
グレースの父は、背景を考慮して赦してしまうことで、その者に自身を顧みる機会を与えないグレースを傲慢だと叱る。
この一連の父親との対話シーンは、グレースがおそらく初めて主張らしい主張をするシーンであるが、その内容によってグレースの寛容の正体が明らかになる。
村人とグレースの間に上下関係があったのとは別に、グレースもまた、道徳に欠ける村人の精神性を見下していたのだ。
自らを顧みることができない村人が下の者を蹂躙したのに対して、自らの矮小さを自覚し自身を罰することで、自身の善性を確立しようとしていたグレースは、毅然とした態度を取らずに、自身よりも無道徳だと思う者すらを寛容に受け入れた。結果的にその無責任な寛容が自己を顧みる機会を奪い、(少なくともグレースの道徳観において)どうしようもないほどに村人を堕落へと導いたわけだ。
そして彼女は父との対話で、自身の寛容が自身の道徳の実践ではなく、道徳的対立を避けるための欺瞞であったことを悟り、自らの手による断罪を決意する。(思えばトムにより用意されたグレースによる告発も、真実の告発であって、グレースの道徳的主張とは違うものだと解釈することができる。さらに言うなら、そもそもトムの道徳講義が、やたら腹立たしいものとして描かれていたことも、道徳的対立を予期させる意図があったのかもしれない。)
これこそが
『語り手の覚悟』
である。
道徳を主張するならば、断罪にその手を汚す覚悟が必要なのではないか?勿論これはある種の比喩であるが、主張という行為に対して生まれる善悪や正誤といった評価以前の問題として、そういう純粋な対立への覚悟のようなものが必要とされるのではないか?無責任な寛容は毒にしかなり得ないのだ。
皮肉なことにグレースはこのことを、父娘の道徳の対立から学んだ。それは純粋な唯の覚悟であって、その果てにグレースが下した裁きは、その是非という点において議論の余地が残るであろうものだが、少なくともグレースは覚悟を持って、ドッグヴィルは悪であると主張したわけだ。
自身も鬱を患った経験を持ちながらも、所謂鬱映画と呼ばれるような、救いのない作品をいくつも発表したことで知られるトリアー監督だが、その作風もまた、観客に無責任な寛容を与えるのではなく、主張すべきことを主張し、描くべきことを描き、与えるべき苦痛を与える、というトリアー監督の覚悟の現れなのかもしれない。
少なくとも映画は我々の家を焼き払わないし、我々に銃を突きつけない。我々映画村の住人は、そんな「非力」な映画と寛容に向き合えているのだろうか?
鬱映画に心を閉ざすのは簡単だが、覚悟を持って彼らの主張と対立することこそが、自己を顧みる一歩なのかもしれない。映画の見方に答えはないが、くれぐれも覚悟のある語り手に恥じない、覚悟のある観客でありたいものだ。
以上、妖女のおすすめ映画感想でした!!
もし、この映画に興味を持っていただけたら
この映画は現在(2023年5月)主要なサブスクでは
配信されていないようなので
DVDは如何でしょうか?
私も本作はDVDを所有しておりますが、
本作が皆様のコレクションをより豊かにする一作であることは
疑う余地のないことであると思います
また、本ブログ「醜悪人生劇場」を気に入って頂けましたら。
お買い忘れの日用品など、
ここからご購入して頂けると嬉しいです。
※この記事で引用した写真は、
すべて『ドッグヴィル』日本語版予告より引用したものです。
またね